大魔女 1/7



クソ水に気をつけろガルディ・ルー!」
 一目散に逃げてすぐ大量の糞便と汚水が降りかかる。悪臭と飛沫を上げて地面を跳ね返ったそれらはとんでもないおぞましさであたりに広がっていった。
 生まれたときからの習慣だが、この行為に出くわすたびに五感が汚れていく心地がする。
 さっきまで自分が立っていた場所が汚物にまみれる様を見て、アイオネはため息をつきたくなった。
 上下水道や汚水溝、水洗タンクの整備が進んだとはいえ、ひとたび外に出れば頭上から排便が降り注ぐ危険があることは変わらない。清掃から数時間も経てばまた新しいものが降り注いでくる。生まれてこの方、アイオネは何度その甘ったるいシャンパンのような髪をまとにされそうになったかわからなかった。
 これでも時代はよい方向に進んだほうだ。数年前までは足の踏み場もないほど汚物に塗れ、汚物は道端の汚水溝にそのまま捨てられていた。大雨が降ればゴミが詰まり、中身の汚泥が道中に広がる大惨事。あまりの不衛生さに病が流行ったほどだった。隣を見れば排泄物、から、隣を見れば死体、に変わったあたりで、国はやっと本格的な対策に踏みだし、整備がエウロパ全土へ進んでいったのだ。
「せっかくのフランシアの町並みも、このたいへんかぐわしい雨のせいでだいなしだな」
 そう呟きながら、アイオネは目的地へと足を速める。
 アイオネの故郷であるイギリシア地方とは違い、フランシア地方は見るからに栄えた町だった。赤茶けた石畳からにょきにょきと聳える建物は、どれも装飾と色彩に溢れている。ただ美しくあれと植えられた花々はその活気に一役買っていた。店の多い通りを歩けば忙しない人間のごった返し。観光地の近くといっても相当な人口密度だった。
 アイオネはその列を掻き分けて目当ての店に入る。
 目の前の通りとは打って変わって、店内には彼と恰幅のいい女店主しかいなかった。
「ようお嬢さん、絹糸のような御髪おぐしだな。まるでお伽話のお姫様のようだぜ」
「下手なお世辞は嫌いじゃないよ。でも、一銭だってまけてあげられない。残念だったね」
 わざとらしく拗ねた顔で肩を竦めたアイオネに、女店主は快活に笑った。
 天井近くまで埋めつくす棚に並べられているのは色とりどり形とりどりの石。この店は鉱物や珍しい石などを売買する専門店で、琥珀などの化石から、宝石店でもなかなかお目にかかれない菫青石アイオライトの類まで、ありとあらゆる石を揃えている穴場だった。
 アイオネは背負っていた革製の鞄の外ポケットから膨らみのある小さな麻袋を取りだし、女店主の立つカウンターの上に置いた。
「ラピスラズリとマラカイトを500グラムずつ。あ、あと酸化亜鉛も」
「酸化亜鉛?」
「もしかして、ない?」
「まさか。うちの店にないものはないよ。にしたって、なんでそんなものを?」
「防腐用さ。それと、ないものはないという言葉を信じてもう一つ頼む。暖炉なりキッチンなりからありったけのすすを掻き集めて持ってきてくれないか?」
 この言葉には女店主もさすがにぎょっとした。
 酸化亜鉛なら鉱物の範囲内だし、頻度こそ少ないとはいえ、客が買い求めに来ることもなくはない。しかし、長年この店で鉱石や化石を売ってきて、煤を要求してきた人間はさすがに彼が初めてだった。
 ふと、彼がカウンターに置いた麻袋を見遣る。その緩く開いた口から、妙な光りかたをする固形物を発見する――金属石鹸だった。そして、コルク栓で固く閉められた数本の小瓶には、生黄色い液体が入っている。独特の揺らめきや液の流れから、油であることがわかった。
「変わったものを集めてるね。お前さん、錬金術師かなにか?」
 女店主の言葉にアイオネは笑い飛ばすように答える。
「まさか! そんなご立派な人間じゃない。こいつらは絵の具の調合に使うだけさ。俺はしがない名無しの画家だよ」
 彼――アイオネ=ブルガッジィは、生まれてからの二十年間すべてを絵画に費やしてきたような男だった。
 幼少の頃から筆に触れ、識字と同じ速さで、絵を描くということを覚えた。勉学を宛がわれる時間、教師の目を盗んで絵を描きなぐったことは数知れず。真面目に家のことを考えなければならないこの歳で、画家志望を反対する両親に黙って、ついこのあいだ家を飛びだしてきた。持てる物は、親の血をちょうど半分ずつ与えてもらったような風貌と、画材の入った鞄、勝手に持ちだしてきた金、数枚の下着に一張羅、たったそれだけ。
 世が世なら、とんだ世間知らずの大ばか者だと彼を罵っただろうが、いかにも彼は裕福な家庭の出であるし、今日こんにちの世は、彼にとって、追い風と言えるほどの絶頂ぶり。
 なんせ時代は1830年。
 芸術は錬金術と共に最盛期を迎えている。
 世界三大陸三ヵ国各所で活発になっていったその文化的学問は、いまや生活や社会に溶けこみ、確固たる地位を確立している。画家や錬金術師という職業に後ろ指を指す者などもういない。むしろそういった職業の者のほうが社会的に見て権威のある事例は多かった。
 特にこのエウロパ大陸国内ではどの地方も錬金術が盛んで、錬金術から派生した化学や医学、その他の多くの学問は人類に大きな貢献を果たしてくれた。
「ま、掛け合い化け合い調べ合いは錬金術の十八番だからな。勘違いするのも無理ないさ。さっきの煤は絵の具の顔料になるんだぜ。青っぽい黒色ができあがるんだよ」
「なるほどねえ。まあ、あたしには難しいことはよくわからないけど」
「原理は錬金術から来てるわけだしな、知識様様さまさま。卓越した技術を後世に残してくださった先達に感謝申し上げるしかないね」
 要求したものすべてを手に入れたアイオネは、お金とわずかなチップを払った。
 女主人は思い出したように「そうそう」と口を開く。
「なら、お前さん、画家なんだから詳しいんじゃないかい? ほら……ずっと新聞とかで消えたって騒がれてるじゃないか。ほら……あの、」
「『大魔女』!」
 アイオネの妙な食いつきに、女店主は身を震わせた。
 ついさっきまでの彼からは想像もできない熱量を感じる。ヘーゼル色の瞳を見開かせるアイオネは、怒りとも絶望ともとれる、名状しがたい表情で、女店主を見上げていた。
 困惑しながらも、「そう、それ、『大魔女』だよ」と女店主は言葉を続けた。
――ついこのあいだから、ある有名な絵画の、奇妙な消失事件が、世間を騒がせている。
 二世紀も前に描かれたものだ。アイオネが自分の臍の緒を切られるよりも前からフランシアには『大魔女』あり≠ニ謳われていた。あらゆる教科書や書物に載っているほどの高名な絵画だった。ヒストリカ=オールザヴァリという多くの逸話を持つ実在した女性がモデルの歴史画――それこそが『大魔女』なのだ。
 卵の殻を用いたテンペラ画で、おそらく発表当時の発色がそのまま残っているだろうとされている。冷酷な魔女裁判にかけられる少女が描かれた絵だ。暗闇の中に浮かび上がるたくさんの人間。やけに偉そばった男の対面に、男二人に両腕を塞がれた一人の少女。その少女こそが審問された哀れなモデルであり、誰もが一度は見たことのある芸術の神秘。襤褸ぼろを纏う白い体は絶望的な倦怠感を帯び、蓬髪の下のかんばせは血が凍るほど美しい。なにより魅力的なのはその目だ。憎しみで縁取られた深い青。恨みがましい表情で画面の外の自分たちを睨みつけているように見える彼女は、観賞する人々を何度硬直させたことか。
 しかし、そんな名画『大魔女』が、世界から忽然と姿を消した。
 それも、美術館にある本物から書物の中に至るまでの――何百、何千枚と各地に散らばる、世界中の『大魔女』が。
「とんでもない大事件だよ。うちの息子のおカタイ本からも、あの絵だけが消えてたんだ。どこの誰に確認してもそうなんだから、超常現象ってやつなのかねえ……やっぱり不思議だよ。膨大な数の本の中の絵まで、一斉に、きれいさっぱり消えちまったっていうんだからさあ」
「きれいなもんか」
 低く落とされたアイオネの呟きに、女主人は「え?」と漏らす。
「きれいなもんか!」アイオネは拳を振るいながら叫んだ。「どうやって消したかは知れないが、犯人がいるのならとっとと捕まって罰せられるべきだ! くそ……こんな悪夢をどう信じられよう……あんな素晴らしい作品が、世の中から失われてしまったなんて!」
 それは悲鳴にも近い怒鳴り声だった。
 名画『大魔女』消失事件が及ぼす影響は並々ならない。多くの人間が涙した。歴史家たちは咽び泣き、学び舎の教師は憤り、画家たちは悲しみに筆を折った。カルトな人気を博していたこともあり、『大魔女』を愛でるサロンまであったらしい――サロンの人間は、この事件を消失事件ではなく殺人事件と言って、毎夜のように彼女は死んだ≠ニ鎮魂歌レクイエムを歌っていると聞く。
 気狂いめいた鎮魂歌を捧げることはなくとも、アイオネも『大魔女』の消失を嘆く人間のうちの一人だった。
 一夜にして二度とこの世でお目にかかれなくなった『大魔女』は、彼のお気に入りの絵だったのだ。生まれて初めてそれを見たとき、あまりの衝撃に打ち震えたのを覚えている。一瞬で落ちた。心の臓が震えた。いつかあんな、言葉を失うほどの絵を描きたいと思っていた。
 思っていたのに。
 まさか、絵画そのものが失われてしまうとは。



■/march


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