信者やだ | ナノ

戦撫子物申す

 空はまだ明るいが、陽がどこにいるかはわからない。ただ、雲には絞り染めのような亀裂が入り、そのあちらこちらから柔らかな光は滲んでいた。
 その心地好い美しさに一句嗜む寸暇さえ、生命誓盟保険部にはない。
 今日も今日とて死屍累々。
 いっそ、射しこむ光に目を蒸発され、なよなよとした悲鳴を上げる者もいたくらいだ。
 休日、家でたっぷりと睡眠を摂ることのできた僕は、そこまでダメージを受けずに済んだ。いまはちょうど、運よく捕まえることのできた休憩中の不束課長から、話を聞いているところだった。
―――てことで、労基は絶対に目を通しておいたほうがいいぜ。あとは労契だな。今回の場合、相手が相手だからな……いろいろ厄介なことも出てきそうだ。ほら、翔井が古淵を連れてきたときなんかは楽だったんだ。古淵は普通に学生だったからな。それから、念のため、いまの保護者にも話は通しておけよ」
 課長から聞いたことを「ふんふん」とメモしていく。やらなければならないことはたくさんあるようで、僕は半ば目を回していた。
「しかし……こういう話なら先駆者の翔井に相談したほうがいいと思うんだがな」
「まずは課長に話を通さなきゃまずいでしょう。主任は忙しそうですしね」
「あいつ、本当に大丈夫か? 最近家に帰ってねえって話だが」
「引き出しの健康食品も底を尽きかけてるみたいです」
「あいつの体、本当に大丈夫か?」課長は続ける。「どうにかしてやりたいが、それもできねえし。おまけにここは労働基準監査から治外法権を得ているからな……監査も入らねえし、しょうがねえか」
 僕はその初耳に目を丸くする。
「なんだ。囃子崎、知らなかったのか?」課長も目を丸くして続ける。「生命誓盟保険部は特殊だからな。その特殊性から、労働基準監査対象とはされていない。なんせ、前例のない取り組みだから、臨機応変な業務対応が求められる。普通の監査じゃあ、ここの業務はなにやってもアウトだろ?」
 たしかにアウトだ。長時間労働。次から次へと際限なく降ってくる仕事。眠れない。最悪帰れない。毎日が死屍累々。ゾンビたちの呻きが夜想曲。横行するブラックジョーク。
「それって……体のいい労基違反ですよね?」
「当たり前だろ」
 課長はしれっとして答える。
 僕は愕然とした。なにが治外法権だ……正当に、僕たちを奴隷のように働かせやがって。
「なあに。いざとなったら死ねばいい。来世があるぞ」
 僕は「笑えません」と返す。課長も課長で「実にな」と呟いた。
「でも、その治外法権って、亜豆花ちゃんにも適用されるんじゃないですか……?」
「いや。非正規の局員はその限りじゃない。そもそも、翔井が許すと思うか?」
 それもそうだ。
 しかし、と課長は顎に手を当てる。
「あれだけ働いて……翔井が帝国政府を訴えねえのが奇跡だな」
「…………そこは多分、時間の問題だと思います」
 まじで。
 課長は「それもそうだな」と笑っていたが、僕の言葉の真意を課長は知らない。
「だが、うちは人手が欲しいのが通常運転だからな。増えんなら御の字だ」
「亜豆花ちゃんほどの力量は見込まないでくださいね」
「猫の手、孫の手、なんでもいいさ。だが」課長はにやりと笑う。「あんま使えねえようなら、ビシバシしごいてやれよ。囃子崎」
 課長はこのことに賛成してくれるらしい。
 僕は「ありがとうございます」と礼をして、デスクに戻った。
 夕晩の予定を空けておきたかった僕は、午後七時締め切りの仕事のほとんどを終わらせていた。しばらく経てば仕事は更新されるだろうけど、とりあえずの時間確保はできたというわけだ。いや、というか、なんで朝知らされたノルマからだんだん増えていくんだろう。こんな、細胞分裂でもしているかのように次々と仕事が下りてくるなんてありえるものなのか。こういうところが、他の保険事業とは違う―――御仏みほとけを相手に、輪廻転生を扱った―――繊細な保険事業の摂理なのかもしれない。できれば、生命誓盟保険部のための保険、生命誓盟保険部保険なんてものが開業されればいいんだけどな。
 そんなことを考えていた僕は凄まじい表情をしていたらしく、硝子張りで仕切られた廊下から顔を見せた彼女に野次を飛ばされる。
「業務課の人間にあるまじき顔をしてるぜ、リンゴくん。眉間に紙挟めそう」
 彼女は自分の眉間をノックして言った。もう片方の手には携帯端末が握られている。
 彼女のほうへ振り向いた僕は「電話終わったんですね」と眉間をさすりながら近づいた。
「うん。修繕工事は滞りなく完了」彼女は続ける。「請求書、ファックスで送ってもらおうと思ってここの電話番号貸しちゃったんだ。コピー機使わせてねん」
 あっ、こやつめ。
 本部のを勝手に。
「……せめて一言くらい言ってくださいよ。紛れちゃったらどうするんですか」
 彼女は暢気に送られてきた請求書を探している。本当に紛れてしまったのかと思ったが、どうやら亜豆花ちゃんが持っていたらしい。いつものコピーとは明らかに毛色の違うものが送られてきて、不審に思っていたのだろう。請求書に記載された通夜小路艶子≠ニいう名前から大まかを察したようで、見つかって話がややこしくなる前に回収していたのだ。
 請求書の書面を見させてもらう。そのとてつもない請求金額に僕は目ん玉をかっ開いた。こんな額を一度に払わされたら、僕は破産してしまう。というか払えない。
 そうだった、うっかり忘れかけていたけど、通夜小路邸は防衛局の航空機によって攻撃されたのだ。
 神仏と対等に戦うため、相当度の武装をしている防衛局の航空機は、一般市民の民家など、鼻息で飛ばすのと同じ感覚でぺしゃんこにできる―――通夜小路邸が損傷程度で済んだのは、ひとえにあの攻撃が牽制の意味でしかなかったことによる。
 全壊を免れたとはいえ、通夜小路邸は、人の住めない程度には傷めつけられてしまっているのだ。その修繕費ともなれば、僕のちゃちな目ん玉をかっ開かせることくらいわけない。
「そもそも一番被害が出たのが屋根だからねえ。屋根は高いよ。足場代もいるし」
「瓦も高そうでしたよね。ほとんどが入れ替えですか?」
「まあね。あたしとしては、瓦よりも鴟尾しびをやられたほうが痛かったけど」
「お高いんですか?」
「値段もそうだけど、そもそもあれって仏避けでもあったから」
「……それってけっこうまずいですよね」
「そうなのよー」
 暢気そうに返してくれているけど、実際は一大事のはずだ。
 彼女の家は代々の将校一家で、生命誓盟保険部保険が施行されて以降は御仏を相手にもしている。血筋全員が仏罰の下りやすい身の上のため、通夜小路邸のあちこちには、除仏の呪い物が置かれていた。一つ一つが相当の力を持ち、また、値も張っていたことだろう。それが欠けてしまったとあれば、彼女自身が危ない。
 彼女はあの攻撃を軽いジャブだと言ったけど、その被害を計算に入れれば相当のものだっただろう。通夜小路邸の修繕期間のあいだに彼女が仏罰を受ける危険性は非常に高く、下手をすると、死んでいた可能性だってあった。
「だからこそ、この除仏の呪い物だらけの保険局に居つかせてもらったってのもあるんだよね」彼女はぶっちゃけるように言った。「とりあえず、新しいのを見つけるまで避難してたってわけよ。平常時ならともかく、あたしも除仏の呪い物のないところで寝る勇気はないしね。ちなみに、これは別の業者に頼む必要があってだな。この前受け取った請求書、見てみる? 控えめに言ってウケるよ」
 おそらくウケれないと思う。
 僕はそう低調でお断りした。
「とりあえず、元通りになってよかったわ」彼女は安堵のため息をつく。「やっぱり長年住んでた我が家は恋しいし。いつまでも鶏そぼ郎を一人にしておくわけにはいかないからさ」
「……もう通夜小路邸あっちに戻るんですか?」
「んまあね。長らく快適にすごさせてもらったけど、あたし別に保険局員じゃないしねー。真面目にやってるひとたちに紛れてあたしなんかがいても迷惑になるだけだろうし」
「自覚あったんですね」
「あったわい。とっとと出て行かせてもらいますよ。いままでありがとうね。大好き」
 へらっと笑う彼女を僕は見つめる。
―――本当でこれで終わりなんだろうか。万事一件落着なんだろうか。
 僕の、誰かを幸せにしたいという信念はたしかに守られた。
 僕の抱えていた件は見事に解決の色を見せたのだ。
 けれど、彼女は? 彼女の抱えている、失望がゆえの空虚は、解決したと言えるのか?
 なんの反応も示さない僕に動揺したのか、彼女は「えっとね」と言葉を続ける。
「さっきのは軽い愛情表現であって、告白ってわけじゃないから、本気になられてもあたし困っちゃうんだけどな」
「違います」
 僕は確実性を期するため、もう一度「違います」と紡ぐ。
 彼女は拗ねたように「だったら何用じゃい!」とがなり立てた。
「あの……やっぱり納得いかなくって。艶子さんは本当にこのままでいいんですか? いまの状態が間違っているとは思わないんですか?」
 そう言うと、彼女は「あのねえ」とみるみるうちに顔を顰めていく。
「生命誓盟保険のことを言ってるなら、そりゃもう終わったことだよ。君だって満足したじゃないの。おばあちゃんの人生は幸せだっただろうし、あたしもそれで満足だ。いまさらなにを言うこともないよ」
 今度は僕が顔を顰めた。
 救われてもいないくせに、貴女の分際で、そんな聖女じみたことを言わないでほしい。
「僕は満足しました。葬子さんもきっと幸せだったはずだ。でも、なんていうか、けじめっていうんですか? そういうのをつけないと……貴女の気持ちはどうなるんですか」
「どうにもならんよ」彼女は両手を上げて、肩を竦める。「これまで通りでたいへん結構。あたしはもう防衛局の人間でもないしね。夢と、希望と、情熱と、信念と、そういうまっすぐな心のある若者や諸先輩に、全部まるっと委ねますよ」
 投げやりな態度は、植えつけられてしまった不信感や疑心暗鬼によるもの。
 挫けてしまった気持ちは元に戻らない。きっと二度と抱くことはあるまい。いまや、自分がかつて抱いていたその感情すら、彼女はどこか冷めたように見ているのだから。




◯ | 1 / 5 | SUSUMU

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -