信者やだ | ナノ

信者の葬列

 その日は朝から雨が降っていた。濁った空に、それを反射する水たまり。窓の外ではカラフルな傘の花が満開し、冷たいしずくを弾いている。屋根の下に入った人間は傘を執拗にシェイクしていた。飛び散る滴が乾いた地面に水玉模様を描く。
 気圧の変化に弱い局員の数名は、頭痛薬を飲みながら仕事と格闘をしていた。相変わらずの死屍累々だが―――雨は外出を億劫にさせるらしい―――いつもより訪問者は少なく、書類仕事を優先させることができた。
 仮眠室で数十分の睡眠を摂っていた僕は、「くあ」とあくびをしながら起き上がる。
 時刻は午後の三時半と四時のあいだくらいだ。
 昼間に仮眠室を利用しているのは僕だけだったので、申し訳ない気持ちになった。
 そもそも、家に帰れないほど時間がないのが悪いわけだけど。
「あ! 囃子崎さん、相談室にお客様です」仮眠室を出ると、僕を呼びにきたであろう後輩に声をかけられる。「いつもの子ですよ。今際いまわ諦くん。相変わらず熱心ですね」
 この雨でさえ、諦くんの足を止めるには至らなかったらしい。僕は「ありがとう」と返すと、伝えられた個室へと向かった。僕はノックしたあと、その扉を開ける。椅子にも座らず律儀に立っていたらしい諦くんと目が合った。
「囃子崎さん。どうも」丸い背をさらに折って、彼は頭を下げる。「お忙しかったですか?」
「大丈夫ですよ。それよりも、すみません、お待たせしてしまったみたいで……」
 頭を下げながら後ろ手で扉を閉める。
 彼はふるりと首を振りながら「え、ちょ、謝んないでくださいよ」と言った。
「こんな雨の中わざわざ……急用のご相談ですか?」
 視線を軽く上下に動かしながら、僕は尋ねた。
 彼の靴や袴の裾は濡れていた。長い前髪にも水滴がついていて、ここに至るまでの道中がそう穏やかなものではなかったことを理解する。こんなになってまで訪れたのだから、のっぴきならない事情かと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
「あ、えっと、違うんです」困ったように声をどもらせた諦くん。「ただ、このまえ来たのに囃子崎さんいなかったから。なんか、外回り? 行ってたって。ちょっとのあいだ待ってたんですけど、門限の時間になりそうだったんで、俺、その日は帰ったんですけど、今日はって」
「そうだったんですね……」
 僕が促すと、彼は素直に椅子に座った。
 給仕場で紅茶と金平糖を用意し、彼の目の前に置く。僕もテーブルの手前のほうに自分の分を置き、席に着いた。
「今日はずっと雨で、気分が下がっちゃいますよね。同僚の女子は髪が湿気でうねるのを気にしてました。何人かは頭痛もするみたいで、大変そうです」
 気になってしかたがないのか、翔井は何度も髪をまとめなおしていた。不束課長は腰にくるらしく、ずっと渋い顔をしている。僕も、身体的な影響は受けていないにしろ、なんとなく憂鬱な気分にはなっていた。
「俺は雨、嫌いじゃないですよ」金平糖を摘まみながら言う。「むしろ、天気のいい日のほうが、嫌いです……囃子崎さんは、雨、嫌いですか?」
「うーん。室内で眺めているだけなら好きですね。外出しなきゃいけなくなると、やっぱり嫌ですよ。靴だって濡れちゃいますし」
 彼は自分の足元を確かめるようにして「ああ、たしかに」言ったあと、不思議そうに「なんで雨って降るんだろう」と呟く。
「たしかに不思議ですよね。空から水が降ってくるなんて」
「天文学的だ」
「天候は気象学らしいですよ」
「なにが違うんですか?」
 え、ええー……なにが違うんだろう。
 言われてみれば、そう変わらない気もしてくるぞ。
 なにそれ、みたいな目で彼は僕を見てくるので、ナメられたなにかを挽回するように、世間一般で知られているようなことを、ぺらぺらりと述べてみる。
「雨が降るのは、雲の中にある小さな水の粒のせいですよ。元々、雲の中には氷とか水とかの粒があるんです。重くなって空に浮かんでいられなくなって、地上に落ちてきたものを雨と呼ぶんです」
 彼はどこかぼんやりした声で「水の粒?」と反復する。
「そうです。理科で習いませんでした?」
「……その範囲はちゃんと教わってなくて……いまは国語と算数と英語の三科目を重点的にやってるんです。あと、知っておいたほうがいいからって、現代社会をちょっとだけ」
「まあ、そのほうが効率はいいかもしれないですね。そういう職業に就くならまだしも、理科なんて、大人になってから使うことなんてないですもんね。国語、数学はなんやかんやで必要だし、最近は国際化社会ですから、英語をやっていて損はない。現代社会も、勉強の中じゃ一番実践で使えそうですし」
「施設の先生もそう言ってました……俺、下地がないんで、いま勉強してるのも、なに言ってるのか半分くらいしかわかんないし、全然身についてない感じはするんですけど……俺と同い年のやつなら、本当は、もっと多くのことを知ってないとだめなんですよね」
 彼は悔しそうな表情で言った。俯き加減で、長い前髪が瞳を深く隠す。僕がなにを言おうか迷っているあいだに、彼は無理矢理に顔を上げた。
「それでもね、囃子崎さん。俺、見つけたんですよ」
「えっと……なにをですか?」
「忘れたんですか?」彼は拗ねたように続ける。「お金を稼ぐ方法ですよ」
 ああ、そういえばそんなことを言っていた。
 彼は生命誓盟保険に加入するため、その保険料を、どうにかこうにか頭を捻り、作りだそうとしているのだ。その策として、これまで臓器売買やら裏バイトやら気分の悪そうな案を僕に明示し、手を出そうとしていた。なんとか踏みとどまってくれた―――というより法的に踏みとどまらざるを得なかった―――ようだけど、今回はどんな策を持ってきたのか。
 彼は「なんと」と口を開き、真面目な声色で僕に告げる。
「マッコウクジラのフンを売ると、一千万円以上になるらしいんです」
「……ふ、ふうん」
「駄洒落ですか?」
 彼はどこかひいたような声で「つまんな」と呟く。
 この少年、たまに失礼である。
「その話は僕も聞いたことがありますよ。竜涎香りゅうぜんこうですっけ?」僕は苦笑して言った。「でも、それって、宝くじの確率とどっこい……下手すると、それより低いんじゃないですか?」
「先行投資がないだけ望みはありますよ」
「でしょうかねえ……」
 この曖昧な反応を責められるようなことはなかった。
 彼のネタはまだ尽きていなかったのだ。
「まだあります。苔ビジネス。最近流行ってるらしいんですよ。インテリアとか、装飾用に売れるらしくって」
「苔」
「それに、砂金掘り。ゴールドラッシュの波に乗ります」
「砂金」
「かくなるうえは、徳川家の埋蔵金」
「諦くん……もしかして……ふざけてます?」
 彼は笑うこともなく「はい」と言う。
 こやつめ。なかなかやるじゃないか。完全に遊ばれた。
 けれど、彼はすぐに「本当のところ」と真の策を切りだしていった。
「死亡保険でしたっけ、それを考えてます。俺が死んだらお金が入るんですよね?」
 勘弁してくれ……そんな物騒なことを言うものじゃない。
 野々之田さんの件とダブる内容ではあったけど、その性質は全然違う。心を動かされても感動はしない。いい話などではなく、すごく嫌な提案だった。それに、死亡保険なんて、保険事業を利用するような策を後押しすることはできない。口には出さないけれど、僕としては、諦くんにはご一考いただきたかった。
「……生命誓盟保険に加入するためのお金を用意するための、死亡保険に加入するためのお金を用意しなければなりませんね」
 僕がそう言うと、彼は少しだけ視線を彷徨さまよわせ、恥ずかしそうに俯いた。自分がどれほど無謀な道を選んでいたのか今になって気づいたのだろう。失言してしまったと、白い手で口元を押さえていた。そういうしぐさをすると、普段は達観したようなことを言う彼も、どこか子供らしく見える。
「一攫千金って厳しいですね」僕は苦笑する。「夢のまた夢というか、来世の話というか」
「やっぱり臓器売買しかないかな……闇市場とかでなら売買もあるみたいだし」
 さすがに男娼とかはしたくないし、とぼやく彼に、危ないんだか弁えているんだかわからなくなる。あんまり無茶はしないでほしい。若い身空で、わざわざ過酷な道を選ばなくても。
「もう一度、よく考えておきます」彼は紅茶を一気に飲み干して言った。「俺、馬鹿なんで、苦労はすると思うけど。ちゃんと来世では幸せになれるように」
 彼はぺこりと頭を下げて席を立つ。いつものように「だから、また来てもいいですよね」と僕に言う。いまさら断るわけもなく、僕はいつものように微笑みを返し、「ええ、また」と頭を下げた。
 いつもならここでお別れだが、今日はロビーまで彼を送っていくことにした。
 彼の隣に僕は並び、蛇腹扉のエレベーターに乗りこむ。
 そのままぬるりと降りていくときに、金光沢の柱に、まるで鏡のように映りこんでいる、諦くんを見つけた。
 前髪と俯きがちの猫背との相乗効果で、目元はほとんど見えない。毒っぽい黒髪と対照的に、肌は白い。お日様の光をあまり浴びてこなかったためだ。浅葱色のスタンドカラーのブラウスに隠された首は、折れそうなほど細かった。
 じいっと眺めていると、鏡上の彼と目が合った。一瞬ドキッとしてしまって、後ろめたさを拭うように振り向いたが、彼は間接的な僕の視線には気づいていない様子。むしろ彼こそ不躾なほどに、鏡上でもないリアルの僕をじいっと眺めた。
「囃子崎さんの髪って赤いですよね。珍しい」
 そんな純真な感想に、僕は笑って答えた。
「母がヨォロピアンとのハーフなんです。母の赤毛の遺伝ですね」
「へえ、そうなんですか。林檎みたい」
 僕の丸い頭を見て、彼はそうこぼした。
 昔から言われてきたことだ。名前も琳檎リンゴで、違うのは字とイントネーションくらい。たしか艶子さんも、それになぞらえたジョークを言ったことがあったはずだ。




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