「ご兄弟とかはいるんですか? みんな同じ赤毛だったりして」 「言葉の通じない弟と、全然似てない妹が一人ずつ。弟は僕と同じ赤毛です」 「なにそれ。もしかして、なんか複雑な家庭事情とかあるんですか?」 「多分、諦くんが思ってるほど大袈裟なものじゃないですよ」 「兄弟仲はいいほうで?」 「どうだろう……悪くはないと思いますよ。一人暮らしするようになってからは、全然会ってないんですけどね……」 「俺にも、妹がいたんですよ、 「かわいい名前ですね。ちょっとコミカルな感じがイマドキっぽくて」 「……でも、あいつ、泣き虫だから、ずっと―――」 ガクン。 そのとき、僕らの乗っていたエレベーター庫が振動するようにして停止した。 目的階に止まったのかと思ったけれど、どうやらそうでもなさそうだ。 電灯まで消えてしまい、動かない庫内に閉じこめられた僕らは顔を見合わせる。 「故障でしょうか?」 「俺、エレベーターが止まる経験したの、初めてです」 「まあ、滅多に起きませんもんねえ……」 どうしたものかと思っていると、パッと明るくなった。 案外簡単に、エレベーターは動きだす。 数秒で目的階――― 一階のロビーへと着いた。さっきのはなんだったんだと言い合いながら、僕も彼も庫内から出る。誤作動か一時の不具合か、仔細は知れなかったが、どうやら困惑したのは僕らだけではなかったらしい。本部内の全システムが一時停止し、身動きがどれなくなっていたようだ。たったいま復旧したようで、困惑や安堵や怪訝の顔色が、ロビーでもそこかしこに見られた。 本当になにがあったんだろう。 浅葱のブラウスに映えるような赤い唐傘を差した彼を見送り、乗ってきた庫内に戻って階を上がっていった。するとだ。本当に、なにがあったのか、おかしなことが起こる。上へ行けば行くほど変な匂いがしてくるのだ。鼻を刺すような鋭い匂いだ。唐辛子とかわさびとかの香辛料の類に近い。目や鼻もむず痒くなり、着いたころにはくしゃみが出ていた。薄い煙が視界に広がっている。目がチカチカとして痛かった。 どうやら業務課のほうからこの煙は出ているらしく、僕は焦り足で向かっていく。 課に戻ると、まるで一室をそのまま燻製にしたかのような、悲惨な匂いが鼻孔を突いた。 「ゲホッ、ゴホッ、ちょ、なんですかこれ!」 耳や目を刺すえげえげつない匂い。あまりの痛さにぎゅっと目を閉じる。ぽろっと生理的な涙が目尻からこぼれた。手をパタパタと動かし、気休めでもと煙を掻き分ける。 煙の薄まったころ、僕は涙を流しながら、状況を括目した。 先刻まで整然としていたはずの業務課が、しっちゃかめっちゃかになっていたのだ。 資料は足元に散らばり、机は列を乱し、まるで襲撃でもされたかのように荒れている。 「な、なんだこれ……」 そばまで寄ってきた翔井が、動揺する僕の肩を掴み、掠れた声で「お、襲われた」と言う。 「よくわかんないんだけど、さっき、いきなりブレーカーが落ちて、電気全部消えちゃったの。そしたら、煙玉が飛んできて、そこらじゅう煙だらけ」翔井は我慢が切れたように数度、咳きこんだ。「た、多分、煙の中になにか入ってたんだと思う。目とかすぐに痛くなっちゃって、みんな咳きこんだりしてるあいだに、なんか、足音が聞こえてきて、それで……」 だとしたら、とても計画的な犯行だ。ここのセキュリティーは万全のはず。不審者を見つけると、本部内から逃げられないよう、たちまちロックがかかる。監視カメラやブザー、防犯トラップも発動する。その全てを遮断させるために、本部内の機能を一時的に全停止させたのだろう。だとしたら、犯人の手がかりはほとんど残っていないはずだ。どこの誰がこんなことをしたのか、突き止めることができない。 「僕は犯人と入れ違いになったってことか……」 「十数秒くらいしかいなかったと思う。とにかく、みんなパニックになっちゃって」 「怪我人は……いないみたいだな。何人かはまだ呻いてるけど」 「ん……煙にやられてるだけだと思う。私たちに危害は加えなかったし。ちょっと荒らされただけ。目的はよくわかんないけど、ひどい悪戯だよ」 「悪戯っていうか、これは事件だろ、翔井」 「るんるんね」 「そう、事件だ、るんるん」 こう言うと、なんか浮かれてるみたいになってしまった。いまは業務時間外にあたるんだなあ、とか思いながら、僕は自分のデスクに戻っていく。 僕のデスクも多少荒らされていた。激突でもされたみたいに位置がずれているし、書類も足元に散らばっている。しかも足跡つきで。逃げる際にでも踏みつけられたのだろう。端っこのほうが三重折りにでもされたかのようにぐっちゃりとしていた。許すまじ! しかし、もっと大変なことに僕は気づく。 「はっ?」 デスクに立てかけていたはずの伝家の宝刀がなくなっているのだ。 荒らされてどこぞへと飛ばされたのかとも思ったが、いくら見回せど見当たらない。あんな長物が目立たないわけがない。見当たらないのだとしたら、この場にはないということだ。 「……まさか」 盗まれたのか? ここを燻製にした、その侵入者に? 僕の血の気はサッと失せていく。その場に蹲るように膝をついた。 どうしよう。艶子さんに申し訳が立たない。あのやべえ&刀が盗まれたなんて。予想外の事件とはいえ、僕の監督不行き届きだ。こんなところに置きっぱなしにするべきじゃなかったのだ。せめて、ロッカーに入れておくべきだった。あんな、見るからに高価そうなものを無造作に立てかけておくなんて、盗んでくださいと言っているようなものじゃないか。もし、その侵入者とやらが、あの宝刀を売り飛ばしてしまったら……僕はぞっとして口元に手を当てる。 「た、大変です! 課長!」 そのとき、悲痛な声が上がった。 僕はアイスのように冷えた心臓と口元を押さえながら、よろよろと立ち上がる。 全員の目が涙目の局員に集中する。僕と同じくらい、いや、下手をすると僕よりも真っ青になった顔で、その局員は声を張りあげた。 「さっきの停電のせいで、PCの作業途中のデータ、全部吹っ飛んでます!」 「踏んだり蹴ったりだあぁああぁ!!」 そう雄叫びを上げるのは僕に限った話ではない。業務課―――いや、広報課、管理課、開発課等の本部にいた全員が、それぞれに「おーいおいおい」と泣き喚いていた。 死屍累々を超越する。ここは地獄だった。 何人かは俯いたまま、茫然自失の状態だ。保存するタイミングが合わなかったのだろう、今朝からの仕事が全部パアになった者たちだ。いつ顔を上げるか、本当に顔を上げられるかは、誰にもわからない。 僕も僕で、仮眠前のデータがきれいさっぱり吹っ飛んでいた。バックアップまでぶっ潰れている状態。けんもほろろ、立つ鳥跡を濁さず、僕が取りかかっていたデータは鮮やかに姿を消していた。果てしない虚無感とどうしようもない怒りが全身を激流していく。 不束課長は廊下に出て話をしている。そこには管理課長や開発課長らがいた。今回の煙玉・侵入者・停電というトリプル騒動についての事後処理を話し合っているようだ。犯人特定については諦観の姿勢を示している。念のため通報はするものの、負傷者や窃盗の疑いもないことから、事件性の低さを見積もっていた。 僕はそこに、ちょいと待ってくださいなと踏みこみたくなったけれど、これは保険局の問題でもなんでもない―――僕が勝手に預かっていた他人のものが奪われてしまったにすぎない。局内で取り上げてくれるかも微妙なラインで、踏みこむ足は引っこめられる。 艶子さんに、なんて説明しよう。あの伝家の宝刀を盗まれてしまったなんて。家が襲われたときすら持ちだそうとした貴重な品なのだ。絶対に許してくれない。 もはや失われたデータなんて二の次だ。僕はどう言い訳すべきか考えて、でも、その情けなさと申し訳なさに、素直に言おうと決心する。 だが、叶うならば、そんな瞬間は来ないでほしい。 彼女の顔も見たくない、いや、間違えた、合わせる顔がない。 しかし、無情にも、そのときは訪れてしまうのだ。 「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい! んっふんだ! っらーい!」 遠慮のない野蛮なくしゃみが聞こえ、そのどこか聞き慣れたトーンに、僕はややあってから視線を遣った。そこには、予想通りの艶子さん。いつも通りの撫子柄のジャージで、真っ黒いサングラスも健在だ。片腕には紙袋を抱えていた。朝から見ないと思っていたけど、どこかに出かけていたようだ。安っぽいビニール傘を傘立てに突き刺すと、僕の視線に気づいたのか、彼女は「おいでおいで」と手招きする。 ―――ああ、断罪の時間だ。 僕は重い足取りで廊下にいる彼女のもとへ行く。課長たちの緊急会議の邪魔にならないよう、彼女を連れ、少し離れたところまで移動した。 「てかさあ、なんでこのへんこんなに鼻がむずむずすんの? 花粉症になったみたいなんだけど。ちょっと煙たい気もするし」 湿気た髪に触れながら、彼女は愚痴るように言った。 僕は口の裏をキュッと噛み、不自然でない程度に目を逸らした。 「ちょっと、いろいろありまして……」 「のようだね。みんな忙しそうだし。もしかして、あたし邪魔かな?」 「いや、全然大丈夫ですよ」 ここでイエスと答えておかなかったことを、僕は言ってから後悔した。邪魔だと彼女を返しておけば、もう少しくらいは先延ばしできたかもしれないのに。 彼女は、サングラス越しでもわかるくらいキラキラした目で、僕に言う。 「せっかく都会にいるんだから、前々から気になってた春画美術館と味噌汁展、行ってきたんだ。やばかったよ、春画、芸術とか高尚なことはわかんないから露骨なこと言っちゃうけどさ、いかんね! えろすぎ! あんな無機チックな顔してるくせにさあ、やるこたあやっちゃってんだもん! 卑猥をぶつけられたって感じで見応えあった。味噌汁展はすっごい美味しかったなあ! あたしの感動をわけたげる。ほら、お土産! 味噌汁 そのお土産に心が痛む。 ああ、どうしよう。この底抜けに卑しいひとがお土産なんて買ってきてくれているというのに、僕は……僕は……。 押し黙る僕に、彼女は異変を感じたのか、「リンゴくん、大丈夫?」と顔を寄せてくる。 顔色の悪さが見てとれたのだろう。彼女は心配そうに眉を顰めた。 MODORU | 2 / 6 | SUSUMU |