予定調和 1/5



――正直な話、アイオネには現在の状況がそう悩ましいものとは思えなかった。
 あのあと、魔法で鍵をかけられ、二時間も浴室に放置されたアイオネは、すっかり華やかな匂いを纏う紳士となって帰還し、自分の体臭の欠片も残ることはなかった。着られなくなった服はハロルドに渡して、代わりの着替えも用意してもらった。寝起きしているベッドを確認すると、もれなく荷物まで芳香を帯びていた。香水漬けにされたのかと焦ったが、どうやらコロンを振っただけのようだ。できれば服もそうして欲しかったとアイオネは思った。
 ここまで徹底して痕跡の隠蔽をしているのだから、そう心配もないはずだ。
 むしろ、彼らが自分の匂いを覚え、なにをしてくるというのか。
 ぞっとしないと言えば嘘になるが、あの魔法使いと錬金術師が、一介の若者、それも名無しの画家なんぞにかまってやるだろうか。彼らの中では、おそらく自分は雑魚だ。
 そもそも、ヒストリカの考えすぎという可能性もあるとアイオネは思っていた。《裏切りの魔法使い》も《背徳の錬金術師》も最終的には目もくれずにその場を去っていったのだ。拾われたと勝手に思いこんでいるだけで、自分のペンは倉庫に置きっぱなし、あの激しい反応の餌食となり焼けてしまったと考えるのが当然のような気がしていた。
 しかし、現状そう楽観しているのは自分一人だけで、ヒストリカとハロルドは、非常に重く受け止めていた。
 アイオネにとって味方のようでもあったハロルドですら「しばらく外出を控えたほうがいいんじゃない?」と苦笑交じりに勧めてきた。いつでも暢気そうな彼が警戒したそぶりを見せるのが不思議でしょうがない。ヒストリカの影響を受けすぎなんじゃないかと思った。
 そう、ヒストリカ。
 今回のことにおいて、最も警戒した態度を見せているのは彼女だ。
 二時間も香水風呂に閉じこめたことといい、アイオネの私物にコロンを撒いたことといい、過保護がすぎるように思う。そっけなかったこれまでと違い、なにかにつけてアイオネを心配するようになった。野生的なまでの警戒心。夕餉時すらぴりぴりとしていた。絵を描こうにも、絵の具を練ろうにも、「今日は早く眠るべきだ」と待ったをかけられた。
「待て。それは違うんじゃないか? ヒストリカ、まさか、心配するふりをして過剰な要求をしているんじゃないだろうな?」
「おやすみ」
 すげなくベッドのある部屋に押しこまれてしまった。
 彼女の心情を汲みとることはできなかった。
 だけど、不機嫌であることは見てとれたし、もしかしたら、ここを追い出されてしまうこともありえるのではとアイオネは危惧した。そんなことはないと信じたいけれど、ヒストリカが、あの二人を取り逃がしたのはアイオネのせいだと、そう感じている可能性はゼロではなかった。おまけにこんな面倒事まで引き起こしたのだ。アイオネに対し、ヒストリカが不満を抱いていてもおかしくはない。
「……いや、絵を描くことを許してくれた、彼女を信じよう」
 アイオネはイーゼルにかけられた描きかけの絵を撫でた。
 ここに来てからほぼ毎晩描いていたヒストリカの絵は、完成にはまだ遠いにしろそれなりに進んでいた。画面の大きさに欲をかけなかったのが大きいのかもしれない。もし持つのもやっとなほどの支持体を選んでいたのなら、ここまで作業は進まなかったはずだ。
 敬愛する『大魔女』に則り、モデルであるヒストリカの色価値を高めて存在感を強くしている。窓際に座らせたのは正解だった。夜闇からうっすらと光を帯びるその姿は、自分の絵にも関わらず賞賛するほど美しかった。納得のできない部分も多々あるので手直しの必要はあるが、あのヒストリカ=オールザヴァリを描けるというのはまたとない喜びだ。どんな手間も手間とは感じない。
 アイオネは絵をベッドの足元に置く。それから、イーゼルを掴んで折り畳んでいった。アイオネのイーゼルは職人に作らせた特注品で、かなり小さなサイズにまで畳むことができる、実に便利な品だ。それを鞄にしまいこみ、アイオネはベッドに入る。窓側のほうへと体を向け、目を閉じた。
 しかし、それから数分と経たずに足音が聞こえてきた。
 もう寝静まっていてもいいころなのに、いったい誰なのか。
 そこまで考えたときに、足音がぴたりと止まる。そして、アイオネのいるこの部屋の扉をギギギッと開けた。一瞬、まさかあの魔法使いや錬金術師ではあるまいなと警戒したが、にしてはこの建物内を知りすぎているように感じる。正体が土くれクレイドールだったとしても、その足音は陶磁器質が打ち鳴らすものとはほど遠かった。
 部屋に侵入してきた足音はどんどん近くなる。こちらへと向かってきているようだ。
 その足音がぴたりと止まると、布の擦れるような音がした。
 静寂。
 しばらくはじっとしていたアイオネだが、足音の主がどうしているのかが気になった。
 寝返りを打つようにしてそちらへと振り返る。
「なんだい」
「いや……別に」
 ずっとこちらを見ていたのか、振り向くとすぐに目が合って、アイオネは動揺してしまった。そっちこそなにか用があるんじゃと思ったが、それ以上口を開かないのだから、なんの含みもなさそうだ。ベッドの脇にある椅子に腰かけたヒストリカは、淡白な表情でアイオネを見ていた。
 暗闇に慣れた目でしばらく見つめあっていた。
 居心地の悪さに目を逸らしたが、アイオネはすぐに視線を戻して言った。
「眠れないのか?」
 でないと、ここに来る理由がわからない。
 絵を描くならまだしも、こんな時間に男の褥に訪れる娘の気など知るわけがない。軽んじられたうえでの行為なら名誉にかけて物申させてもらうつもりだったが、ヒストリカは目も逸らさずに返答する。
「眠らない」
「眠らない?」
「眠ってはいけない。土くれが、君を襲いにくるかもしれない」
 よく見てみると、彼女の膝にはあの分厚い魔導書が置かれ、さらにその上の手には杖が握られていた。それを認めたアイオネは、呆れがちに紡ぐ。
「匂いは消したんだ。大丈夫だろ?」
「相手はあの二人だもの。わからないよ」
「なら、これまでどうやってあの二人の目を掻い潜ってきたんだよ」アイオネは続ける。「考えすぎさ。それにこれは自業自得ってやつだろ。あんたが気にするようなことじゃない」
 ヒストリカは固い表情のままだった。
 すぐに説きふせられると思っていたが、彼女の警戒心は強い。
 相手にすれば負けだといまの今まで起こさなかった上体を持ち上げる。心配してくれるのはとても嬉しいが、ずっとそんな表情をしていられるのは落ち着かない。
「失礼」アイオネはそう腕を伸ばしてヒストリカの頬に触れた。「えい」
 そのまま抓って、少しだけ横に引っぱった。ギモーヴのように噛めば甘そうな頬が意のままに伸びていく。アイオネの突然の行動に「え。なに、なんなの」と声を出すヒストリカの顔は文字通り歪んでいた。
「おや、こういう顔もなかなか乙だな。いまから絵を描きなおすのも悪くない」
「意地悪は言わないでおくれよ。長時間引っぱられたままなんてごめんだ」
 頬に触れているアイオネの手をヒストリカは抓る。アイオネは頬から離して抓られた手を、ヒストリカは頬を、それぞれさすった。
「アイオネ、ありがとう」
「なんだ。謗りに目覚めたのか」
「ばかだなあ」ヒストリカはくすりと微笑した。「昼間のこと。君のおかげで助かった」
 ああ、とアイオネは頷いた。昼間のことと聞けば、彼女のお礼にも思い当たる節はある。
「あんたに言われたから陣を描いただけだ。見本もあったし、なんてことはない。画家として、依頼された絵を完璧にこなしたすぎ――」
「そっちじゃなくて」
 ヒストリカは横槍を入れた。そして「そのあとのこと」と告げる。
 アイオネは「なんだ」と興が削がれたように肩を落としたが、ヒストリカの言う件をすぐに思い出す。黒い塊で彼女を庇ったときのことだろう。
「君には驚かされた。ああいう奇術じみたことは《背徳の錬金術師》の十八番だったんだけど。私を鉄の塊から守ってくれた、あの炭のようなものはなんだい?」
「あんたの魔法の前じゃかたなしの、ちょっとした練成反応さ。濃硫酸には脱水作用があってな、砂糖にかけるとあんな黒い塊が生まれる。種と仕掛けしかないよ」
「なら、あの二人が最後にやった火柱については?」
「液体臭素はアルミニウムに激しく反応する。あの錬金術師の持つおかしな薬品や石ならなおさらだろう。消火方法も水を使うのは危険、窒息消火が正しい。発生した気体は人体に有毒だから呼吸するのは危険だった。ある程度勉強した人間ならみんな知ってる」
「そう。なら、これは?」
 そこでヒストリカは自分の靴の裏を見せた。脱ぐのに手惑うため、片足をアイオネに見えるよう上げるだけの動作だったが、アイオネにはそれで十分だった。
「これ、君でしょう?」
 ヒストリカの靴の裏には、赤い絵の具が付着している。
 アイオネは気まずそうに上目遣って「……悪かった。謝る」と呟いた。
「気づかなかった私も私だからいいよ。けれど、どうにも気になってね。この絵の具の跡を追って私を尾行したんだろうけど、町の地面も赤い石畳だ。同化して識別なんてできないはずだよ。だから私が気づかなかったということもある」
 ヒストリカの言う通り、その赤い絵の具はアイオネが追尾用に塗ったものだ。ヒストリカが施療院を出るより前に事を行った。あのとき易々と引き下がったのはそのためだ。
「絵の具は繊細な代物だ……ちょっとの温度変化が原因で色が変化することもある。違う絵の具を混ぜ合わせてみたら色相を無視した色が完成しちまうってこともあるな。画家なら大抵知ってる常識だ」アイオネはベッドのそばに置いておいた鞄を取る。「その絵の具は鉛白と混ぜて炙ると変色する」
 パチンと金具を外して鞄を開ける。
 取りだしたのは霧吹きだった。
 どうやら二重構造になっているようで、内層と外層との間の空間に真空ができるよう作られてある。なかなか凝った容器だった。中に入った、加熱した湯で溶かした白い絵の具を、地面に振りかけて歩いたのだ。変色した部分を追い、その先のヒストリカを見つけた。
「なるほど」ヒストリカは肩を竦める。「君は本当にしたたかだね」
「ちなみに、いつ気づいたんだ?」
「こちらに戻ってきてから。君、白い粉があると言った私が靴をじっくり見ようとしたとき、話題を変えたでしょう?」
 赤い絵の具は辰砂という鉱石が顔料になっている。辰砂は水銀を多く含み、熱すると二酸化硫黄と共に水銀へと分離する。ヒストリカの靴底についていたのは、魔法使いと錬金術師の生んだ火柱に熱せられ、白化してしまった一部だ。
 ヒストリカが訝しんでいたそれの正体を知っているアイオネは、怪しまれる前にと話を変えたのだが、それが逆に墓穴を掘ったのだ。
「なにはともあれ、皮肉だけど、君のおかげで助かったこともある」
「ほほう」アイオネは機嫌をなおす。「感謝しろよ。俺はあんたの王子様だ」
「白馬ではなく調子に乗るのが得意のようだね。高いところから降りてきてはどうだい?」
 ヒストリカは首を傾げて言った。まだ表情は固く緊張気味だが、軽口を叩き合えるだけの余裕はできたようだ。
 しかし、それでもヒストリカは強情で、「寝ないのか」というアイオネの問いかけに、小さく首を振って拒む。
「私はこうして備えておく。君は寝ていて」
「あんたがこうしてそこにいるなら、俺が絵を描いていてもいいんじゃないか?」
「ばか言わないで。私が杖を持っていない状態で、どうやって相手と戦うと言うの」
「考えてもみろよ。こうしてそばにいられちゃ、気になって眠れない」
「煩わしいならカーテンを引くよ。外で見張っておくから」
「あんたを一睡もさせずに侍らせたまま無神経に寝てろって?」
「なら、こう思えばいい。不安で眠れない女の子を、夢見ることで救うんだ」
「……それが夢の中である意味がどこにある?」アイオネは折れたと言わんばかりにため息をつく。「話し相手になってやるよ。どうせ俺の眠気もとうに飛んでる」
 キルトを脱ぎ、アイオネはベッドに腰かけるように座りなおす。壁の燭台に火を灯して、そっと明かりを作った。
 それにヒストリカは驚いたように目を見開かせる。そんなあどけない表情をすると、魔女なんて関係ない、どこにでもいるような普通の女の子にしか見えなかった。



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