いつだったか、一度彼女に聞いたことがある。 生命誓盟保険に対して少しの疑念も抱かなかった僕は浅はかだったのか、と。 「うーん……初対面のとき、あたしはそういうこと匂わせちゃったけど……生命誓盟保険が施行されたのは、リンゴくんが生まれるよりもずっと前の話。昔からそうだって言われてきて、みんな信じてる状況が用意されてたんだよ? そりゃあ、誰だって疑いはしないでしょうよ」 そういうものでしょうか? 「たとえば。駅の改札の、ほら、定期でホームに入れる、ピッとかいう機械あるじゃん? あれの内部構造なんて、大抵のひとが知らないでしょ? そんなんでどうやって乗るんだよ、なんで乗れるんだよって感じだし。でも、誰も疑わない。先人が疑ってないんだもん。みんなが当たり前の顔でピッてしてたらみんな信用してピッてしちゃうんだよ」 保険制度と自動改札機は別物でしょう。 「システムという点では同じだよ」 自動改札機って、赤外線や磁気なんかを読み取って判別してるらしいですよ? オカルトとは違うじゃないですか。 「目に見えないものは全部オカルトだ! 君は赤外線や磁気を見たことはあるのかね!」 なんて さすがの僕だって、彼女がただの痴呆だとは、もう思っていない。さっきの 「生命誓盟保険が施行されて、 でも、それってすごく滑稽ですよね。 「滑稽結構」 早口言葉みたいですね。 「どちらかと言えば回文かな」 とにかく、すごく滑稽ですよね。 「そんなことないんじゃね? 都合のいい解釈ってのは歴史的に見ても珍しくないし、君は潔癖がすぎると思うなあ。アレルギー化してない?」 そんなことはないと思うんですけど。 「山越阿弥陀図って知ってる? 西の山の月のむこうに、阿弥陀如来がいるんだ。その下には眷属の勢至菩薩とか観音菩薩とかが描かれていてね……臨終間近の信仰者を極楽浄土から迎えにくるの。こういう主題で描かれる絵って少なくないんだけど、なんかおかしいでしょ? 毎度毎度言ってるように、御仏ってのは現世から解脱してんのよ、来るわけないじゃん。信仰者は輪廻を繰り返すはずだし、そもそも、解脱を目的とする仏教に、安楽世界があるわけないだろ。天国じゃないんだから。極楽浄土ってのは後づけされた概念なわけよ。当時の人間が死ぬときに迎えに来てくれたらいいなあって、そう信じたくて描かれたものなんだろうさ」 信じたくて……ですか。 「昔から、そうやって生きてきたんだ。信じたいものを信じてね」 今日は不可侵の休日―――久々の日曜日だ。 おかげで僕は起床時間を気にすることなく、自分のアパルトメントのベッドで泥のように眠れた。目を覚ましたころには十時半だった。よかった。約束の時間には間に合う時間帯だ。顔を洗い、久々の私服に着替え、のんびりしたあと家を出る。天気は快晴で、ハミングでもしているようにそよ風は心地好く、疲労を簡単に浄化してくれる。絶好のお出かけ日和。 艶子さんとは、レゲヱ 僕はソワソワ落ち着かない気分で、彼女を待っていた。 さすがにあのジャージ姿で店に入るのはまずかろうと、前日に僕は忠告した。最低限の常識はあったのか、彼女もそれに賛同した。どうやら、屋敷の修繕はほとんど完了しているらしく、一度私服を取りに行くことにしたらしい。僕は今日、初めて、彼女のジャージ以外の格好を目にすることになる。 あの彼女が小綺麗な格好で来るわけがないって? わかっている。わかっているとも。 あの、前世は芋虫か毛虫かケダモノかという彼女に、おきゃんなワンピースにクロッシェやらを期待する気などさらさらない。言葉を覚えたばかりの相手に理論武装して挑むようなものだ。こちらの一方通行で終わってしまう。いつもより少しはましかな、というレベルにまで達していれば御の字。 しかし、彼女だって仮にも女性だ。 フラグくらいは立てておいてやろうではないか。 ―――ふう、やれやれ。彼女のことだから、そりゃもう悲惨な服を着てくるに違いないぞ。いつも撫子柄のジャージを着ていたし、今度は撫子刺繍のスカジャンなんてゲテモノが出てきてもおかしくない。スカートだって穿かなさそうだし、黒のスキニーあたりが妥当だろうな。おっとっと、これはひどい。港町のヤンキーみたいだ。ジャージのときもそうだったけど、さらに柄が悪くなった感じだ。これは目も当てられないな。亜豆花ちゃんと並べるのが可哀想になるくらいだ。しかたがない。万が一にでも、億が一にでも彼女が泣きを見るようなことがあれば、内心でさらに泣かせる妄想をしながらそっと慰めてやるくらいのことはしてやろう。 「やっほう。早いねー、リンゴくん。まだ待ち合わせの五分前だよ」 到着したらしい彼女の声が聞こえたので、僕は振り返った。 テンプレ通りに絶句し、放心した。 目の前に現れた彼女は―――僕が想像した港町のヤンキーそのままの姿でそこにいた。 「こんちくしょうめ!」 「は?」 彼女は腰に手を当て、顔を顰めた。 彼女の着こむスカジャンの灰梅色の ちゃんと裏切ってほしかった。僕の気遣いを、まんまと無下にしなくとも。 「出会ってそうそうチンプンカンプンなやつだな」彼女は心底不思議そうにしている。「別に遅刻でもなんでもないじゃない」 「時間のことを言っているわけじゃないんですよ……」 「えー……じゃあ、なんでそんなに拗ねてんの?」 なんで、と歩きだした僕の背中にも指文字で聞いてくる彼女。その格好を小ましな格好だと思っているのなら、感性に磨きをかけてほしかった。けれど、まともな感性というのは自分以外にならちゃんと発動するらしく、彼女は「そういえば、リンゴくんはおしゃれだね。ベストかっこいい」と僕の私服を褒めた。 「おしゃれしてきたんですよ」 「控えめに言ってウケる。女子かよ」 本物の女子がそんな 「艶子さん、女子力って言葉、知ってます?」 「君の持ってるおしゃれ数値のこと?」 「これは人間力です……あれ? じゃあ、このひとに足りないのは人間力なのか……?」 「君は本当に包み隠さなくなってきたよなあ」彼女はしみじみとした声で言う。「女子力だか人間力だか知らんけど、それがあたしにないって言いたいんでしょ? では、女子力、または人間力とはなんたるや? まさか個人のファッションごときで決まるものではあるまい。反論があるなら言ってみろや。ん? んんー?」 彼女はサングラスをずらして意地悪そうに僕を見遣ってくる。こういうところに、彼女の人間力の低さを見つけてしまうのだと感じた。 これから駅まで亜豆花ちゃんを迎えに行く―――そして、蟹料理専門店までエスコートするのが今日の予定だ。ちなみに付添人の艶子さんは自腹である。 駅前でしばらく待っていると、中央出口から亜豆花ちゃんが出てくる。 紅白の麻の葉紋の着物で、深い色の袴を穿いている。裾から覗くメダリオンのブーツはぴかぴかと煌めいていた。電話番のアルバイトをしているときとは違った派手めな格好で、いつもよりずっとフレッシュな印象を抱く。 亜豆花ちゃんに気づいた彼女は「かわいい子!」と手を合わせた。ふふふ、そうだろう。 僕に気づいた亜豆花ちゃんは、隣にいる彼女を一瞬だけ不思議そうにしながら、しずしずとこちらへ近づいてくる。 「こんにちは。囃子崎さん。今日はよろしゅうお願いします」亜豆花ちゃんは頭を下げる。「そちらにいはるんは、通夜小路さんで間違いないですやろか?」 「あ、はい、どうも」かわいさにあてられたのか、一瞬妙に畏まった反応をする彼女。「えっと、あたしも同行させてもらう予定だから、よろしくね、亜豆花ちゃん」 あと下の名前で呼んでくれていいよ、とアピールする彼女の腕を軽く抓り、僕は引率するように蟹料理専門店まで二人を連れていった。着いて名前を言うと予約していた席に案内をしてくれる。近くの 「あて、この日を楽しみにしてたんです」 にこにこと人好きのする笑みを浮かべて亜豆花ちゃんは言った。 報酬とはいえ、そう言ってくれると僕も嬉しい。 「えっと、席に着いてすぐで申し訳ないんだけど……」テーブルが空いているうちに、と亜豆花ちゃんに本題を切りだした。「僕の知りたいもの、調べてきてくれたかな?」 「へえ。遅うなってすんません」 亜豆花ちゃんは機嫌を損ねることなく言った。持ち手がビーズでできた鞄から、彼女は水色のファイルを取りだす。ファイルはそれなりに分厚くて、束になった紙やら写真やらの入ったクリアポケットやらが脇から見えた。まさかここまでしっかりまとめてくれているとは思わなくて、僕はびっくりする。すごい。適当に振ったら、百返ってきた感じだ。 「でも、もうどんな結果が出てきたって驚きませんよ。ここ最近ぶっ飛んだ事件に巻きこまれすぎて、インフレが起きてますから」 「リンゴくん、なんか不憫だな……」 やかましいわ。ていうか、わりと貴女が元凶なんですけど。 ◯ | 1 / 5 | SUSUMU |