信者やだ | ナノ

おお、素敵な情熱よ

 というわけで、午後四時。僕は局員の使うロッカールームの前で、その適役に話しかけた。
「……こんにちは。亜豆花ちゃん」
 亜豆花ちゃんは人形のような顔をきょとんとさせて、僕に「こんにちは」と礼をした。
 今日も清廉な袴姿だった。大きなリボンで、長い髪をハーフアップにしている。前髪も三つ編みで編みこまれてあるが、若い娘の流行りなのだろうか。その瑞々しさが、青春時代の花のような、健やかなものに見えた。
 こんな子に、こんな頼みごとをするのは、心苦しいものがある。
「いきなりで申し訳ないんだけど……亜豆花ちゃんにやってほしいことがあるんだ」
 僕がそう言うと、彼女は「どなたさんかの給仕ですか?」と首を傾げる。
「いや」僕は首を振る。「調べもの。生命誓盟保険における経理状況が知りたい。管理課のデータベースにあるはずだ。もしかしたら、上層部の情報にまで食いこむかも。生命誓盟保険に関係する金運び、流れを、全部まとめて僕に教えて」念を押すように。「内密に」
 こんなとんでもな要求にもかかわらず、亜豆花ちゃんは表情を変えなかった。
 ただ、僕がなにを睨んでいるのか、なにを知りたいのかを、冷静に汲みとってくれた。
「内密、いうんは……」一つ呟くように僕に問う。「翔井さんにもですか?」
 僕は悩んだ結果、頷いた。
 翔井にこそ、この話はすべきでないと、僕は思ったのだ。
「頼む。これは君の力を信じてのことなんだ」
 亜豆花ちゃんは「メルシー」と言ってふんわりと微笑んだ。
「経理の書類は、前に管理課にヘルプで入ったときにも見たことありますよって、内容もしっかり覚えとります。改めてあっちに伺うこともできますし。隠密活動いうんも、なんや忍みたいで、おもろそうやしね。わかりました。ほなら、その仕事、引き受けさせてもらいますわ」
 僕が安堵のため息を漏らした。
 しかし、彼女の発言はそれで終わりではなかった。
「そんで? 報酬はいくらもらえるんです?」
「え?」
 僕の素っ頓狂な声に、亜豆花ちゃんはおかしそうに笑った。
「あては翔井さんに雇われた身です。翔井さんに正当な給料をもろて、その給料分をきっちり働いて返しとるんです。囃子崎さんの言う仕事はその契約範囲外やないですか。囃子崎さんから報酬をもらうんは、妥当やと思うんですけどなあ」
 え、ええー……。
 たしかに亜豆花ちゃんの言い分は尤もなものだが、まさかそんなことを要求されるとは思ってもみなかった僕としては、狐につままれたような気分だ。
 そんな僕に、亜豆花ちゃんは「ほうっ」と愁いを帯びたため息をつく。
「なんやみなさん、あてに癒されたいとかなんとか、甘く見てはるみたいですけど、ほんまかなんわ、水族館で海月クラゲでもペンギンでも見に行きはったらええやないですか」
 その顔で毒っぽいことを言われると心にくる。袖で口元を隠す清楚な様はいつもの亜豆花ちゃんなのに、発する言葉には真綿で包んだようなパンチがあった。
「給料分はちゃあんと従事しとりますけど、業務時間外にもそれを要求されるんは、あんま気分のええもんとちゃいますんよ?」
「う。うーん。ごめんね?」
「わかってくれはってよかった」亜豆花ちゃんはやはり微笑む。「ほなら、囃子崎さんには、なにをもらいましょか」
 人差し指を顎の横にあて、踊るようにくるりと翻した。
 ご機嫌に鼻唄を歌い、数秒後には「せや」と、いまだ呆然とする僕に振り向く。
 花盛りの少女が浮かべるには、あまりにも妖艶な表情で。
「あて、蟹食べたい」






「あたしも蟹食べたい」
「勝手に食べてればいいんじゃないですか?」
 家の修繕を頼む業者を探している彼女の傍らで、僕は有名な蟹料理専門店のコース料理を検索していた。亜豆花ちゃんのおねだり、改め、亜豆花ちゃんへの報酬を叶えるためだ。
 蟹と聞いて身構えてしまったが、調べてみればそう高額でもなかった。ランチで行くならディナーよりも低価格で行けるようだし、この金額で蟹料理を食べられるなら安いものである。蟹の天ぷら、蟹のお茶漬け、蟹の茶碗蒸し。どれも美味しそうで、食べに行くのが楽しみになってくる。
 いくら有能な子だとはいえ、薄氷をむが如しの危険な仕事を、まだ十代の少女にさせるのだ。少しくらいは奮発してあげたい。お土産も持たせてあげるのもいいだろう。
 僕はランチの中でも一番上のコースを、二人分予約しておいた。
「蟹、蟹、蟹」
 当てこするように肩をぶつけてくる彼女を、僕は「ふんにゃ」と押し返す。遺憾ながら、このひとは僕よりも背が高いのだ。そんな相手に体当たられては僕が潰れてしまう。
「おとなげないですよ。僕を圧迫死させる気ですか」
「蟹食べたいよう」
「だから、勝手に食べてればいいじゃないですか」
「奢ってって言ってんの。他人の機微を悟れんやつだなあ」
 ブーメランかよ。嫌だという僕の機微くらい悟れ。
「ていうか、貴女、お金持ちじゃないですか。普通に自腹で食べれるでしょう」
「他人のお金で食べるのが一番美味しいに決まってんじゃん」
 そういえばこのひと、金持ちのくせに、自分で酒を買ったりはしないんだよな……これまで飲んできたのは僕の土産の物ばかりだし。思えば、タクシーの中で食べた高級いくらおにぎりも、あの麻呂助じいさんとやらが買ってきてくれたものだった。個室で振る舞ったカステラやら芋羊羹やらも、みんなそうじゃないか。このひと、自分の金で飲食をしない。
 なんていうか……言葉にすると、本当に卑しいんだな、このひと。
「あれ? リンゴくん、いまあたしのこと貶したりした?」
「まさか。心の中だけですよ」
「そっか。ごめんね」
 彼女は「お。みっけ」と呟くと、手頃な業者に電話をかける。敬語で話す彼女は新鮮で、ちゃんと障りのないコミュニケーションもとれたのかと思った。そうこうしているあいだに通話が終えられる。家の損傷具合を確認し、修繕のために必要な日数を算出したあと、改めて電話してもらうことになったらしい。
 僕と彼女は本部から出て、大通りを歩いていた。僕は自宅訪問の仕事があってのことだったが、彼女は単なる暇つぶしだ。本部を出る際、これから仕事なので、と彼女に言ったら、あたしもついていく、なんて喚いてきたのだ。変に本部内をうろちょろされても困るし、仕事の邪魔にならないのならばと、僕は彼女の同行を許諾した。
 この時間帯の空気は魅力的だ。景色に貼りつく陰は優しく、光を受けたところは甘く輝いている。あまりの気持ちよさに、お行儀よく寝かしつけておいた眠気が目を覚ましてくる。その眠気に再び眠るよう言いつけているとき、彼女は僕に尋ねてきた。
「じゃあ、とりあえず、その子に任せれば、あとは大丈夫ってこと?」
 亜豆花ちゃんと直接面会していない彼女は、多少不安があるのかもしれない。
 僕はそんなのは杞憂だと思わせるよう、確信的に頷いた。
「事が事なので絶対とは言えませんが、あの亜豆花ちゃんなら大丈夫でしょう。仕事も早いですし……今週中には報告を挙げてくれるはずです」
「ハーッ、優秀だねえ」彼女は降参するように、驚愕するように両手を上げる。「そういう優秀な人間って、意外といいとこ掻っ攫ってったりするのよね。お手並み拝見。期待満点」
 そのまま両手の平を前後させて、ラップのように韻を踏む彼女。
 しかし。これで、当面の問題の半分は片づいたと言ってもいい。金銭面の真相探りを、亜豆花ちゃんに丸投げ、もとい、委託したおかげで、僕らは待機するしかなくなった。いまの段階で、これ以上できることはなにもない。亜豆花ちゃんの報告次第。鬼が出るか蛇が出るか、いっそ仏が出るかは、神のみぞ、いや、仏のみぞ知るところだろう。
「いやいやいや、仏が知ってたら怖いでしょ」彼女は僕の言い回しが気に食わなかったのか、いらぬ茶々を入れてくる。「そもそも仏は現世にいないよ。神はともかく、御仏みほとけって、思ってるよりも身近な存在じゃないのよね。解脱しているから、こちら側には干渉できないのさ」
 御仏が身近だと思ったことは一寸もないが、彼女の話には興味があった。
 彼女の蓄える宗教観は、僕が生命誓盟保険部の人間という聖職者に近い位置にいることを差し引いても、蔑ろにはできない訴求力があるのた。
「でも、それ、弖爾乎波てにをはが合わないんじゃないですか? 御仏がこちら側に干渉できないというなら、仏罰や生命誓盟保険を巡る争いはどう説明するんですか」
「まず、人類が戦ってる相手は御仏ではなく、明王だってことを念頭に入れとこうぜ。変化身とも言われてはいるからそこんとこはあやふやなんだけど、でも、輪廻転生から解脱した御仏は、基本的にはあたしたちに関わることがない。関わることがないから、補佐役でもある菩薩とかが出張ってんだよ」
 明王とは、御仏の命により仏法を守る、守護神のような存在だ。あるいは、仏が化身した姿とも言われている。仏の教えに従順でない者たちに対し、恐ろしげな容貌で調伏する。人類の目下の敵は明王と言ってふさわしく、その大半が武器を持って暴力を尽くす。
 菩薩は、現界できない御仏の手足となり、人々を正しい教えへと導く存在だ。来世で御仏になれると確定している修行者とも、悟りを得ているにもかかわらず、現世にとどまって活動している神聖者ともされている。明王ほど脅威ではないものの、こちらも人間を超越した存在として恐れられているのだ。
「本来、仏教には仏罰はない。祟りもしない。悟りを開いて全ての苦から解放されてるんだから、そもそも怒ってさえいないのかもしれない」
「でも、生命誓盟保険部には、除仏の呪い物があっちこっちにあります。艶子さんは、あれが全部お飾りだって言いたいんですか?」
「いんや。でも、そこは解釈の違いによる誤差だとは思ってる」
 誤差。そんなもので罰を当てられては、こちらとしてはたまったものではない。
 しかし、彼女は僕の感想にメスを入れるよう、核の部分に言及する。
「そもそも、仏教にかぎらず、宗教ってのは、相当あやふやなものなんだよ。本来はないはずの仏罰って考えがどこぞで生まれて、それをみんなが信じたから本当に仏罰が下るようになったわけだし。本当かどうかは関係なくて、根づいたもん勝ちって感じかな」
 僕が納得の相槌を打とうとすると、彼女は「はい、ぶー」と嗜めてきた。
 案外、彼女はこういう先回りが上手い。
「あんまりあたしを信じすぎないの。あたしの考えだって、あくまで複数ある解釈の一つにすぎないんだからね。画一化なんてされるわけがないのさ。どう信じるか、なにを信じるかは誰かの勝手。リンゴくん、知らない? ヒトにはヒトの乳酸菌、って」
 たしかに、宗教の解釈が時代によって移り変わっていくのはよくあることだ。一つの宗教の中でもいろんな派閥に分かれるし、いっそ他の宗教の感覚が取り入れられたりもする。そういう差分から敵対関係が生まれることもあり、全く違う価値観を強く主張し合う。
「禅宗に大満弘忍って僧がいたんだけど、その弟子の神秀と慧能って二人、本当に同じやつから習ったのかってくらい考えかたが違うんだよ。神秀―――身はれ菩提樹、心は明鏡台の如し。慧能―――菩提じゅ無し、明鏡もだいあらず。あらまあ、正反対! ところが、そういう例は世界でもたくさんあるわけだ。カトリックとプロテスタントでも全然違うからね。教会のいでたちから結婚事情まで。控えめに言ってウケる。神父と牧師って言葉があるけど、あれの違いって、たしかカトリックかプロテスタントかってことだったと思うんだよね。でも、元は同じキリスト教なわけよ。曲解や誤解だけでできたものじゃない。同じものを信じてたはずのひとが、信じられなくなって、別のものを信じて、そんでまた生まれたりするのよ」
「なんか、適当ですね。不確かっていうか」
「それが世の中のことわりってやつさ」妙に達観したようなむかつく顔で彼女は言った。「ちなみにこれは、生まれ変わっても変わらない、今昔の時代を駆け抜ける、スピリチュアルな考えだとあたしは思うね! イカしてるでしょ? パクってもいいよ!」
 調子づいた彼女の馬鹿げた主張はさておくとして。
 信仰とは、案外、脆いものなのだ。
 浮世は諸行無常。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。ありとあらゆるものは生滅し、とどまることなく常に変移している。
 言ってしまえば水物だ。
 一個の具現物がその形態を変えていくなど、世界的に見てもそう珍しいことでもない。その変遷は、後世の人間が振り返るように見てみると、実に適当であやふやなものだ。確固たる存在など万に一つもなく、もしあるとするならば、彼女の言うような、確固たる存在こそを否定する、世の中の理くらいのものだろう。古来から儚さや物事の移り変わりを吟味する日ノ本大帝国民にとって、それは些細なことなのかもしれないが。




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