大魔女 2/7



「せめて、せめてあと一度、一目だけでも拝みたい」落ちこんだ表情のアイオネは言う。「どうにかして、あの『大魔女』をもう一度見ることは叶わないか……」
 まだうら若き、未来に溢れた若者が、この世の終わりかというような切実な顔でそう言っているのだ。慰めにでもと、女主人は「見に行ってみたらどうだい?」と声をかける。
「見に行く?」アイオネは眉を顰める。「なにを?」
「その『大魔女』さ」女店主はカウンターに肘をついて言った。「なんでも、今日から調査が行われるとかで、美術館からその『大魔女』が持ち出されるらしいよ。修復が不可能なら永遠に倉庫入りって噂もあるね。たとえ消えちまったものでもお目にかかれるのは最後ってんで、朝から美術館は大行列さ。いまの時間ならもう空いてるんじゃないかい?」
「おお、女神よ! 運命の女神の御手よ!」アイオネは歌うように声を張りあげた。「感謝しよう。それでは失礼する。よい一日を、お嬢さん」
 言うが早いか、アイオネは店から飛びだし、大通りを駆けだした。
 向かった美術館は、普段に比べれば盛況と言えるほどの大賑わいだった。行列が伸びるほどでもなかったけれど――元々が宮殿だっただけに、この美術館は広い――収容できる人数が多いにも関わらず、入口のあたりが押し寄せるひとで詰まっていた。目当ての『大魔女』に辿りつけるか不安だったけれど、しかし、今日はその心配をする必要もなく、大衆は一ヶ所に集中していた。そこにあの絵があるということなど、馬鹿でもわかる。
 強張るような気持ちでアイオネはその付近に近づいた。
 肝心の絵画の前には撤去作業員が立っていて、アイオネのいる角度からでは絵を完全に覆ってしまっている。見えない。また、人間でできた薔薇の花は固く、押し退けてみようと思ってもびくともしなかった。いずれ、その群れの中央から、綻ぶように客が離脱していく。どの顔も辛気臭そうで、アイオネは息が詰まりそうなほど鼓動が早まるのを感じる。
 恐々と、祈るように、画面を見つめ上げても――結局、その絵は消えてしまっていた。
 真っ白だ。コルセットのように剛健な額縁で飾られたそれには、もはや絵画と呼べるだけの色も線もなくなってしまっていた。板の木目、キャンバスの画布、糊で張った紙、ありとあらゆる支持体のテクスチャが消えた、無情なほどに白い画面があるだけ。そこにかつて『大魔女』がいたなんて、きっと誰も想像し得ないだろう。まるで最初から、そんなものはなかったかのようだった。
 やがて、その絵画は作業員の手によって壁から外されて、美術館の奥へと消えていった。
 集まっていた客は、驚愕と失望のため息をつきながら、散り散りになっていく。
 アイオネは脱力気味に立ちつくしていた。
 追いたてるような喪失感を持て余す。
――本当にあの『大魔女』は消えてしまったのだ。本の中にも、美術館にも、どこにもいない。
 ぼんやりと佇んでいると、ふと自分の隣にいる人影に気がついた。
 それは、へんてこな格好をした人間だった。
 外套は暗い色のローブで、目深に被った頭巾フードはニンジンのように尖っている。はっきり言って時代遅れ。周りの目もほのかに冷たい。この洒落たフランシア地方でこんな格好をする人間だ、よほどの悪趣味と見える。
 けれど、なによりもへんてこなのはその人間の背筋。なにか隠し持っているのかと思うほど背骨が突き出ていて、不気味なシルエットをしている。おそらく奇形、せむしだろう。
 もはやこの場にいるのは二人だけになった。
 すぐに去ってしまうような、薄情な野次馬とは違うのだと思った。酷いなりをしていても、名画を惜しむ気持ちは同じなのか。そう思うと、アイオネはその少年に話しかけたくなった。せっかくフランシアに来たのだから『大魔女』についてのお洒落な議論にでも興じようじゃないか。そう思い、口を開きかけたとき――その少年は顔を上げたのか、少しだけ、頭巾が後方に滑る。
 覗けたのは、醜い少年だった。瞳は淀むように白んでいて左右非対称にいびつ。眉間からゆっくりと落ちていくはずの鼻はひしゃげ、丸めたものを適当にくっつけたみたいな位置にある。そのくせやけに歯並びがよく、奇妙に半開いた色素の薄い唇から剥きだしになっていた。
 あまりの醜さに、アイオネはさっと彼から目を逸らした。見てはいけないものを見てしまったような気分になった。そして数秒後、そう思った自分の罪悪感に襲われる。見目で他人を恐怖するのは褒められたことではない。ブルガッジィの名が廃る。
 それに、彼とて『大魔女』を愛する者の一人じゃないか。現に彼は今もなお、作業員が運びゆく『大魔女』を一途に見送っている。
 今日ここにいた誰よりも熱烈な視線だった。きっと、相当な思いが、あの絵にあったに違いない。それこそ、きっとアイオネよりもずっと。
 そのままじっと見つめていた少年は、完全に絵画が引っこんだのを確認すると、踵を返して美術館を出る。表情の変化はなく、なにを考えているかは読めない相手だったけれど、アイオネはその少年のことが妙に気になった。
「話してみたかったな」
 もう一度、アイオネは『大魔女』のあった壁を見る。もちろんそこにはなにもなく、ただ存在していたことだけのわかる日焼け跡が残されていた。


▲ ▽



 フランシアに訪れたばかりのアイオネには、今日泊まる宿はあっても、住居がない。このあたりは観光地で客の出入りが多く、どの宿も一泊しか置いてもらえないところばかりだった。作業を許されるアパルトマンを探すのが一番手っ取り早いのだが、芸術家が飽和するこのご時世、空きがある物件を見つけるにも時間がかかる。かなり困難だ。
 それに、モチーフが見つけられないのも問題だった。
 住居問題も兼ね備えていることから優先順位を下げてはいるが、そもそも絵とは描きたいものを描くものである。心の底から惹かれるようなモデルを、モチーフを、光景を求めている。そのためにこの花と芸術の都に来たのに、未だアイオネの心をときめかせるような運命の出会いは訪れていない。ならばまずは『大魔女』の模写でもと思っていたけれど、もはやそれすらできない状況だ。
 赤い糸と愛の巣を探すため、最低限の私物を持ってアイオネは宿を出た。
 川沿いに南下していくと観光街とは別の活気で賑わう。ここらの地域圏は非常に栄えていて、あらゆる人や店があり、あちこちでモチーフを描く画家さえも見かける。筆を持つ彼らは真剣な眼差しであったり充実した表情であったり。そういう同志の顔を見るたびに、地に足のつかないアイオネはどうしようもない気分になる。
「クソ水に気をつけろ!」
 色気もへったくれもない、本日二度目の豪雨の警告が響く。
 さっきまで優雅に往来していた人々が一目散に離れていった。
 アイオネも逃げるために走りだすが、前を見ていなかったおかげで向い合せていた誰かと肩がぶつかる。ぶつかった勢いのままに両者我が身を翻し、互いに顔を見合わせるように振り向いた。相手は、美術館で見た醜い少年だった。突飛の醜さに冷や汗を掻きながら、すまない、と言おうとしたときに、少年にとんでもない悲劇が起こってしまった。
 土砂、、
 運が悪かった。警告を聞けなかった少年の進行方向も悪かった。前を見ていなかったアイオネも、少年の足を止めてしまったのも悪かった。事故だと思う。けれどとんでもない事故だ。頭上から降り注いだ豪雨、、に、少年が直撃してしまったのだ。
「悪い!」
 アイオネがそう叫んだのと通行人が一斉に笑いだしたのはほぼ同時のことだった。少年のことをちらとも考えていないような、行儀の悪い笑い声が波のように広がる。当の少年は黙ったままその場に佇んでいた。恥をかかせたのは自分なのだと思うと不甲斐なかった。
 不幸中の幸いはそう汚物に塗れなかったことだ。少年の突き出た背中にだけ降りかかり、顔や外套の中の服は汚濁を免れている。外套はもう使えないのに変わりはないが。
「すまない、ちゃんと弁償する」
 アイオネは目線を合わせて謝罪をする。近寄れば近寄るほど汚臭が鼻を突いたが、なるべく顔には出さないよう努めた。
 しかし、被害者でもある少年は、こんな目に合ってもなお顔色一つ変えない。それどころか口さえ開かず、思ったよりも小さく青白い両手の平を見せて、その申し出を断った。
「いや、でも……そのローブじゃ町を歩けないだろう」
 本当に気にするなとでも言うように、ゆるりと首を振られる。
 アイオネは心配になった。被害者であるはずなのに、この少年は人が良すぎる。そう遠慮していては、人生を見積もったとき、赤字の連続になるのではないだろうか。あるいは、少年自身が意固地になっているのも考えられる。こんな悲劇の後じゃ、怒りや屈辱から誰とも関わりたくないも頷けた。だが、せめて、詫びを入れる隙くらい作ってほしい。
 アイオネはブルガッジィ家で男ならばかくあれ≠ニ厳しく教育されている。自分の不手際で相手に不利益を与えてしまったのなら、その謝罪と詫びをするのは当然のことだ。罪悪感を拭うため、優越感を得るためと弾劾されればそれまでだろうが、汚物を浴びせてしまった人間にそんな余計な感情を持てるほどアイオネの性根は曲がっていない。
「ならこうしよう」道化師のように大げさな手振りをした。「あんたは俺を妖精だと思ってくれればいい。俺はかわいい妖精だから、どんな不幸にも怒らない子には、願いを叶えてやりたくなるんだよ」 
 呆然と立ちつくす少年の腕を掴み、アイオネは笑いながら走りだした。



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