信者やだ | ナノ

今生論

 ずっと黙って蟹を食べていた亜豆花ちゃんが、はじめて口を開いた。そのことに少しばかり驚いてしまった僕たちをよそに、ナプキンで口元を拭った亜豆花ちゃんは、発言を続ける。
「興味深い話やったんで、ずっと聞かせてもらっとりましたけど……囃子崎さんのお考えは荒唐無稽とは言いきれんのやないですか?」
「ほう」彼女は面白そうに続ける。「いいね。聞かせて」
 僕も持っていた蟹を置いて聴講させてもらう。
「ほな、僭越ながら」亜豆花ちゃんは上品に微笑むと、その麗しい唇で紡いだ。「おそらく、生命誓盟保険の最終目標は、輪廻転生からの解脱、生存の外側へと脱却することです」
 亜豆花ちゃんはそう結論を言った。
 まだ先を読めず、混乱するしかない僕たちに、導くように説いていく。
「徳イコール幸福、いう考えかたが、いっそ罠やと思うんです。徳はあくまで徳や。そもそも、仏教は輪廻転生からの解脱、悟りを得るのが目標いいますよね。せやったら、この生命誓盟保険かて、下手したら輪廻から外れて、そもそも来世に行かれへん可能性かてあります。そこを弄って無理くり人間界に降ろすんが、このシステムの特徴なんでしょうけど……お布施の応用やったら、悟りを得る分の徳はどうしても溜まっていく一方やと思いません?」
「つまり、人は仏になり得るはず、ってことかい」
 それは、身も竦むようなおぞましいことだった。
 そもそもがそういう信仰なのだということはわかっているけど、これまでの話のいきつく果てとしては、怯えを感じずにはいられない。
「近年、この国の敵は諸外国やのうて神聖や、言われてはりますけど、そんなんただの意識操作でしょう。神聖特務部≠ノミスリードされとるだけや。井の中の蛙は井の中にしか興味ない。昔のお偉いさんは、神聖に並びとうて、仏になることを推奨したわけやないはずです」
「だったら、いったい、なんのために」
 僕のそのわななきに、彼女は「まさか……」と息を呑む。憤りのようなものを感じているようだった。それは吐きだした息からも読みとれる。彼女の辿りついた解に、僕は気づけない。
 察しの悪い僕が視線を遣ると、亜豆花ちゃんは他人事のように、淡々と答えてくれた。
「いかにも我が日ノ本大帝国の考えそうな傲慢なことですわ。もしも国民全員が仏になって、そんでその全員があえて娑婆に生まれ変わったとしたら、それはどれほどの国になりはるんでしょうねえ」






 僕はしばらく呆然としていた。出された蟹料理を、ただ黙々と食べていた。おかげでほとんど味わえなくて、ただ無感動な満腹感だけが残った。
「うわあー……気づきたくなかったよう……国家権力に殺される……」
 デザートのわらびもちを二又のフォークで突っつきながら、彼女はテーブルに突っ伏して、低い声で唸っている。
 一方の亜豆花ちゃんは取り乱したふうもなく、温かいお茶を大事そうに飲んでいた。
「お金どころの話じゃなかった……まさか、本当にやばい陰謀に国民を利用してたなんて……ぢくしょう、なにが一億総幸福来世だ、え? まさか、一億総仏陀兵士ってこと? 怖すぎ……ていうか、こんなの知っちゃって大丈夫? 海外逃亡でもしよっかなあ……」
「……で、でも、あくまで僕たちの推測ですよ?」
 僕はやっとの思いで口を開いた。そのとき、自分の手が少しだけ冷たくなっていることに気づく。それは、僕だってただの推測だとは思っていないということを示している。
 彼女はテーブルに肘を突き、両手を組んで顔の前へ持ってきた。
「成仏って考えかたが昔からあった時点で、この国ってけっこう怖いところあると思うけどねえ」彼女は続ける。「死んだら全員仏になるってことでしょ? それって、この状況を示唆してるとは考えらんないかな」
 凍てついていた体が、恐怖によりぶるりと震える。
「生命誓盟保険が施行されたのが、六十年前の皇歴二六一六年……いや、でも、あれだけのシステムは一朝一夕じゃ作れない。もっと前に、幸福追求権を含んだ憲法が施行されるよりも、戦争をするよりももっとずっと昔に、生命誓盟保険は計画されてたんじゃないかな」
 彼女の持つ理知的な勘が、そう告げている。
 ずっとずっと、何代にも渡って、いつの世の帝国政府も策謀していた。
 水面下で繰り広げられる、水生昆虫のサバトのようなおぞましさだ。藻の陰に隠れ、集り、チクチクと牙を噛みあわせて、醜怪な密議に勤しんでいる。
「戦後の急速な経済発展、技術進歩は、生命誓盟保険のシステムに関した余事象なのかもしれない」彼女は続ける。「もしくは、戦後の帝国政府の推進力あってのことだろう。元軍人の口から言わせてもらうなら、軍人よりも政治家のほうが、争いを好む場合がある」
 だからこそ、彼女も自力ではこの可能性には至れなかったのだ。おまけに、彼女は普通の軍人ではなく、神聖特務部の軍人だ。神仏と戦ってきた彼女に、いまさら同じ人類と戦うなどという発想は、天地がひっくり返らないと出てこない。その発想は、現在、授業として歴史を学んでいるであろう、学生の亜豆花ちゃんらしい推察だった。
「なるほど……愛国心とは野獣のようだね。戦後手負いの野獣は始末に負えない。まさに死に物狂いだ。まあ、拍車をかけたってだけで、事の始まりはそこじゃないんだろうけど」
「となると、犯行時間は最長で二千年強。代々継承して、いまに至る、いうわけですね」
「仏教を受容したのが六世紀としても、主犯格はとっくに死んでるのか。歴史を感じるねえ」
「直接証拠は消されとるでしょうね……あてもそこまで見つけ出せる自信はあらへんし」
「でも、これで、基となる考えにわざわざ仏教を選んだ動機もわかったかも」
 彼女はわらびもちを突っつくのをやめた。フォークを置いて、厳かに腕を組む。
「キリスト教やイスラム教は唯一神、信者は神にはなれない。ヒンドゥー教は信仰というよりはむしろ制度や風習の教えに近いから、そもそも意味がない。神道はやっぱり難易度が高い。歴史上の人物には神として崇められるようになった者もいるけど、国民全員に功績を立てさせて信仰の対象にするのは、どう考えても不可能。徳を積めば仏になれる仏教は、一番わかりやすくてお手頃ってわけだ」
「これを、野良局長は知っていると思いますか……?」
 僕の問いかけに、彼女は苦々しく答える。
「そりゃまあ、知っていらっしゃるだろうな。始まりは別人でも、ずっと受け継いできたわけだし……それに、前局長がピッてしてたら、その局長さんだってピッてするでしょうよ」
 それもそうだ。でないと、彼女を警戒してアクションを起こしたりはしない。
「この六十年間は、生命誓盟保険の一般化期間だったんじゃないかな。人間、強制されれば嫌がるけど、自由だって言われると受け入れようと思うでしょ。そのうち帝国政府は、全員にピッてしろって言うぞ。そんでみんな、なんの疑いも持たずに、ピッてするようになる」
 彼女は「ピッピッ」と何度も手を翳すようなジェスチャーをして、それからわらびもちを啄んだ。そんな彼女の一方で、僕はデザートまで食べる気にはなれなかった。一口も手をつけられないまま、わらびもちは、僕の目の前で拗ねたように座っている。
 まさか、彼女の単なる疑心暗鬼から、こんな結論を得ようとは思わなかった―――あのとき引っかけたのは魚の小骨などではなく、地下に潜む大鯰だったようだ。
―――ふう。ごちそうさんでした」
 亜豆花ちゃんは手を合わせてそう言った。それから、僕のほうを見て「今日はもう帰らせていただきます」と告げる。




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