予定調和 3/5



 残すのももったいないと、アイオネはその紅茶を最後まで飲み干した。なにをどうすればここまで苦味が出るのかというほどの風味は、後味まで悪かった。独特の風味とでも形容すればいいのか。一服盛られたと勘違いするほどの出来栄えである。
「……できた」
 ヒストリカがペンを離したのは、用意された食事がすっかり冷めきったころだった。
「えらく時間がかかったね」
「複数の陣を組み合わせて新たな陣を作ろうとしていたからね。魔算の調整が難しかった」
 ヒストリカは満足げにできあがった陣を眺める。奇怪な難問を解き終わった数学者のようだった。自分の式に惚れ惚れしているのか、珍しく口元は崩れている。
「これで終わりか?」
「いいや。あとはこれを呪文になるよう省略していくつもり。まあ、また今度になるけど」
 ヒストリカはテーブルの上を片づけながらアイオネに返した。
 散らばった羊皮紙をもう一度よく見てみたけれど、アイオネにはさっぱりだった。相変わらず意味があるのかよくわからない記号や文字が並んでいるだけだ。逆さまにしたり並べ替えたりといろいろ試してみたがなにも変わらない。けれど、文字自体にはどこか既視感を覚えるので、公用言語と由来は同じなのではないかと推測する。
 アイオネの手から羊皮紙が逃げる。
 横からヒストリカが取り上げたのだ。
 ヒストリカはそれをぐしゃぐしゃに丸めて暖炉へと突っこみ、あろうことか燃やしてしまった。そう寒くもない季節に炎は機嫌よく猛っていた。
「見ても減らないだろうに」
「減らないけど、君に理解されたら面倒だ」
「できると思うのか?」
「しようとしたんでしょう?」
 ヒストリカは微笑んで言った。
 やはりこのヒストリカ=オールザヴァリという人間は警戒心が強い。
 一度吹っ切れると打ち明けてくれることも多いが、彼女の中での話すべきこととそうでないものの区別は、他者からすれば曖昧極まりなく、また法則性も見えない。おそらく利害で振り分けられているのだろうが、彼女の中でのなにが利害なのかはアイオネには計りかねる。魔法のメカニズムを教えることはできても、この作成し終えたばかりの魔法陣に対して口を開くことはしない。これは、ヒストリカの中で、この陣の概要をアイオネに知られるのが害であると判断されたからだ。そして、これを知らされないことがアイオネにとっての害である確率は、限りなく高い。もちろん彼女が本気で嫌だと言うのなら、追求するつもりはないけれど。
「……これから出かけるのか?」
 ベルトで魔導書を背中に固定してケープを羽織るヒストリカに、アイオネは問いかけた。
「ついてこないでね」
「いいや、俺も行く。どうせまたあの二人を探しに行くんだろう?」
「本当に君は雛鳥のようだね」ヒストリカは杖を背筋に隠しながら言う。「だけど、もう君を連れていくつもりはないよ。なにがあっても。とこしえに」
 アイオネはヒストリカをじっと見つめる。
「前回のことを気にしてるのか」
 ヒストリカは答えずに、首を傾げるように問いかけた。
「ずっと思っていたんだけど……君は何故そうまでしてついてこようとするんだい?」
「あんたが気になるから」
「あの『大魔女』に、まぼろしい魔法に、奇妙な日々にそれほど興味がおありで?」
「言いかたを改めよう」アイオネは続ける。「心配なだけだ」
 ヒストリカは困ったように眉を下げ、そして、言い聞かせるように言葉を吐いた。
「約束は守るよ。君の描く絵が完成するまではそばにいる。出て行かない。あの『大魔女』のように消えたりもしない。不安にならなくてもいい」
 そうじゃなくて、とアイオネが口を開こうとすると、それは吐き気に変わって喉元をせり上がった。アイオネは口元を押さえる。いつの間にか、痺れるような頭痛さえ感じた。それに伴って眩暈まで。数刻前までは感じなかった気分の悪さにアイオネは動揺した。
「……じゃあ行ってくるよ」
「はあい、気をつけてね」
 緩い動作でハロルドは手を振った。
 ヒストリカが部屋を出るのを見送りながら、アイオネはソファーに腰かける。
「アイオネ、大丈夫? ベッドに戻る?」
 気遣うようなハロルドに苛立ちを覚えた。
 それを表情から察したのか、ハロルドも申し訳なさそうな顔をする。
「怒った?」
「怒った」
「ごめん。でもほら! そんな毒物とかでもないから許してよ」
「それで、お前、なにを盛ったんだ」
 まさか本当にあの紅茶になにか含まれていたとは思わなかった。
 頬から血の気を失ったアイオネは、吐き気に耐えながらハロルドを睨みつける。
「植物の持つ二次代謝物ってわかるかな? 他の生き物たちから身を守るための生存戦略の一つ。主に昆虫などの捕食者から食べられないようにするのが目的だけど、中には人体に有害なものもある。命には関わらない程度にね。せいぜい食べたら体調が悪くなるくらい。それをまあ、そのへんの雑草から抽出したり蒸留したり乾燥させたり混ぜたり煎じたりしたってわけ。調子はどう?」
「気分悪い」
「やった! 成功だ!」
 喜び勇んだハロルドに、アイオネはクッションを投げつける。見事命中したものの、ハロルドの瞳から喜色が抜けることはなかった。
「実際に誰かに飲ませたのは僕も初めてなんだ! どう? どんなふうに気分が悪いの? 熱もあったりする? あ、どれくらいで治るものなんだろう。時間を計っておこうか」
 こうも嬉しそうなのは、調合が成功したことによる喜びからだろう。医学は他の学問より錬金術と精通している。掛け合い調べ合いはお手の物。薬の調合なんかも自ら行う。
 医者の端くれなら病人を増やすような真似はしてほしくないが、おそらくこれはヒストリカの差し金だろうとアイオネは睨んでいた。アイオネは「してやられた……」と呻いた。
「まあまあ。今日はおとなしくしておくことだね。どれだけつらいかは知らないけど、その顔色じゃあ外に出たって倒れるだけだよ」
 誰のせいだと思っているのだとまた睨みつけたが、眉間の筋肉を使うとさらに眩暈もひどくなるのでやめた。怒ってもいいことはなに一つない。ハロルドの言う通り、アイオネはおとなしくベッドで横になっていた。
 結局、体調が回復したのは数時間後――ヒストリカが施療院に戻る少し前のことだった。
 リックの顔を被ったヒストリカを廊下で見つけたアイオネは、どすどすと足音を立てて彼女に近づいた。びくっと肩を揺らしたのを気にもとめず、アイオネはその醜い覆面を剥ぎ取った。
「……おかえり。怪我はないようだな」
 予想通り、覆面とは似ても似つかない美しい少女が顔を見せる。
 密閉の中で火照った頬で、ヒストリカは悪びれずに微笑んだ。
「ただいま。おかげさまで。ハロルドから聞いたよ、寝こんでたんだって?」
「こっちこそ、おかげさまで」
「お土産にライムの蜂蜜漬けを買ってきたんだけど、夕餉前のおやつにどうだい?」
 無下にしてやろうかとも思ったが、ライムの蜂蜜漬けに罪はない。差しだされた紙に包まった瓶を受け取って「苦くない紅茶も頼む」と返し、来た廊下を戻っていった。
 しかし、悲劇は二度訪れる。
 翌日、アイオネは出された紅茶に警戒していた。ヒストリカたちの紅茶と自分のものを見比べては、気のせいと言うほかない色素の違いに、口をつけることを躊躇った。見るに見かねたハロルドが「匂ってみなよ」と無実を訴えたけれど、前回匂いに気づかなかったのだから、盛ったものは無臭であると考えられる、つまり、嗅いで判別などできるわけがない。ふう、と息をついたヒストリカが「別の物を出しておやり」とハロルドに言った。ハロルドが出したのは温かいココアで、甘い香りがアイオネを手招きした。おそるおそる口にしてみたがおかしな味はしない。ただのココアだ。よし、とアイオネはそれを飲み干す。
「じゃあ行ってくるよ」
「はあい、気をつけてね」
 ヒストリカが院を出るころにはアイオネはソファーの上でへばっていた。
 頭痛。眩暈。吐き気。青白い顔色。その症状全てが先日と同じだ。
「君相手に同じ手が二度通じるとは思ってないさ。けれど、溶媒を変えると警戒心も薄まる。その溶媒が匂いや味の濃いものなら特にね。ゆえに、煎じ薬を盛る際にはチョコレートや珈琲コーヒーなどが用いられることが多い。カカオの匂いに薬の匂いは隠れ、苦味も邪魔にならず違和感も抱きにくい。で、溶媒を変えたら効果や持続時間も変わるのかとても興味があるんだけど、調子はどう? アイオネ」
「気分悪い!」
 結局、その日もアイオネはベッドに横たわっていた。
 暇つぶしにと気を遣ってくれたハロルドが、たくさんの書物やここ一週間の新聞、文芸雑誌などを枕元に置いてくれた。こんなものを置かれても文字を見る気なんて起きない。読んだら吐き気がぶり返してしまう。だが、先日よりも効果は薄かったのか、体調が回復する時間は早かった。こうも手持ち無沙汰ならばとアイオネは新聞紙を手に取った。
「……名画『大魔女』の調査、打ち切りへ。原因は謎のまま=c…」
 発展した人知の力を以てしても、『大魔女』完全喪失の秘密は究明できなかったようだ。
 各社新聞紙で大見出し記事だった。
 世紀の怪奇事件に調査など進むはずもなく、鑑定士や修復士たちも音を上げたらしい。絵は美術館に返されることなく、どこかへ保管されるようだ。場所は明記されていなかった。
 もう二度と、美術館でもあらゆる書物でも、あの絵を見ることはないのだろう。
 事件は伝説へと姿を変えていく。『大魔女』に対する議論だって、妄想や巷説を交えた談議をただ楽しんでいるだけの内容だった。著名な錬金術師の幾人かがそれに乗っかり、紙の劣化や太陽光の性質変動、果ては環境問題にまで発展し、最終的には世界終末の日は近いなどと予言する者まで現れている。もはや屁理屈のどんちゃん騒ぎだ。
 落胆したままアイオネは視線を落とす。よろよろと、ハロルドの持ってきた書物から特定の物を探した。医学書、論文書、天文学書、挙げ句には譜面と、ハロルドの趣味だとすれば多趣味がすぎるラインナップだったが、なんとか目当ての物を見つける――歴史書。歴史文学ではなく、史実を追った書物だ。ぺらぺらとページをめくっていき、ヒストリカ=オールザヴァリの名を見つけたところで、手を止める。
 本来、名前と共にあったはずの『大魔女』は消え失せ、説明書きの横には、異様に真っ白く空いた、痕跡だけしかなかった。
 アイオネはぐりぐりとそのページに額を押しつける。
 ベッドの上でごろごろとのた打ち回り、数秒後、失望のため息をついた。
 どの書物でも例に漏れず、絵は消滅してしまっている。やはり『大魔女』は完全に失われたのかと思うと、胸に穴が開いたような心地がした。
 ふと、額を押しつけていた箇所をもう一度見遣る。
 ヒストリカ=オールザヴァリ。
 1617年出生、没年は不明。魔女裁判にかけられた魔女の一人。当時十三歳。
 十三歳とは随分な若さだ。だが、いまのヒストリカはもっと成長しているように見える。ずっと老いることなく生きながらえているように見えるが、実際に老いが止まったのはもっと後なのだろう。
 そのまま読み進めていけば、気になる名前が目に入った。
「ドリスタン=ナヴァロ……異端審問官」
 この名前にどこか引っかかったのだが、それはすぐに思い出せた。ドリスタン――それはあの《裏切りの魔法使い》が《背徳の錬金術師》に対して使っていた呼応だ。
 そういえば、あいつ、そんな名前だったな……。アイオネは静かに心得た。
 おそらく、いや、十中八九、彼自身だろう。《背徳の錬金術師》などと呼ばれているが、これはヒストリカの感情から見た呼び名にすぎない。歴史書に載るドリスタン=ナヴァロは神秘思想家であり、錬金術師でもあると記述されている。当時の審問官といえば、知的集団の中でもトップレベルの知的集団であり、教徒と同じ数だけ医者や学者がいたと聞く。その中に錬金術師が混じっていたとしても、なんの違和感もない。以前、ハロルドは、《裏切りの魔法使い》が魔法族の仲間を裁判側に売ったと言っていた。なるほど、こういうことかと合点がいく。
 しかし、夢物語を実現させるすべを持つ魔法族と、夢物語に理屈を見つけて解き明かす錬金術師――対極に位置する二人の接点が見えない。
 ならば。アイオネは紙面に目を滑らせた。ヒストリカの項目にあの錬金術師の名が乗っているのなら、もしかしたらと考えたのだ。すると予想通り、あの男が見えてくる。
「ザッカリー=レヴェリッジ……賢者?」
 ザッカリー――それはあのドリスタン=ナヴァロが《裏切りの魔法使い》に対して使っていた呼応だ。こちらもあの魔法使いのことでまず間違いないだろう。錬金術師の名のすぐ後に出てくるくらいだ、接点は深いと見える。
 けれど、この賢者という肩書きに、アイオネは眉を顰めた。
 歴史的に見ても迫害に晒されていた魔女たちだが、民衆に絶大の信頼を置かれる場合もあった。それがカニングフォーク、呪医、白魔女とも称される、賢者だ。
 イギリシア地方ではよく聞く単語だった。定義としては害悪をもたらさずに救いを与える人間を指し、もしも魔女裁判にかけられた者にしても、賢者だと訴えれば無罪放免とされた事例がいくつもある。裁判記録にもこの賢者が訴訟に関わったことは極めて少なく、世界で知れ渡っている魔女像よりも清廉な立場にいると言ってもいい。
 魔女裁判にかけられたヒストリカ=オールザヴァリ。異端審問官としてのドリスタン=ナヴァロに、賢者として彼といたザッカリー=レヴェリッジ。なるほど。およその関係性は見えてきた。やはり二人の目的は、未だ知れないのだけれど。



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