信者やだ | ナノ

今生論

 亜豆花ちゃんは僕らに見やすいよう、ファイルをこちら向きに回して開いてくれた。
「単刀直入に言いますけど、生命誓盟保険における経理状況……金運びや流れに、怪しい点はなあんもありません」
 完全に予想外の言葉に、僕は「えっ、なにも?」と呆気にとられる。
 彼女も彼女で目を見開かせていた。
「ふふ、囃子崎さん、驚かはりましたな」
「えっ……うん、驚いた……ちょっと、あまりにも予想外すぎて」
 黒い衝撃の事実とか、政治と金の問題とか、そういうものに対して身構えていた僕としては、亜豆花ちゃんの言葉の呆気のなさに、現実味を持てずにいた。
「順に説明させてもらいます。まず、加入者からいただきます保険料についてが一ページ目。決まり通り、保険料の八割は保険局の管理する寺院にお布施として納められとりますなあ。残りの二割は保険制度の運営費として使われとります。ここは騙りようがありません」
「でも、だとしたら、おかしい……たったそれだけで保険制度を回せるはずがない」
「そういうことを求められとるんは、あても予想しとりました。五頁目をご覧ください」
 僕と彼女は言われた通り、ファイルの五頁目を開く。
「帝国政府からバックアップを受けてはるみたいですわ。金融局、各金融機関からも参考になりそうなデータを頂戴しときました。他にも、展開しとる事業で穴埋めしてはったり、いろいろしとりましたなあ。どれも調べればわりと簡単に出てくるもんで、秘匿したりはしてはりません。公的に、そういうシステムになっとるってことでしょう」
 僕と彼女は目を見合わせる。保険制度の運営について、彼女は三つの可能性を考えたけど、まさか、そのなかでも一番期待していなかったクリーンな方法で運営されていたなんて。
 そのとき、テーブルに三つの茶碗蒸しが置かれる。亜豆花ちゃんは「メルシー」と微笑んでそれを受け取った。僕は店員さんに見えないよう、ファイルを膝の上に置く。彼女も亜豆花ちゃんも茶碗蒸しに手をつけていたけど、僕はまだファイルを眺めていた。
「その金って全額、保険事業に回ってるの?」レンゲを軽く回しながら、彼女は亜豆花ちゃんに問いかける。「あたしたちが睨んでたのは、そういう政治と金なんだけど。生命誓盟保険を隠れ蓑に、どこかが著しく金を受け取ったりとかしてないかな」
「その点におきましては十頁目をご覧ください」
 僕は頁をぺらぺらとめくり、見落としがないよう目を通していった。
「だめです、艶子さん……そういった傾向はありません」僕は首を振って答える。「関係者上層部の、怪しげな入金記録、羽振りがよくなったという情報、どちらも特にないようです」
 彼女はいっそ困ったふうに「まじでか」と呟いた。
 二人は早くも茶碗蒸しを食べ終わったらしい。空になった茶碗の中を、くるんとレンゲが滑っていく。ファイルを彼女に預け、僕も茶碗蒸しをいただくことにした。
「ふうむ……こりゃ驚いたわ」ファイルを眺めながら彼女は呟く。「集めた維持費は完全にシステムの運営に使われてるわね。講習会で聞いたときのまんま。ていうか、亜豆花ちゃん、わざわざ転生サーバーの現場に行ってきてくれたの?」
 クリアポケットに入った青写真を指差した彼女に、亜豆花ちゃんは事もなげに返す。
「へえ。保険局のアルバイトのない放課後にちょろっと行ってきました。工場見学みたいで楽しかったわあ」
 目の前に現れた蟹寿司に「いただきます」と両手を合わせる亜豆花ちゃん。
 空になった茶碗を店員に預け、僕らは蟹寿司にありついた。
「ちなみに、徳を来世に持っていく、いうシステムも本物みたいでしたわ」
「そこは講習会に行ったあたしも保証していい」彼女は続ける。「だからこそ、あたしは金回りについて疑ったわけだし。いまさらそこを掘り返しても無駄だと思うよ」
 そう言いながら、いけしゃあしゃあと僕の皿の蟹寿司まで食べやがった彼女の頭を、僕はそれなりに強く叩く。まるで蛙が潰れたかのような「ふぎう」という間抜けな声を上げ、やがて彼女は自分の皿からぬるぬると蟹寿司を置いていった。よろしい。どこか恨めしげな目で僕を見る彼女は「ということはだぜ」と口を開く。
「怪しい金の動きはなくって、保険制度は本物で、生命誓盟保険は宣伝通り、来世も幸せになる素ン晴らしい保険ってことになるんじゃないの?」
 信じられないことだけど、亜豆花ちゃんの調書ではそれを物語っている。たしかにその保険料は、生命誓盟保険のシステムを持続的に稼働させるための資金に釣り合ってはいなかったけれど、その分を別のところから賄っていた。お布施の要領で保険料は徳に変換され、確実に来世で有効活用される。まさに理想的な保険システムだ。ただ、強いて挙げさせてもらうのなら、
「やっぱり金がかかりすぎている」
 僕が言わんとしていたことを、彼女は確信深く言った。
 生命誓盟保険を運営するため、どこかから金を持ってきたとして、それで生命誓盟保険が成り立つとしても、その金を持っていかれたどこかは確実に損をしている。全体的に見れば大損していることに変わりはないのだ。生命誓盟保険はとんだお荷物と言えよう。
「わからん。なんでこんな欠陥商品を持続したがるんだ?」
 次に運ばれてきた蟹の天ぷらを口に放りこむ。
 亜豆花ちゃんは上品に一口ずつ齧っていた。
「……この保険制度が運営されることで、あらゆる方面からたくさんの雇用が生まれます。需要と供給の大稼働。本来なら一ヶ所にとどまっていたかもしれないお金が、市場に出回ることになるのはずですよね」
「金が回れば国が回るってか? そんな単純なものを目当てにしてるとは、とてもじゃないが思えんなあ」僕の言葉に、彼女は切っ刃を回す。「なにより、この国を好景気にするのが目的なら非効率的だ。先に国がすり潰れて終わりだよ」
 かなり的外れだったらしい僕の意見に、彼女は唸ってみせた。それから「たとえばねえ」と人差し指を立て、指摘するように僕に告げる。
「リンゴくんは保険局の人間だから考え及ばずのところかもしれんけど、生命誓盟保険の運営には、戦争まで絡んでくるんだぞ」
 僕は「あ」と気づいた。
 元防衛局員、元軍人の彼女は語る。
「生命誓盟保険の倫理破壊に、御仏みほとけはたいへんお怒りだ。明王、菩薩は出張ってくるし、仏罰だって落としてくる。わかってると思うけど、すんげえ防衛戦だぞ。ただでさえ戦争には莫大な金が必要だってのに、相手は神仏ときてるんだもん。並大抵のものじゃない。除仏の呪い物を作るだけでも相当のコスト。防衛戦の最前線はもっとひどいぞ。兵士への給与や、福利厚生、武器を作るのにも金がいる。保険局内で扱う金よりも、案外、防衛局内で扱う金のほうがでかいんじゃないの?」
 それには一理ある。
 戦争とは、多大なる金の浪費だ。
 世界大戦後の日ノ本大帝国は健やかな日常生活にも窮するほどだった。多くの人間の命が失われ、財が失われ、誇りが失われ、平和が失われた。失うことばかりが飽和した世界が生まれたのだ。それは日ノ本大帝国にとっては絶望と屈辱の時代だった。それまで世界を相手に張っていた肘を、すごすごと折り畳まなければいけなくなったのだ。そこから、幸福と平和の心を取り戻すのに、現在の日ノ本大帝国を築きあげるのに、どれだけの時間がかかったことか。
「よそからお金を掻き集めてまで、神仏と戦争をしてまで、生命誓盟保険を維持したがる理由ですか……」僕は惑える蜻蛉とんぼのようにぐるぐる目を回す。「そんなものありますか?」
「ないよね。死んだあとの幸福なんて、優先順位的に超低いと思うんだけど」
「少なくとも、大金を使ってまで保障したい案件ではないですよね」
「そもそもさあ、何度も言ってるように、本来の仏教って生の否定が基本思想なのよ。この世は地獄。だから徳を積んで現世から解脱しよう。生命誓盟保険は来世の幸福保障って銘打ってるけど、そこらへんがちょーっとずれてるんだよなあ……」
「でも、システム的には、来世で幸福になるようにできてるんでしたっけ?」
「うん。それは確実。魂を輪廻上に残すようレールを敷いてあんの。現世に生まれ変われるように。またそこにとんでもない額のお金がかかってるわけだけど」彼女は顎に手を当てる。「今生でお金を払っておくっていう生命誓盟保険のシステム自体が、先行投資みたいなものじゃない? 案外、生命誓盟保険の維持にかけるお金そのものも、先行投資なのかもしれないね」
「……そうまでして手に入れたいと思うような利益が未来にあるってことですね」
 けれど、そんな利益など見当もつかない。
 戦争をしているという時点でぶっちぎりの赤字だ。戦国時代のように、好き好んで戦を行う場合もあったけれど、現代の状況にそれは見合わない。
「戦争の理由の一つとして、領土拡大ってのがある。でも、相手は神仏だからこの地上みたいに上手くいかんだろうなあ。この地上にしたところで、無主未開の地がなくなってから、単純な征服はできなくなったし……人間相手で不可能なことを神仏相手で行うなんて」
「そうでしょうか……」
 先日、彼女の鬼神の如き強さを目の当たりにした僕としては、そこまで非現実的な話ではないような気がする。いまのところ、日ノ本大帝国民は脅威に晒されてはいないわけだし、防衛から侵略に切り替えれば、それなりの成果をあげられるのではなかろうか。
「神仏の領土って言うと、天国とか極楽浄土とかになりますかね? その一部だけでも奪いとる、なんてことを帝国政府が見通している可能性はありませんか?」
 期待のこもった目をしていたらしい僕に、彼女は慌てて補足する。
「言っとくけど、御仏と争ったって人類に勝ち目なんてないからね。いまなんとか拮抗してるのは相手が明王だから。人口もこっちのが多いし、それでなんとか持ち堪えてるようなもんなの。そこにもし御仏が直接降りてきたりなんかしたら、あたしたちはトイレットペーパーみたいにあの世の渦にジャーだよ、ジャー」
 そこまで圧倒的な差があるのか。
 かつて防衛戦の最前線に立ったことのある人物なだけに、説得力はあった。
 テーブルの上に焼き蟹が置かれる。白い湯気がゆらゆらと揺れていて、とてもいい匂いがした。持って食べるには熱すぎたので、手拭いで温度を冷ましながら、箸を使ってほぐしていく。
「領土拡大の他に戦争をして得られる利益は、財、資源、人材、利権……くらいですかね? 我が日ノ本大帝国の考えそうな傲慢なことだと、征服することで人間が釈迦や神になれるとか、特級の権威を手に入れるとかかな……でも、同じ理由でこれも見こめないよな」
 僕はぶつぶつと呟きながら蟹の身を取りだす。
 彼女は「はむり」とむしゃぶりついて、蟹の腱をするすると抜き取る。
「そもそも人間が神聖になれるなんて考えがおこがましいからね。イエス・キリストみたいに奇跡の技を使うとかしないと無理だろ。もしそんな非現実的なことを考えてるんだとしたら、帝国政府は夢見る夢子ちゃんだな」
 カラン、と亜豆花ちゃんの食べ終えた蟹の殻が皿の上を滑った。
「……そんなことないんとちゃいます?」




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