#04 首なし鶏(2) 1/2



 先んじて下水道まで出る鉄筋階段へ移動していたマイクに、ようやっとイヴとオズワルドは合流する。ずいぶんと待たされていたマイクは愚痴の一つでもこぼしてやろうと思っていたのだが、やってきたオズワルドを見て、別の言葉をもらすこととなった。
「あれ、君、その格好、どうしたの?」
「哀王にもらった」
 イヴも、オズワルドの身にまとう、哀王からの餞別、、を見遣る。
 左手を覆う革製のハーフフィンガーグローブは、オズワルドの細い肘まで延びており、ベルトによって固定されている。可憐な右肩を前後に跨ぐのは、セーターの広いえりりを吊る、革製のベルトのストラップだ。そのストラップの尾は、金のブローチにより、オズワルドの胸元で留められてある。
「なんでくれたんだろ。ブローチも、女の子の好きそうな意匠デザインじゃないけど」
 そう首を傾げるマイクに、イヴは、先刻の彼の奇天烈な口説き文句を思い出す。オズワルドのおののいた様子まで浮かびあがり、いったいどの口が女性の好みを語るのかと思ったけれど、「そうだな」と言うにとどめた。
 そうしているうちに、三人は亜終点の天辺てっぺんまで辿りついた。イヴは天井の蓋を開ける。一人ずつ身を捩らせ、下水道まで出た。薄暗い空間にはどこまでも醜悪な臭いが広がっている。イヴはライターの火を点けた。地上へと繋がるマンホールを探す。すると、ややあってから、水音にまぎれるかすかな足音を、マイクが聞きつけた。
「誰かこっちに向かってくる……」
 マイクの声がわずかに反響した。マイクは両手で口元を押さえる。そばにいなければ聞こえないような小声で、イヴは「アンプロワイエ?」と呟いた。
「わかんない」マイクも小声で返した。「でも、そうじゃなきゃ、こんなところまで来ないよね」
「ジャンヌからもらった地図によると、地上までのルートは多数存在する。こっちは危険だ。別のルートから出よう」
 踵を返した三人は、地下水路の迷宮を歩きつづけた。歩道や配管などの整備はされてあったが、ノドロンの生活汚水を一手に引き受けるこの空間は、衛生的に最低だ。ひどい汚臭を放つ巨大な油脂塊ファットバーグがあちこちにこびりついている。ごみと油脂とが固まった最悪の臭いに、マイクもオズワルドも顔を顰めた。
「うえっ、くっさい。気絶しそう」
「有毒ガスを発生させることもあるし、まともに食らえば本当に気絶するかもしれないな」涼しい顔のイヴは続ける。「そうでなくとも油脂の塊だ。密室に近いこの空間だと、火を放てば一酸化炭素中毒、運が悪けりゃ地上のマンホールが吹っ飛ぶような爆発が起きるだろう」
 マイクはイヴの手に持つライターを見遣った。煌々とした火が灯り、イヴが歩くたびに靡いている。マイクの視線に気づいたイヴは静かに笑んで「試してみる?」と言ってみせた。マイクは苦笑いして「やめて」と答えた。
 しばらく進んでいくと、曲がり角の先から複数人の足音がした。イヴとマイクの二人は来た道をわずかに辿り、手前の角へと。オズワルドは傷んで崩れ落ちた壁面の煉瓦れきの影へと隠れる。
 イヴが足音のほうをそっと覗きこむと、カンテラを持った男たちがいた。
 その全員がアンプロワイエの制服を着こんでいた。
 アンプロワイエは三人。相手取れない人数ではないとイヴは判断する。この場を退いたところで、先ほどかわしたアンプロワイエと対面することが見越された。ならば、とオズワルドを見遣ると、オズワルドはすでに背負っていたガンケースから中身を取りだしていた。
 中折式ブレイクアクションスプリングエアライフル。ワンアクションで空気と発条バネを圧縮し、威力を発揮する、哀王から譲り受けた品物だ。轟々と金光りするサイドプレートは、離れていても、イヴのライターの火を反射している。
 オズワルドはそれを抱えながら、尾栓ブリーチを開け、薬室に弾をこめる。垂れさがっていた銃身バレルを元の位置にまで戻すと、心地好ここちよい金属音が鳴った。オズワルドはエアライフルを構える。戦闘態勢コンバット・レディ
 マイクはぎょっとする。膝射しっしゃの姿勢を取り、アンプロワイエへと銃口を向けるオズワルドに、声にならない悲鳴を上げていた。しかし、オズワルドは表情も変えず、瞬時に引き金を引いたのだった。
――― ぐあっ!」
 弾は見事に命中した。アンプロワイエの一人が脇腹を押さえて崩れ落ちた。残りの二人も周囲を警戒しはじめる。オズワルドはまた陰に隠れ、次弾の装填をする。一連の様子を見て、イヴは「ああ、なるほど」と顎に手を添えた。
「哀王からの餞別は、シューティング・グローブとバットプレートの代用品か。たしかに獲物、、を使うときにはあったほうがいい」
「そんなこと言ってる場合!? 人間ひとを撃ったんだよ!?」
 マイクは蒼褪めた形相でイヴの腕に縋りついた。
低致死性弾レス・リーサル・ペレットだ。死にはしない」イヴは縋りつくマイクの手をやんわりと剥がす。「ジャンヌの開発品だ。着弾と同時に高圧電流を発し、相手に電気刺激を与えるらしい。電圧90万Xボルト、電流4mミリアンペア、撃たれたような激痛と痺れはあるだろうが、じきに引く程度の威力だよ」
 アンプロワイエの一人が懐からピストルを取り出したが、オズワルドはそれよりも早く引き金を引き、相手の手からピストルをはじいた。ピストルは宙を舞ったあと、水溜まりへと落ちる。アンプロワイエは撃たれた手を呻きながら押さえた。連撃されたとあり、いよいよアンプロワイエは、「誰だ!」と吠える。まだ撃たれていないアンプロワイエもピストルを構えた。周囲を警戒するようにして、三人のもとへ近づいてくる。一方のオズワルドは、エアライフルの装填を終えていなかった。エアライフルは単発式のため、スムーズな発砲ができない。イヴは内心で冷や汗を掻く。
 水路の両角までにじり寄ったアンプロワイエが、イヴとマイク、オズワルドの、どちらにも気づいた。両側に一度ずつ首を振り、目を見開かせる。
 しかし、その動揺のおかげで、オズワルドは間に合せることができた。
 カシャン、と銃身バレルを元の位置に戻した途端、引き金を引いた。弾はアンプロワイエの鳩尾みぞおちに命中した。
 呻きながら膝をついたアンプロワイエに、イヴは歩み寄った。首元を蹴りあげることで完全に意識を奪った。先に撃たれていた二人のアンプロワイエも、首を踏みつけて気絶させる。その場に立っているのはイヴとオズワルドとマイクの三人だけだった。
「顔を見られたな」イヴは言う。「覚えられていたら終わりだ。オズワルド、さっきの弾を脳天にかましてやれ。こいつらの記憶を飛ばそう」
「さすがに死んじゃうよ」
「とにかくここから出よう」先にアンプロワイエの来た道を辿っていたマイクは二人に告げる。「あっちのほうから雨音がする。地上に繋がるマンホールがあるんだよ」
 三人がその道を行くと、雨と光の注ぐマンホールの穴があった。しかし、その穴の少し奥にある、凶悪な油脂塊のほうに、三人は目を奪われた。下水道を塞ぐほどの巨大さで鎮座している。ネズミやハエがたかさまを見て、オズワルドは「ヒィ」と短い悲鳴を上げる。
 マイクもオズワルドも、穴へと続く梯子をそさくさと登った。イヴよりも早く地上の酸素を吸う。イヴは二人のあとで梯子を登った。霧のような雨に頬を打たれながら、濡れた地べたを踏みしめたとき、懐から地図を取りだした。地図の端にライターで火を点ける。そして、火をともしながら燃えていく地図を、マンホールの下、油脂塊へと落としたのだった。
「おにいさん?」
「追われても困る。地下で潰れてくれたほうが俺たちには好都合だ」
「やめてって言ったよね?」
「それは会敵する前。こんな事態になっては、話は別だ」
「でも、こりゃあないだろ! いまも亜終点に残ってるひとたちが危険な目に遭ったらどうするんだ!」マイクはオズワルドを振り返る。「ねえねえ、君からもなにか言ってやってよ……って、なにそれ」
 マイクはオズワルドの持っていた紙切れを見つめた。オズワルドがマイクへと紙切れを突きだすと、イヴもそちらへと視線を遣る。そして目を見開く。
「脱獄した“首なし鶏のマイク” 、生け捕りアライヴ・オンリーで」イヴは紙面の文字を読みあげた。「マイクの顔写真も載っているな。オズワルド、これどうしたんだ?」
「あたしが最後に撃った犬のひとたちが持ってたの」
「犬のひとたち?」
「アンプロワイエのことだ」首を傾げたマイクに、イヴは答える。「やはり、お前の生還と脱獄が漏れていたようだな。いよいよアンプロワイエが動きだしたんだろう。死刑になったはずのお前を大々的に指名手配にすることはできないが、アンプロワイエの捜索はエグラド全土に及ぶはずだ」
「あたしたちもばれてるかな?」
「いまはまだマイクだけだろう。だが、これを皮切りにダストシュートを調べられれば、俺たちも危ないな。直近のダストシュートの使用者から順繰りに疑われていくはずだ」
 静かにその紙を見つめていたマイクに、イヴは「とにかく逃げるぞ」と声をかける。
 三人はノドロン市街から出ることにした。西海岸線の鉄道に乗り、エグラドで六番目の都市であるレットマンチェスを目指す。レットマンチェスまで行けば、南下している《Merkabah》と合流できるのだ。夜には空の上まで逃げきれているというのがイヴの計算であり発案だった。
 まず駅を目指した三人だったが、案の定、アンプロワイエが市街を闊歩していた。あちこちにまっているブラックマリアに、市民も不可思議そうな顔をしている。イヴとオズワルドは、アンプロワイエを遠目に見つけるたび、フードを深く被ったマイクを庇うように位置した。
「これ、かえって目立たない?」
「大っぴらに歩けもしないだろう。駅に着くまでは、足で逃げきるしかないんだぞ」マイクにそう返したイヴは、オズワルドの背負うガンケースを一瞥する。「こんな町中じゃ、オズワルドのエアライフルも目立つ。応戦は絶望的だ」
 そのとき、オズワルドはおもむろに肘を上げ、小さく手を振った。イヴはオズワルドの視線の先を見る。二人組のアンプロワイエが、こちらをじっと見つめていた。
「お前、何故、手を振った」
「だって、あのひとたちがずっとこっちを見てくるんだもの。挨拶しないのは不自然でしょう?」
「頭のわるいお前にしては一理ある。だが、実際はどうだろうな。やつらがこっちへ近づいてくるぞ」
 イヴは悩んだが、ここで逃げるのもどうかと思い、イヴは歩み寄ってくるアンプロワイエを待った。マイクは両手で襟元を掴み、ぐっと首元へ寄せる。オズワルドは気の抜けた笑みでじっとしていた。二人のアンプロワイエはイヴの前で立ち止まる。
「お仕事、ご苦労様です」
 先に口を開いたのはイヴだった。努めて恭しく、一般市民の鑑のように、アンプロワイエを労った。
「尋ね人です」アンプロワイエの一人が言う。「首の周りに傷のある、若い男を探しています」
「事件ですか?」
「詳しくは話せませんが……なにか心当たりは?」
「特には。このあたりにいるんですか?」
「という情報が出ています」
 やはり位置まで特定されていたか、とイヴは心中で納得した。そして、このまま乗り切れるかと思案する。
「……そちらの連れの方にも、」アンプロワイエはイヴの背後にいるマイクを一瞥した。「お話を聞いてもよろしいですか?」
 万事休すかと思われたとき、大きな爆発音が、ノドロン市街に響き渡った。
 鼓膜から骨の芯まで震えるような轟きに、みな一瞬間いっしゅんかん放心する。
 それがチャンスだった。
 イヴとマイクはオズワルドの背を押しながら、瞬時に駆けだした。
 はっとなったアンプロワイエが咄嗟にオズワルドの髪を掴む。つんのめったオズワルドだったが、掴まれたまま、真後ろに足を出す。まるで馬が後ろ足で蹴りあげるようなそれに、アンプロワイエはよろけた。髪を掴む手が緩んだ隙にオズワルドも駆けだした。アンプロワイエは「待て!」と三人を追う。
「さっきのはなにかしら」二人に追いついたオズワルドが呟く。「ものすごい音だったよね」
「絶対におにいさんのせいでしょ」マイクは走りながらイヴを睨む。「やめてって言ったのに、ああやって火を放つから!」
「おかげで助かったんだ。運がよかったと言える」イヴは淡々と返す。「それよりも、これでマイクの逃亡が完全に明るみになったはずだ。一緒に逃げてる俺たちも怪しまれたんじゃないか?」
「やあね。あたしたちも捕まらない?」
「空の上まで逃げれば勝ちだ」
「空の上まで逃げきれる?」オズワルドはちらりと後ろを振り返る。「あのひとたち、ずっと追ってきてるよ」
 どころか、ノドロン市街に配置されたアンプロワイエにも、連絡が行き渡っていた。四方から「いたぞ!」という声が上がっている。また、騒ぎを嗅ぎつけた市民の視線すら、三人の逃走の弊害となった。その雄弁な視線に導かれるように、アンプロワイエは三人の辿った道を追うことができた。
 走りつづけた三人は、市内を流れる大きな川に架かる、巨大な跳開橋を前にする。御影石と石灰岩で覆われた二つの主塔がそびえており、その姿はノドロンのシンボルの一つでもある。川を渡る船の航路を確保するため、ちょうど橋の開閉する時間だった。通行止めのアラームが鳴りやんだところで、無人になった橋梁がじわじわと上がっていく。
 イヴは跳ねあげられていく橋梁を駆けのぼり、反対側の橋梁へと飛んだ。イヴに続き、マイクも軽快な跳躍で橋梁間を渡る。二人よりも足の遅かったオズワルドが橋梁をのぼるころには、二つの橋梁間の幅は広がっていた。オズワルドは助走を一切殺さずに跳ぶ。そのまま水上に落ちるかと思われた体を、イヴが迎えに行く。真正面からその体を掻っ攫い、橋梁側へと受け止める。オズワルドを抱きしめたまま姿勢を低くしたイヴは、勢いのままに橋梁を滑り落ちた。二人が橋梁の根元へと着地し、振り返ったころには、橋は完全に跳開しきっており、反対側の橋梁へとアンプロワイエを置き去りにしていた。
 川を渡った三人は再び駅を目指すも、アンプロワイエはいたるところにいた。走るマイクの勢いによりフードはすでに脱げている。それを被りなおす余裕すら今はなかった。
 いくつかの博物館を通りすぎたところで、三人は路地裏へと身を潜めた。息を整えながら、市街の様子を見張る。疲弊してへろへろになっているオズワルドのそばで、イヴも体を休める。肩で息をする二人に比べれば、マイクはまだ余力があるようだった。イヴが「運動選手アスリートか?」と問いかけると、「遺跡探検家トレジャーハンターだよ」とマイクは答える。
「自然と体力もつく。対象によっては、過酷な試練を強いられることもあるからね。切りたった崖を登ったことも、冷たい湖底に潜ったこともあるよ」
「凄まじい探求心だな。お前を失ったことは、学界においても、大きな損失だっただろう」息を整えたイヴは、再び市街を見る。「……目標の駅舎まであと少しだが、アンプロワイエの数が増えたな」
「交通網を押さえてあるんでしょ」マイクはイヴの呟きに答える。「どうあっても俺を逃がさないつもりなんだよ。生け捕りオンリー・アライヴってことは、俺はまだあいつらにとって、貴重な研究材料みたいだし。俺を失ったことを損失だって思ってるのは、きっとあいつらも同じなんだろうね」
 イヴは汗ばんだマイクの首筋を一瞥した。縫い合わされた生々しい傷は、呼吸により脈動しているように見える。イヴは「本当に死なないんだな」と呟いた。
「なに? どういうこと?」
「いまのお前の状況は奇跡だ。縫い合わされたとはいえ、血管も一度は損傷した。過度な運動、血圧の上昇に耐えられなくとも、不思議ではないのに」
「俺が事故るかもって疑ってたのに町中を走らせたの?」
「お前が俺たちの荷物を盗んだとき、ずいぶんと動けていただろう。事故らないことはわかってた」イヴは続ける。「もしも俺が不死というものに興味があったなら、お前を囲った研究者と同じように、その原理を知りたいと思うかもしれない」
 イヴの言葉にマイクは閉口した。そんなマイクの様子に、イヴは「不謹慎だった?」と苦笑する。マイクは「おにいさんに気遣いは求めてない」と返したのち、言葉を続けた。
「それに、わかるよ、未知のものには暴きたいほどのロマンがある。すでに滅んだ文明、太古の秘宝、伝承の民族、未開の遺跡。どれも等しく魅力的だ。俺はそれを知りたかった。不死だって、本当はただの、未解明の技術なのかもしれない。俺を研究したがったやつらだって、自分のロマンを追い求めたんだ」
「自分をモルモット扱いした相手に、理解があるな」
「言ったでしょ。わかるんだよ。俺はついていけないけどね」マイクは肩を竦めた。「もう命は試したよ。俺は死ぬ覚悟であの直行便に乗りこんだんだ。だけど、死ななかった。そういう運命だったんだよ。だからもう、俺はきっと、この先も死ぬことはないよ、たぶんね。以上が、俺の不死の証明と原理」
 しかし、その答えでは、マイクを囲う研究者は納得しない。アンプロワイエは血眼になってマイクを追っている。捕まったら最後だと、イヴにもわかった。
「そう言うおにいさんは? いまなにに興味があるの? この子?」
 オズワルドを一瞥したマイクに、イヴは返す。
「いや。正直な話、一番興味がない」
 そんなひどい言い草でも、オズワルドは非難しなかった。手でぱたぱたと顔を仰ぐのに夢中になっていた。
「俺はかつてこの国の秘める真実に興味があった。その好奇心は、知りたがりの“イヴ”と言わしめるに至り、俺は収監されることになった。お前が首を落とされたなら、俺は首を突っこみすぎたんだ。見るにえない俺の悪癖だ。おかげさまで、いまはもう芯まで知りつくして、そうだな、特にあてはない」
「おにいさんって結婚詐欺師じゃなかったんだね」
「恋愛による結びつきや、その利用に興味はない。むしろ悪趣味で不快だ。心を傾けた相手に裏切られたら、誰だって悲しい」
 イヴはかつての相棒に裏切られたことを思い出す。ただ思い出しただけなのに、指先の冷えていくような心地がした。そのとき、自分の手に生温かい感触。ふとイヴが隣を見ると、外壁に体を傾けていたオズワルドが、イヴの手を握っていた。
「あたしはイヴのナマコだからね」
 囁くようにオズワルドは言った。マイクは「ナマコ?」と眉を顰めていたけれど、虚を突かれたイヴはぽかんと口を開かせる。相変わらずへろへろなオズワルドは、イヴを見上げ、笑いかけた。真ん丸な瞳に覗きこまれたイヴは、ややあってから力なく微笑み、「そうだな」と返した。
「だが、一つ訂正するなら、ナマコじゃなくて仲間だ」
「これからも探そうね」
「ダストシュートも閉鎖されるだろうから、それはちょっと難しいな」
「なにはともあれ、二人とも」マイクは市街を見据えながら告げる。「まずいよ。アンプロワイエがこっちのほうまで向かってきてる」
 オズワルドの持っていたガンケースをイヴが引き受け、三人は別路から駅まで走り抜ける。目標の駅舎にある時計をイヴが見ると、目当ての便の出発するぎりぎりの時刻だった。三人は切符も買わずに改札を擦り抜けた。慌てふためく駅員、追ってきていたらしいアンプロワイエ、その両者を振り切って、今にも発とうとする機関車の閉まりかける扉に身を滑らせた。紙一重でなんとか乗りこむことに成功した三人は、スライドしていく車窓の景色をぼんやりと眺める。息を整え終えてから、オズワルドはへらりと笑った。
「お腹すいたね」
「お前はすぐそれだな」
「梨が食べたいな」
「車内販売にあるかな」
「なんでもいいわ。とにかく、とっても疲れて眠いから、どこかに入ろう」
 オズワルドを先頭に、三人は車内を歩いていった。
 車内は洗練された様相で、金光りする窓枠には繊細な模様をした廊下敷きが映えた。窓の外では、夕陽を侵食した宵闇が、雲の波間を作っている。コンパートメントのスライドドアの奥は、どれも人で埋まっていて、小さなガラス窓越しにもそれを覗けた。空のコンパートメントを探して車両をいくつか縦断していると、オズワルドの体面、前の車両の扉が開き、奥から一人のアンプロワイエが姿を現した。
 息を呑んだオズワルドの口を、ハンカチ越しのアンプロワイエの手が押さえこむ。身を捩っていたオズワルドだったが、しばらくしてからぐったりと身を傾け、意識を失った。その体を、前の車両から現れたもう一人のアンプロワイエが支える。オズワルドを床に寝そべらせ、イヴとマイクに対峙した。
「撒けてなかったみたい」
 マイクは舌を出して呟き、イヴはため息をついた。
 アンプロワイエの二人はそれぞれイヴとマイクに飛びかかる。オズワルドを気絶させたアンプロワイエはマイクへ向かった。持っていたハンカチをマイクの口元にあてがおうとしている。マイクはそれを冷静に読み取り、アンプロワイエの腕を掴むことで、それを拒む。
 イヴへと向かったアンプロワイエも、イヴを拘束しようと手を伸ばしている。イヴはその手を避けながら、持っていたガンケースを振りかざした。あくまで威嚇行為だったが、アンプロワイエは避けるように後退していく。
「貴様、何者だ」アンプロワイエはイヴを睨みつける。「私たちはあの男に用がある。貴様のしていることは、公務執行妨害だ」
 そのアンプロワイエは、初めにイヴたちに話しかけてきた男の顔と同じだった。イヴは輪をかけて面倒なことになったなと、奥歯を噛む。
「邪魔をするならお前も連行する。そこの小娘もだ」
「はあ? なにそれ」声を上げたのはマイクだった。「俺が狙いのはずでしょ、関係ないひとを巻きこむなよ」
「お前がおとなしく連行されれば、部外者に手荒な真似はしない」
「またあの監獄に戻れって? 死んでもやだね」
「お前は死なないだろう」
 マイクは対峙していたアンプロワイエの腹を蹴った。よろめいたアンプロワイエは蹴られた腹を押さえながら後ずさる。その隙を見て、マイクは、アンプロワイエの持っていたハンカチを、その口元へとあてがった。慌てて暴れたアンプロワイエだったが、かえって呼吸を荒げてしまった。オズワルドのときよりもずっと早く、体を弛緩させて気絶した。
 マイクはその腕を引っ掴み、振り回して遠心力をつける。それを見たイヴも目の前のアンプロワイエに体当たりをかました。イヴに押されたアンプロワイエと、マイクに振られたアンプロワイエの額がぶつかる。鈍くも大きな激突の末、両者は完全に意識を失った。
「そうだよ、よくわかってんじゃん」
 マイクは床に沈んだアンプロワイエへと呟いた。
 イヴはオズワルドのもとへしゃがみこむ。単に意識を失っているだけだのようだった。アンプロワイエの持っていたハンカチ確認したのち、彼らの懐を漁った。胸ポケットに小さな小瓶が触れたので、掴んで取りだす。
「……催眠剤か」液体の入った瓶のラベルを見て、イヴは告げた。「すぐに気を失ったことを見るに、かなり強力なもののようだな。体をまさぐられても起きる気配がない。天下の国家公務員はずいぶん恐ろしいものをお持ちだ」
 そう言いながら、イヴは催眠剤をズボンのポケットへと収めた。そして、ライターを取りだして、飛行戦艦の位置を確認する。予定どおり、このままこの車両に乗ってレットマンチェスまで行けば、合流できる見込みだ。イヴはオズワルドの体を抱きあげ、「コンパートメントを探すぞ」とマイクに呼びかける。
 しかし、マイクは返事をしなかった。ただ静謐せいひつな表情で、いつのまにやら取りだしていた羅針盤コンパスを見つめていた。そんなマイクをイヴが見つめる。イヴが「マイク?」と呼びかけたとき、マイクはやっと振り返り、口を開いた。
「これからも、俺はこうして追われるんだと思う」
「……だろうな」
「きっと、おにいさんやその子に、迷惑をかけるだろうね」
「言っただろう。空の上まで逃げきれば、その心配だってしなくていい」
 そう返したイヴに、マイクは微笑わらった。
「それでも俺は、まだ知らないものを見たいし、見たことのないものに触れたいんだ。俺には俺のロマンがある。そんな俺でも、一緒に来てくれる?」
 ライターを持つイヴと、羅針盤コンパスを持つマイク。二人はひたすらまっすぐに眼差しを交わしていた。言葉はなくとも、たしかな隔絶を感じていたからだ。ふと、マイクの持つそれの針はいったい今なにを指しているのだろうかと、イヴは思った。思っただけで、興味はなかった。黄金の卵を生むガチョウは、首の落とされた鶏へと成り下がっていた。
「……追手がいる」
「知ってる。でも行くよ」
「危険だ」
「危険だね。だから行きたいんだ」
「スリルとリスクは似て非なるものだ。脱獄が明るみになった現状、下手な身動きは避けるべきだろう。お前もそれを理解しているはずだ」
「楽しくて止められない。知りたくて引き返せない。おにいさんにはそういう感覚がわからないんだな」
 その感覚をイヴは知っていた。かつての己がそうだった。夢を語るマイクの澱みのない表情に、かつての己もあんな表情をしていたのかもしれないと思ったほどだ。真実に憧れ、知らないものを知ろうとする、狂気的なまでの情熱。イヴにとっては身に覚えしかない、我が身によく似た有様ありさま。ただただ楽しくて知りたくて、止めたくなどなかった。死にたがりとさえ渾名あだなされた、かつての己の無謀。
 けれど、裏切りにより、無謀ではいられなくなった。
 失うものに乏しい自分が唯一失いたくないと思った者を失い、その結果、己を脅かされることに恐怖を覚えるようになった。喪失に対して敏感になってしまった。イヴにはもう身一つしかないのだから。あの監獄に戻るなどまっぴら御免だし、他者に足を取られるなどもってのほかだ。知ることで己が被害を受けるなら、いっそ知らないほうがいい。いまのイヴは最早、ジャンヌの言うような“知りたがり”とは程遠く、マイクのような道を選べない人間だった。
 どこか切なくもどかしく、イヴは眉を下げ、マイクへと告げる。
「いつか身を滅ぼすぞ」
 イヴには彼の末路がより身近に思われた。その道を選ばなくともすでに知っている。そうして己は失ったのだ。マイクはあのころのイヴのように、前だけしか見つめていない。輝かしい瞳の熱量は凄まじく、いっそ狂気さえ感じるほどだ。
「首を落とした鶏は二年で死ぬ。お前もそうならないように気をつけろ」
「おにいさんこそね。俺が言うのもなんだけど、きっとおにいさんもその子も、やつらに追われる日が来るよ。どうやら仲間を探してるみたいだけど、そんなに集めて、おにいさんはどうする気なの? まさか傷の舐め合いだけの関係じゃないよね?」
 マイクの言葉に、イヴは意味もなく、「そうだなあ」と顎に手を当てた。
 少なくとも、イヴがオズワルドと行動を共にするようになったことに、大仰な動機などなかった。それこそ傷の舐め合いだ。暢気な少女が運命だと囁いてくれたから、イヴはその手を取ったにすぎない。紙吹雪が空を舞ったあの日に、イヴの念は晴れている。ただ誰かに隣にいてほしくて、そういう人間を増やしたかっただけだ。だが、考えてみれば、そうだな、と思い至り、イヴはおもむろに口を開く。
「いっそエグラドを変えてやろうか」
 マイクはほんの少し呆然とする。口をあんぐりと開けたまま、固まっていた。一日しか行動を共にしなかったが、マイクはマイクなりに、イヴという人間の本質を見抜きはじめていた。ある種の臆病でもあるだろう目の前の男が、そんな大それたことを言うなんて、思ってもみなかったのだ。
 白旗と見せかけて、イヴがエグラドに見せつけたのは、反旗だった。
 それも特上の槍のついた、雄邁ゆうまいな切っ先。
「……なんてな」
 イヴはそう言葉を続け、眉を下げて笑った。
 マイクは目を眇め、渇いた声で「どっちが危険だよ」と呟いた。
「でも、いいね。興味があるよ。あてがないって冷めてる人間が変えた世界を見てみたい」マイクは人好きのする笑みを浮かべ、言葉を続けた。「もしもそんな日が本当に来たら、そのときは俺を仲間にしてよ。願わくはオズワルドかのじょもそばにいますように。俺はその子にも興味があるから」
 言うが早いか、マイクは車両の窓を開け、飛び降りた。
 車両は田園と森林の織り交ざった渓谷を横断しているところだった。薄暗い窓の景色は一瞬でマイクを掻っ攫っていった。イヴは窓を開けたまま、他の車両へと移る。そして、予定どおり、夜には《Merkabah》のもとまで辿りついたのだった。



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