予定調和 2/5



「あの、ごめんね……? 起こさないつもりで来たんだけど……もしそんなに眠れないなら私が魔法で寝かしつけてあげようか?」
「どうにも、あんたは真夜中に誰かと話す楽しさを知らないと見える。俺が手ずから教えてやろう。あとは夜ふかしを叱る大人がいてくれれば最高なんだけどな」
 無邪気なアイオネの笑顔にヒストリカは狼狽した。この男は本当によくわからない。膝の上に乗せていた杖をぎゅっと握りしめる。
 すると、それを見ていたアイオネが、食い入るように杖を見つめた。それから「綺麗だな」と呟いて、ヒストリカを見上げる。
「初めて見たときから美しいと思っていたんだ。あんたが持ったままの状態でいいから、その杖をよく見せてくれないか?」
 ヒストリカが押し黙ったのを見て、アイオネはまずかったかと心中で濁る。
 ハロルド曰く、魔法族にとって己の杖は命と同等の誇りを持つ。それを取り上げることは凌辱行為に等しい。このような反応をされることはアイオネも予測していた。だから手渡さずともかまわないという言葉を添えたのだが、やはり簡単には差しだせないほど、彼女の中で杖は大事なものなのだろう。
「私の杖をどうするの?」
「どうもしないさ」癇癪を起こす前の子供を相手にするような気持ちだった。「美しいものには目を奪われる。心を惹かれる。人間の性だろう? ただよく見てみたいと思っただけだ。非礼だったなら詫びよう。すまなかった」
 やはりだめかとアイオネが思ったとき、ヒストリカは、逡巡、開きっぱなしにしていたアイオネの鞄の中にあるものを指差した。
「……そこにあるの、見せてくれたら」
 それはアイオネが過去に描いた絵の帆布だった。
 キャンバスの枠ごと持ち歩くことはできないので、帆布を巻いた状態で保管していたのだ。
 ヒストリカを描くとき、当然この鞄は開けっぱなしにされている。彼女が中身を知る機会なんていくらでもあった。アイオネが画面に熱中しているあいだ、その鞄の中の絵に興味を持ったとしてもおかしな話ではない。
「君の絵はその描きかけと、あとは端切れに描いたものしか見たことがなかったからね。君が私の杖に興味があるように、私も君の絵に興味がある」
「交換条件か」アイオネは肩を竦める。「俺たちらしい」
「だめかい?」
「いいけど、世に出てる人気の画家連中と比べるなよ」
「私も君の高い絵筆とは比べないでほしい」
「違いないな。その美しさでは絵は描けまい」
 ヒストリカはくすりと微笑んだあと、見やすいよう、アイオネのほうへと杖を見せる。
 近くで見るとその杖はいっそう美しかった。灯火が写りこんで繊細な輝きを生む。ただ滑らかにまっすぐなのではなく、調度に見られるような技巧的な装いを纏っている。杖の真ん中には細やかな光のスペクトルを映しこんだ小さな石。まるで芸術品のようだとアイオネは思った。
「芯はヘラジカの骨、銀装飾、要石には石英、41センチ」
「ヘラジカの骨? やけに白いと思ったら、そんなのが材料なのか」
「……魔法族はね、適齢になると、最初に恐れた動物の骨を杖として生成するんだ。大変だったよ。いきなり放り出されて骨を取ってこいなんて言われるんだから。杖は初めて抱いた恐怖に打ち勝った印。だから、概ねの魔法族は生涯に杖を一本としている」
 前にヒストリカは、杖なんてのは覚悟があれば誰にでも作れると言っていた。
 なるほど。確かに材料は凝ったものではない。杖自体に魔力的なものが宿っているわけでもない。効果を期待しないかぎり誰にでも作れる――覚悟さえあれば。魔法族にとって、杖とは誇りの証なのだろう。杖を大事にするわけだ、とアイオネは納得した。
「私は見せたよ。次は君の番」
 ヒストリカは杖を膝元へと置いた。なんとなく跳ね上がるような声に、もしかしなくても期待していることが伺える。ヒストリカ自身、芸術には疎いのだと言っていたから、てっきり興味がないのかと思ったが、案外そういうわけでもなさそうだ。芸術に触れる機会が少なかっただけで、芸術に心を揺さぶられるのは、誰だって気持ちがいいはずなのだ。
「さあさあお待ちかね」
 そう言うと、アイオネは鞄から帆布を取る。何枚か広げて鞄や手で押さえて固定した。
 ヒストリカはそれを覗きこむために椅子ごとアイオネに近づく。
 いまさら誰かに見られて恥ずかしいとは思わないが、多少の緊張は生まれる。どんな感想を抱くのか、どんな言葉を囁かれるのか、そしてそれは本心であるのかと、嫌でも気を揉んでしまう。アイオネはヒストリカの言葉を待った。
「どれも素敵な絵だね」
 蝋燭の明かりがゆらゆらと照らす絵を見て、ヒストリカは笑みを浮かべた。
 並べられた絵はどれも素朴な題材だ。気取ることも、突き放すことも、見下すこともしない。ただ描きたものを描いたというのがしっくりくる、そんな絵だ。
 けれど、その純粋な心や、冒険するように伸ばした絵の具が、歌うように目にはたらきかけてくる。美しいと称賛するより好きだと感嘆できる、温かい力を持っていた。
「絵のことはあまりよくわからないけど、アイオネの描く絵はどことなく身近だね」
「貶してるのか?」
「褒めてるのさ。こんなことを言っては、学のないわからず屋だと、画家や画商に怒られてしまうだろうけど……聞いたことがあるだけの偉いひとの絵や、物知りな人間にしかわからない神様の絵なんて、見ても私にはさっぱりだからね」
 実際にはそんなものだと思った。いくら芸術が発達したとはいえ、感性が一般化するようなことは決してない。感じかたはそれぞれ違う。そして、上手い下手は別として、大抵の物は壮大な絵画に対して疎外感を覚えてしまうものなのだ。
「そういう人間は一定数存在するだろうな。現実、高尚な絵画を愛でるのは高尚な身分の方々だけだ。宮廷画家なんて言葉があるように、画家は莫大な金を注ぎこんでくれる相手にしか絵を描かない。絵を描くためにそれを間違ったことだとは思わないけど、俺はもっと多くのひとの心を揺り動かしてみたい」アイオネはヒストリカに尋ねる。「ヒストリカは……俺の絵をどう思う?」
「好きだよ」ヒストリカは温かく微笑んで言った。「安っぽい言葉になってしまうけど、君の絵はとても優しい」
 純粋にその言葉が嬉しかった。
 アイオネの頬は緩み、なにかに向けての勝気な笑みを浮かべる。
 やはり上手いと言われるよりも、好きだと言われるほうが胸に響くのだ。自分の絵に恋をしてくれたようで、そのときめきを尊いと思わずにはいられない。
「ありがとう」
 アイオネは自分の絵に魅入ってくれる少女の横顔を眺める。
 微笑むヒストリカは、つがいの彩色が楽しげに舞う絵に目を遣った。
「この二匹の蝶、かわいいね。仲がいいのかな」
「だろうな。これ、交尾中だから」
 困ったような反応をヒストリカはして、すぐに「そっか」と短く返す。アイオネとしてはもう少しつついてやりたかったが、機嫌を損ねられるのも嫌なのでやめておいた。
「こっちは風景画かい? 綺麗な朝焼けだね」
「半分はそうだ。もう一人の主役はこっち」
 アイオネは、画面の端に佇んでいた後姿の人影を指差す。壮大な朝焼けに呑まれてほとんど見えないが、霞んだ靄の中に、男性とわかるくらいのシルエットが描かれている。
「生まれて初めて酒を飲んだときに飲む量を誤ってな。明け方まで店でぶっ潰れてたんだが、起きて店を出たときに、このじいさんがいたんだ。なにをするでもなく、じっと空を眺めていた。多分、この朝焼けを見るためだけにそこにいたんだと思う。その気持ちが、光景が、俺には、ただひたすら……」
 淡い紫色の空気に溶けるように、じわじわと雲を焦がしながら、東の空から出でる金色の太陽。わずかに赤らんだ建物の表面、木々。そして静かに眺める老人。アイオネがそれらにどれだけ心を動かされたのかがわかる、豊かな一枚だった。
「ならこっちの絵は?」
 質素で純朴な体が街角に馴染む二人の子供の絵を指差した。
「花売りの兄弟だな。兄は紳士だが、妹のほうはとんだじゃじゃ馬だった。あれをうまく乗りこなせる殿方が彼女の前に現れるのか心配だよ。信じられるか? 彼女、俺の手を噛んだんだ、俺の手を。馬と言ったが失礼を承知に訂正しよう。あれは犬だ」
 ヒストリカが声を出さずに笑った。小刻みに震える肩。口元に手を当て、顔を俯かせる。リックの姿のときに何度も見た笑いかただった。彼女の笑いには音がない。けれど、俯いた顔の上でしなる瞼は気持ちよさそうに細まっている。
 弾んだ呼吸を押さえつけるような声でヒストリカは途切れ途切れに言った。
「それでも、君は、この子たちを描かずにはいられなかったんだね。変なの」
 確かに、とアイオネは自分の描いた絵を見遣る。
 花売りの兄は花の包みかたを妹に指導していた。そのあいだ、兄の腕にかかった花籠からどんどん花がこぼれていく様に、妹は夢中になっている。おかしかった。おかしくて、けれど、いじらしい。それを見たとき、思わず笑みが浮かぶほど、アイオネは感じてしまったのだ。
 アイオネは柔らかく微笑んで「ヒストリカ」と口を開く。
「どうして画家がそのモチーフを、モデルを描くのか、わかるか」
「え……どうしてだい?」
「恋をしたからだ」
 ヒストリカは目をぱちくりとさせた。
 アイオネは言葉を続ける。
「俺はかつて、交尾をする蝶に、朝焼けとそれを見る老人に、睦まじい花売りの兄妹に、そしていまは、ヒストリカ=オールザヴァリに恋をしたんだ」
 その情熱がなければ正直な指先は筆をとらない。会いたいと思えなければ長い時間をかけて同じ絵に向き合うことなどできない。感動し、打ち震え、心が震えた。だからアイオネはこれまで絵を描いてきた。
 ヒストリカはベッドに広げられた絵をじっと見つめながら呟く。
「多感だね」
「褒め言葉と受け取ろう」
 自身に満ち溢れたアイオネに、ヒストリカはどこかむず痒そうに唸る。
「恥ずかしい子」
「恥ずかしいものか。情趣溢れる幼き俺に拍手を送りたい。よくぞあの『大魔女』に初恋をくれてやったと」
 途端、ヒストリカの表情は暗くなる。
柔らかな眉間には皺が寄り、「わからないな」と呟いた。
「なにがだ?」
「あの私は……そんなにいいものかい? 酷い顔と目をしている」
「あの目がいいんだろうが。あの目、あの表情!」
「趣味が悪いよねえ、君って……」少々引き気味に言うヒストリカ。「私には信じられないよ」
「いくらヒストリカでも、俺の初恋を詰ることは許さない」
 拗ねるようにアイオネが言うと、ヒストリカは言及をやめた。
 その後、アイオネがフランシアに来るときに物取りされかけた話を聞き、ヒストリカは声を上げないまま肩を震わせて笑った。笑うときに声を出さないのは癖なのだろう。大声を上げないからといって面白くないわけではないらしく、話がクライマックスに差しかかったあたりで、ベッドの端まで顔を俯かせ、震えながら腹を抱えていた。その振動はベッドにまで伝わり、笑われっぱなしのアイオネは「楽しそうだな」と呆れたように呟いた。
 話しこんでいれば夜は簡単に更けていった。
 日の光が滲み、空の闇を溶かしはじめたころ、ヒストリカは自分の部屋へと戻っていった。
 寝ずに話しこんでいたのだ。眠気も容赦なく訪れるだろう。ぬかるみのある薄い膜で脳を包まれたような心地。鶏だってきっとまだ夢の中だ。アイオネも眠ってもいいと判断して、再びベッドに倒れこむ。
 ヒストリカが危惧したように《裏切りの魔法使い》や《背徳の錬金術師》がアイオネを襲いにくることはなかった。


▲ ▽



「アイオネ、手に絵の具がついてるけど」
 その日、アイオネとヒストリカ、ハロルドの三人は、遅めの朝食を摂っていた。
 目玉焼きとベーコンが乗ったトーストに食らいついたとき、ハロルドは自分の右手を指差しながらアイオネに言った。
「また手を洗わずに寝たの? 気をつけてよ、ベッドについたりしたら僕も怒るから」
「悪い。眠くて気が緩んでた」
「ヒストリカも。その場にいるんなら注意してよ」
 おそらくその声は聞こえていない。トーストを脇に寄せて、記号や図を書き殴った羊皮紙を何枚もテーブルに広げるヒストリカは、現在進行形で魔算中だ。がりがりと式を綴っては、別の紙に残しておいた式を結合させて円を作っていく。
 魔法使いと錬金術師とのあの一件以来ずっとこれである。
 なにを考えているのか、なんの魔法陣を算出しているのかは不明だったが、食事もおかまいなしに作業をしているのだから相当難しいものなのだろうと、アイオネは思った。完成こそしていないが、途中まで描かれた魔法陣は、今の状態でも十分大きいと言える代物だった。
 ハロルドは呆れたように「行儀が悪いんじゃない? ヒストリカ」と声をかける。
「坊や。そこの、反射率調整の魔法陣取って」
「どれのことかわからないんだけど」
「君の近くにある紙だ」
「はいはい。で、ヒストリカ、聞いてるかい?」
「それと自立化の魔法陣も」
「だからどれかわからないって。あ、これかな」
 付き合ってやるハロルドの甘いこと。
 呆れ混じりにその光景を眺めながら、アイオネは紅茶に口をつけた。
「ん……苦っ」
「え? なに?」
「ハロルド、お前、紅茶淹れるの下手だな。変な味がする」
 ヒストリカがちらりと一瞥した。けれど、またすぐに手元へと視線は移る。
「ごめんごめん。次は気をつけるから」
 反省しているのかしていないのか、ハロルドは笑いながら言った。



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