#03 首なし鶏(1) 1/4



 雨の強い日のことである。二人は町中まちなかを歩いていた。
 ダレスバッグを持って歩くイヴは、片方の手で傘を差していたが、地図を広げるオズワルドを庇うために、その肩はしとどに濡れている。一方のオズワルドも、地図を眺めながら歩いているせいで足元がおろそかになり、水たまりを何度も踏みしめる憂き目に遭っていた。
 そうまでして二人が下界を練り歩くのにはわけがあった。
 先日、哀王から頂戴した調度品を換金することで、懐の潤った二人。食料や肌着などを買い、物資を揃えたところまではよかったものの、そうこうしているうちに《Merkabah》に乗り損ねるという失態を犯した。
 かの装甲飛行船は、エグラド上空を決まった経路で飛行するようにプログラミングされている。いくらコントロール権を握っているとはいえ、それを女王政府に悟らせまいと、イヴが舟を操舵することはなかった。つまり、舟に乗りこむタイミングを二人が逃せば、再び自分たちのもとへ戻ってくるのを待つしかないのだ。
 現在、《Merkabah》は、エグラド北西部の湖水地方を飛行中である。再びノドロンに戻ってくるのを待つため、二人はしばらくホテルに泊まっていたが、いよいよ温かかったはずの懐が肌寒さを感じてきたタイミングで、これはまずいと腰を上げた。日雇いの仕事はないか、せめて安いホテルはないかと街を探索しているのが、現在の二人である。
「思うんだけど」
「なんだ」
「舟をあたしたちのところまで呼んじゃだめなの?」
「既定の経路と違う動きをしたら、さすがに怪しまれる。そもそも、あの舟は他国からの攻撃の盾でもあるんだ。簡単に動かしていい代物じゃない」
「イヴは元々あれで海の外まで行こうとしてなかったかしら」
自棄やけになってただけ。もうできない」
 二人は図書館前の大通りに差しかかった。この通りは、月に一度、マーケットが開かれている。偶然にも、今日がその月に一度だった。雨に降られながらも、歯車仕掛けのテントを張り、人々は売買を楽しんでいた。
 テントという雨避けが現れたので、イヴは傘を閉じた。石突きをしたたる雨水を振り落とす。下を見て歩くのに疲れていたオズワルドは、「交代」と言ってイヴに地図を渡す。受け取る代わりにイヴはダレスバッグをオズワルドへと渡した。オズワルドは抱えこむようにしてダレスバッグを持った。
「そこのお嬢さん」ある露店の女主人に、オズワルドは声をかけられる。「ちょうどいいところに。お洒落な譜面が揃ってるよ。ぜひ見ていきなよ」
 その露店は、絢爛なフレームや絵画風に装飾された楽譜を売っていた。
 芸術にも音楽にも興味のなかったオズワルドは、「えっ、あたし?」と不思議そうに目を瞬かせたけれど、イヴは察する。現在、オズワルドの華奢な肩には、エアライフルの入ったガンケースが背負われている。そんな物騒な代物も、黒髪の乙女が背負えば、まるで奏者の持つ楽器のように見えるのだ。露店の女主人も、オズワルドを音楽家だと勘違いし、声をかけたのだった。
「飾るもよし、弾くもよし。おすすめは『ラベンダーズ・ブルー』、薄紫の花枠があしらわれてるのが綺麗だろう? おまけにこすると香りがするんだよ」
 女主人に促されるままに、オズワルドは楽譜に鼻を近づける。すんっと匂いを嗅ぐと、「ラベンダー畑にいるみたい」と目を輝かせた。
「どうだい? 素敵だろう」
「素敵だわ。あたし、好きよ、『ラベンダーズ・ブルー』……」オズワルドは思い出すように口遊くちずさんだ。「Lavender's blue, dilly, dilly, lavender's green,」
「さすが、お嬢さん、歌が上手だねえ」
「本当?」
「そんなお嬢さんにぴったりさ。買っていきなよ」
「それがいいわ」
「いいや。結構だ」イヴはそこで口を開いた。「行くぞ、オズワルド。俺たちはいま金がないんだからな」
 なにを上手く乗せられているんだとはさすがに言わなかったけれど、イヴは内心で呆れていた。はじめは毛ほども興味がなかったくせに、すっかりその気になっているオズワルドに、イヴはすがめてみせる。
 イヴが先に進むので、オズワルドも諦めて彼の後を追ったが、不服そうな足取りだった。
「ねえねえ、イヴ」
「だめだ」
「まだなにも言ってないのに」
「だめだ」
「いったいイヴはなんのことを言っているの?」
「あの譜面は買わない」どうしてだめなの、と返ってくるのを見越して、イヴは続ける。「何故ならお金がないから」
 と、そこで、イヴの足が止まる。突然のことに首を傾げるオズワルド。傾げるすがら、オズワルドは彼の顔を覗きこんだ。おや、と瞠目どうもくする。イヴにしては珍しい、楽しそうな目の色をしていたからだ。オズワルドはイヴの視線の先を辿る。そこには古びた本の並ぶ露店があった。
 するとたちまち、イヴはその露店へと寄っていった。露店の店主は眠りこけていたため、そんなイヴに気づいていない。イヴはテーブルに並んだうちの一冊を選び取った。ややあってから「やはり」と漏らした。その声は、ほのかに上擦うわずっていた。初めのページを開いて、ぴたりと固まる。オズワルドはイヴの様子を不思議に思いながら、背後から「なにそれ」と本を覗きこみ、冒頭を読みあげる。
「“riverrun”?」
「川走る、だな」
 イヴは茶けた紙をさらにめくり、一番最後のページで手を止めた。
「おかしいわ。どうして“the”で文章が終わっているの?」
 冠詞で文章が終わるわけがない、とオズワルドは訴える。
「冒頭に戻るためだ、ちょうど“the river run”になるように」イヴは笑みを浮かべて呟いた。「解読不能なまでに逸脱した文法に、多重言語を散りばめた言葉遊び……これは『フィネガンズ・ウェイク』の原書だ」
 まさかお目にかかれるとは、という感動を如実に含んだ声音だったが、オズワルドにはピンと来なかった。イヴは、オズワルドが問うてもいないことを、滔々と語りはじめる。
「このたった一冊に、途方途轍もない情報量が詰まっている。いまは失き絶滅言語……フラネク古語、古代ヒスニア語はもちろん、フラネク語、スパニ語、ルーシア語に、あろうことかピグナズ語まで……」イヴは続ける。「外界という概念を抹消したい女王政府らの、文化規制や言語一括の網を潜り抜け、こんな露店に丸裸で並んでいることが、奇跡とも言える品だ。アンプロワイエに見つかりでもすれば、いや、そうでなくとも、その価値を知らない者に拾われでもすれば、もう二度と出会えない……」
 どこか酔い痴れるようにイヴは漏らす。しかし、オズワルドが横から手を伸ばし、その本を力強く閉じたことで、その酔いも覚めた。
 沈黙の降りる中、二人の視線がまっすぐに交わされる。
 表情に出さずとも、言葉にせずとも、イヴとオズワルドは互いの思考を読み取っていた。滑稽な体勢のまま、二人は真顔で見つめあう。
「……必要な投資だ」先に口を開いたのはイヴだった。「俺たちをエグラドという箱庭に閉じこめた女王政府らに、一泡吹かせるための一石になるかもしれない。読書という娯楽ではなく、今後の布石として、これを買うんだ」
「あたしたちにはお金がないのよ」ついさきほど己へと吐きだされた正論をオズワルドも吐きだす。「生きていくだけでいっぱいいっぱいなのに、こんなのに費やしたらあたしたち死んでしまうわ」
 それに、イヴはその本が欲しいだけでしょ。オズワルドは付け足すように言った。イヴは黙ったままだった。ただ、目の前の娘をどう説得しようか考えていた。図星である。
「どうせ残っているのははした金だ。いまさらなにに使おうと、俺たちに宿がないことは決定している。節約なんて無駄な足掻きじゃないか」
「『ラベンダーズ・ブルー』」
「たかが童謡に金を払ういわれはない」
 イヴとオズワルドは相容あいいれなかった。
 悶着は続く。均衡しているように見える状況だったが、イヴとしては、鼻の差でオズワルドの優勢だと考えていた。なにせ財布の入ったダレスバッグを抱えているのは彼女なのである。本人が気づいていないとはいえ、事実上の決済者はオズワルドだった。荷物持ちの交代などするんじゃなかったと、イヴは内心で舌を打つ。
 オズワルドは「イヴには『ラッド博士の論文集』があるじゃない」とダレスバッグを揺さぶりながら反論する。それにイヴは「お前だってエアライフルがある」とガンケースを顎で指した。互いを見つめあうだけの硬直状態へと突入するかと思われたそこで、「イヴ」と低い声を出すオズワルド。
「あたし、ごはんのこと、まだ許してないんだからね」
 イヴは表情を変えなかったが、俄然、降伏を覚悟した。
 先日、舟の中の食料が腐っていたことをうっかり漏らしてしまったイヴ。その後、きちんと糾弾されたのだが、オズワルドの恨みは晴れていない。なにせ百年単位での賞味期限切れも中には存在するのだ。二人の胃袋が強靭であったからよかったものを、最悪の事態だってありえた。
「だけど、貴方が許せば、私も許すわ」
 イヴが『ラベンダーズ・ブルー』を許すこと、オズワルドが腐った食事を許すこと。それが引き合いに出されている。一丁前に交渉なんてしやがって、とイヴは思っていたが、己が口答えできる立場でないことは悟っていた。
 しかしそのとき、オズワルドの肩に、通りを走る通行人の肩がぶつかった。
 オズワルドとぶつかった相手は、なんの言葉を交わすでもなく、走り去っていく。その慌ただしさにイヴとオズワルドはしばし呆気に取られていたが、しかし、イヴはすぐに、ある違和感に気づいた。オズワルドの持っていたダレスバッグが彼女の腕から忽然こつぜんと姿を消していたのだ。どころか、背負っていたガンケースまで、跡形もなく消え失せている。
「……盗まれた」
「なにが?」
「荷物だ」
「あれ」オズワルドは自分の両手を見下ろす。「さっきまであったはずなのに」
「だから盗まれたんだ。さっきの男を追うぞ。真っ赤なパーカーの上に、金具とポケットのついたベストを着た若い男だ。絶対に逃がすな」
 二人は荷物の窃盗犯の男を追いかけた。
 服装を目印に追っても、男の逃げ足は速かった。マーケットの人混みをするすると掻い潜り、二人を引き離していく。
 イヴは、マーケットの通りを抜けた。雨に打たれながら、テントの出口へと先回りする。しかし、男もそれを見越していた。イヴの待ち伏せている出口よりも手前でマーケットを抜けていた。目印の服装が図書館の裏へと駆けていくのを見つけたイヴは、その影を追う。
 男は図書館の前にたむろしていた人々をけ、時計塔の見える川のほうへと走っていた。その足取りに迷いはない。イヴもこの近辺に詳しいわけではなかったが、つい先刻まで地図を見ていたおかげで、おおよその地理は把握している。男の向かう川は運河として小型船舶がっている。もしもそこに男がボートでも用意していれば、イヴには男を追う手立てがない。
 男は桟橋まで出ようとしていた。イヴの想定に反し、ボードが待ちかまえていることはなかった。しかし、川には、重荷を運輸する船舶が移動していた。時計塔の大時鐘が鳴ったとき、ちょうど船舶が桟橋を横切る。男はその瞬間に踏みだし、船舶に牽引されていたはしけを足場に川の対岸へと渡っていった。
 イヴは荒い息を整えながら、船舶の通りすぎた桟橋の上で立ちつくす。
 対岸の舗装された河川敷リバーサイドに立つ男は「じゃあね」とイヴに手を振っている。
 あちらへと渡る橋もない。イヴはついに男を見逃すと諦観した。だが、その瞬間、いつの間に対岸へ渡っていたらしいオズワルドが、河川敷リバーサイドの真上、路面と地続きになった堤防の天端てんばから男へと飛び降りるのを、刮目したのだった。
「ぶひぇっ!」
 男は呻き声を漏らし、地面へと這いつくばった。男の背に馬乗りになったオズワルドは、肩で息をしながら、俯いていた。
 イヴも対岸へ渡ろうと、現在地点から一番近い橋へと駆けていく。
 もう逃げられないと悟った男は「降参」と両手をひらひらと上げる。
「悪かったよ。荷物は全部返すから、見逃してくれないかな」
 男は呻くように言った。自分を拘束する相手への懇願だ。
「お金がなくってさ。バイオリンやビオラなら高く売れそうだなあって思ったんだ。このとおりだから本当許して……」
 しかし、能弁だった彼も、次第に尻すぼみになっていく。自身を拘束する者が一言もしゃべらないのだ。おずおずと「あのー」と振り返ろうとして、ヴェールのように降り注ぐ、漆色の長い髪に、目をみはった。そして、その髪を辿った先の、真っ黒な瞳を見上げる。
 オズワルドは彼の赤いパーカーを握りしめながら、深い呼吸を繰り返していた。彼の声など耳には入ってこない。ただ視界を占領する赤に動揺していた。喉や奥歯に絡みつく幻影に、「血の味がする」と呟いた。
「……どうした、オズワルド」
 対岸から駆けつけたイヴが、オズワルドを見下ろした。散らばったダレスバッグやガンケースに囲まれながら、男の背の上で像のように固まるオズワルドは、イヴにとって異様の一言だった。永劫にも似たつか、オズワルドはへんにゃりと顔を顰め、イヴを見上げる。
「口の中、切っちゃった」
 イヴはややあってから眉を下げて笑った。
「こんな高いところから落ちればそうなる」
 散らばった荷物を拾いあげたイヴは、窃盗犯の男の顔を見遣った。
 やはり若い男だった。背格好からしてもハイティーンほど、イヴとオズワルドのちょうどあいだくらいの年齢だ。癖のあるダークヘアはワインを被ったような色味をしている。形のいい淡褐色ヘーゼルの瞳はオズワルドを見つめていた。どこか熱を帯びたような、食い入るような目つきだった。やや陶然とした声で、彼は呟く。
「運命の出会いだ……」
 この世は運命だらけだな、とイヴは思ったのだった。



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