《アルプス一万尺》2/5


 鞄からボディシートを取りだし、腕や鎖骨を拭いていくまふゆに、籠中は問いかける。
「菜野さんはなんの匂いのを使ってるの?」
「シャボン」
「あっ、私と一緒」
「わああ、お揃いだね」
「シトラスのやつも好きだったんだけど、汗と混ざると気分が悪くなっちゃって」
 まふゆは肌着の裾から腕を突っこんで、腹や胸周りも拭いていく――へそが見えるあたりまで肌着が持ち上がった。腹を冷やすからやめたほうがいいとは思うのだが、女性の主に対して失礼かと思ってなかなか言いだせないでいる。
 まふゆはいそいそと制服に袖を通す。潜りこむように頭を突っこみ、裾を下ろしていった。裾を持っていた指が一度引っかかり、ふにゃっと胸を押した。蕩けるような布擦れを起こしたが、大きく引っぱれば、ゆとりのある制服に隠れる。
「問題点はまだある」再び籠中は意見を言う。「もう試験まで三日しかないんだし……一度、実花島くんとも話し合っておきたいんだけどね」
 さすが本物の優等生は違うと、俺はぼんやりと思っていた。
――しかし、そのように考えていたのは籠中だけではなかったらしい。
「このチームには連携が足りないよねえ?」
 籠中が宣誓してからそう日も経たないうちに、実花島本人が籠中とまふゆを屋上に呼びだし、そんなことを言いだした。
 昼休み、弁当を持って来られたし。なるはやで。
 まるで果たし状のような文言で呼びだされ、実花島を前にした。
 今は地べたに座りこみ、ちょうどトライアングルのような形になって向かい合っている。まふゆと籠中は持参の弁当を、実花島はコンビニで買ったであろうフルーツサンドと焼きそばパンを啄みながら。
「こうして集会させるとは熱心だな」
 意外だと感心してしまった俺は実花島に言った。
 基本的に実花島は積極的に物事に関わろうとしない。性格的にも真面目とは言い難く、間違っても自分から、こんな会議を開催するような人間ではなかった。
 そこを指摘した俺に、実花島は拗ねたような表情を浮かべる。
「俺は面倒なことでも、楽しいならやるよ。それに最近、十五メートル法則を試運転し始めたばっかじゃん。情報共有しとこうかな、って」
「情報って、なんの?」
 そう言ったまふゆに、籠中は「まさか菜野さん、ちゃんと考えてなかったの?」と責めるように見る。そのまますらりと、お前は大丈夫だろうな、という視線を実花島に送ったが、話を振った本人であるはずのそいつは「俺はこゆりんが確認してくれてると思って、なーんにも見てなかった」と白状する。
 こいつ……けっこうマメなやつだと感心した直後にこれだ……こういうところで本来の性格が出てくるな。
 当事者である俺には大体のあたりはついていたので、一言だけ投げる。
「俺の能力と性質についてだろ」
 まふゆは首を傾げる。それは解決したはずでは、というような表情だった。
 俺の言葉に対し、籠中は「そう」と詳細を述べる。
「前に調べたような無効化の範囲についてじゃなくて、なんていうのかな……無効化のラグについて。せっかく本物のセツリと戦える絶好の機会があるんだから、訓練を通して見極めてたの……実花島くんも菜野さんもサボってたみたいだけど」
 まふゆは申し訳なさそうに、実花島はおどけたように「ごめんなさい」と呟いた。
「まず、実花島くんの《変幻自由自在》とのラグについて。《大いなる無力》発同時、精霊の力を行使できない。でも、訓練の様子を見て気づいたのが――無効領域内で形状変化させることはできないけど、変化させたままの状態で入ることはできるってこと。これって穴だしミソじゃないかな? 一度変化させておけば、無効領域内でレバーを離そうが、形状が元に戻ることはないってわけ。ちなみに、私の《懲役燦然年》でも似たような結果が出たわ。無効領域内だとどれだけ剣を振るおうと私の速度は変わらない。でも、無効領域外に出れば、無効領域内で振るった分……つまり奪った分が加算されて、私とセツリとの速度差が変動している。また、ある程度加速された状態で無効領域に入ったとき、速度は初期値に戻ることなく、蓄積した分の速さで戦うことができる。つまりね、領域内での力の作用が許されないだけで、私たちの行った活動は無駄じゃない。これは、《大いなる無力》の力が精霊の特徴を完全に制圧しながらも、保護していることを意味するんじゃないかな」
「……領域内で勝手はさせないけど、領域外でちゃんと働けるようサポートはするし、持ちこみ自体はオッケーですよーってことだね」
「コスプレして来るのはオッケイだけど、会場内で着替えるのはやめてくださいって、そういうアレかな」
 まふゆと実花島がそれぞれ納得したように呟いた。
 実花島に関してはこいつなに言ってるんだろうと思ったが、本人はなんでもないように言葉を続ける。
「俺はともかく、こゆりんにとってはいい発見だよね。《懲役燦然年》の特徴上、もし活動の一切を無効化されてたんなら、セツリからの速度の剥奪、自分のスピードアップ、その両方を完全に封じられるってことなんだから」
 《懲役燦然年》の力は、他の精霊とは違い、蓄積の性質を持つ。剣を振るうことでやっとその真価を発揮するのだ。他のチームメイトのように、一瞬で神秘が発動するわけではない。
 だから今回、このことを確認できて本当によかった。もし実花島の言う通り、完全に力を封じていたのだとしたら、《懲役燦然年》に申し訳ない。
「まあ、実際封じられるのは自分のスピードアップ≠フ部分だけだけどね。速度を奪うっていうのは、スピードアップの副産物っていうか、工程でしかないし」
「え? なんで?」
 疑問を持ったまふゆに、今度は存外柔らかく、籠中は答える。
「実際に燦然を使えばわかると思うんだけど、セツリから速度を奪うっていうのはほとんど無意味なの。同じ相手で長期戦、って設定なら活かせると思うんだけど……説明が難しいな……相手の速度を奪って私の攻撃速度を上げても、新たな敵が出てきたとき、その敵は平常の速度のままじゃない? なんて言うんだろう……千切っては投げ、みたいな戦闘には効果を発揮できないんだ。相手の速度を奪う、なんて、対峙したセツリを倒した時点で消えてしまってるようなものだから」
「たしかにねー。燦然ちゃんには失礼だけど、けっこう使いづらい力だよね。加えて、上乗せされる速度には限度があるわけだし」
「……それって、体が耐えられないから?」
「その通り」まふゆの問いかけに籠中は頷く。「スピードアップをすると言っても、私の動きが速くなるわけじゃない。速くなるのはあくまで斬撃速度。平常時だと、だいたい時速二十キロくらいなんだけど、調子に乗って速度を上げすぎると、腕や肩を痛めるの。そうだな……ただ速度に耐えるだけじゃなくて、そのまま戦うことも考えると、四十五キロくらいが限界だと思ってる」
 だから籠中はサポーターで速度管理を行いながら戦うのだろう。己を知り、己の限界を見極め、己を徹底的に統率する。見習うべき、堅実な戦いかただ。
「体ごとスピードアップしないのは、精霊の宿ってる甲殻にケーブルで接続されてるのが、剣だけだからだろうねえ……? 甲殻を媒体してしか神秘の力は使えないから」
「逆に言えば、接続すればありとあらゆるものの動作が速くなるはずなの。人体に接続するのはさすがに無理だけど、応用はできそうだから、改造学の講師から話を聞いてるんだけど……」
「まさか武装改造学? 二年生からの授業だったくない?」
「籠中さん、すごい」
 まふゆも実花島も驚いた表情で籠中を見る――その視線を受けて、籠中でなく、《懲役燦然年》のほうが誇らしげに、鼻を鳴らしていた。己の主が他人に褒められているのは気分のいいものなのだろう。そんな精霊の気持ちは俺にもよくわかる。
 しかし、籠中のほうは困ったように肩を竦めるだけだった。
「なにもすごくないって。引け目に感じても、燦然を責めてもいないけど、カルテ上のこの子の数値ってそう高くないから、いろいろ立ち回ってるだけ。レアリティは二つ星だけど、威力に関しては一つ星なの」
 まふゆは意外そうに目を見開いたが、実花島は「ああ」と頷く。
「平均くらいだけど、俺たちチームで考えると低いよねー。《変幻自由自在》のレアリティは二つ星、威力は三つ星。飛馬くんとこのメリーさんはどっちとも三ツ星。ナルくんに至っては規格外。こゆりん、使い物になるまでよく耐えたね」
「慣れ次第だって思ってたから」籠中は微笑む。「石の上にも三千年よ」
 しかし――そう考えると、籠中は本当に上手く扱っていることになる。
 実花島も言っていたが、《懲役燦然年》の特徴は使いづらい。それなのに、籠中は不満の一つだって言わず、その力を上手に活用できるよう研鑚してきた。実際、《懲役燦然年》を輝かせてやれるのは籠中くらいのものだろう。きっと自身もそう自負している。まふゆは彼女を考えて強くなったひと≠セと評していたが、まさしくその通りだ。
「籠中はこのチームの中でも努力型の部類だろうな……翼切は完全に天才型だし」
 俺の呟きに、まふゆは「そうなの?」と首を傾げる。
「そうだねえ……ナルくん降ろしたまふゆに言うようなことじゃないけど、降ろした精霊がトンデモって感じ」実花島はけたけたと笑う。「呼びかけの才があるんだって。もう一種インストールする話も先生のあいだで出てるみたいだよ」
 これには俺も驚いた。力のあるやつだとは思っていたが、まさかそこまでとは。
 たしかに、翼切の降ろした《惑える子羊》は強力な精霊だ。目に見えるものでもなく、俺の力により完全に封じられる特徴なので、その凄まじさが伝わってこないだけで。相対することによって相手の前後左右上下の感覚を逆にする――実感しないとわからないだろうが、これは相当厄介だ。平衡感覚と視覚が不安定になり、脳が混乱し、身動きが取れなくなる。この状態で通常の動きをすることはまず不可能だろう。同じ土俵に立たせてすらくれない。言ってしまえば反則技だ。圧倒的不利に相手を押しやる。そうして惑っているうちに、翼切は剣を振るうのだ。俺と違ってセツリ限定というのも使い勝手がいい。なるほど、優秀な精霊を降ろした優秀な生徒という評価は妥当だろう。



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