《栄名歩子の油断》2/3


 すぐに携帯をしまうつもりが、すぐに来た通知にそれを断念する。
『私は大丈夫』
『イタリアンなら行ってもいい』
『同じく』
『じゃあ決まり?』
『ちょっと遅れるかもだけど先行ってて』
『了解』
『予約しとくね』
『話したいことあるし』
『私も!』
 小刻みに振動する携帯。みんな参加できそうだ。
 夜の予定に少しだけ胸が弾む。
 同じ仕事をして同じく婚期を逃し、若いカップルを祝福するという苦行に毎日を喘ぐ私たちは、信頼と信用の置ける仲間だ。裏切らないと確信している女友達と飲むのは、上司と中華料理屋に入るよりも、ずっと気楽で魅力的だった。
「さて、もうひとがんばりするかな」
 私はぐーんと伸びをする。
 固まった体からメキメキと音が鳴った。
 その音に自分でびっくりしてしまった。


● ○ ●



 なんてことだ。裏切りが起こってしまった。
 第何回目かもわからない同僚との女子会で、とんでもない事実が暴露されたのだ。
「私、恋人ができたの」
 ワンヒット!
 爆撃をモロに食らいました。
「じゃあ次、あたしはね、来月結婚します!」
 ツーヒット! ツーヒットにしてノックアウト!
 私だけじゃなく他の子たちも、二人の仲間の告白に悲鳴を上げざるを得なかった。
 なんでも、一人は、通っている陶芸教室で知り合った二つ年上の男性。ちょくちょくご飯に誘っていくうちに告白されたらしい。もう一人はお見合いで知り合った一つ年下の男性。最初は年下かとガックリきていたらしいが、静かな優しさと甘やかなリードに徐々に惹かれてゆき、数日前プロポーズされたようだ。
「裏切り者めー!」
 私たちはそう口々に小突き回したが、顔は笑っていた。心も笑っていた。嫉妬なんてまるでなかった。こんなことがあった日にはささくれだつだろうと思っていた心境は、同じ境遇にいた仲間には心底甘く、むしろ喜ばしくてしょうがなかった。本心からよかったと思えた。幸せそうに頬を緩める仲間は愛おしい。裏切りは吉報。二人の愛の祝福を永久に祈る。
 そんなこんなで祝い酒を飲みまくった私たちは、全員漏れなく二日酔いした。
 アホゥだ。
 あったかいお茶やビタミン剤や聞くかわからない鎮痛剤を駆使してなんとか職場に立つ私たちの顔色は、お世辞にもいいとは言えない。先輩も不思議そうに、そして心配そうに話しかけてくる。仕事に支障を来たさないようには心がけているため叱られるようなことはなかった。
「しっかりせねば」
 私は人知れずラジオ体操で精神統一をしていた。
 自慢ではないが、私はラジオ体操が得意なのだ。
 ラジオ体操が授業内容の体育のテストでは常に満点。第一、第二だけでなく、第三までマスターした私に死角はない。
 腕を伸ばしたり力強くしゃがみこんだりするたびに自分自身が新しく剥けていくような感覚になる。灰汁を飛ばしている、とでも言えばいいのだろうか。汚いもの、だめなもの、許せないものが消えていく。清々しい。この清々しさに気がついたのは小学一年生のころ。夏休み中に家の近隣で行われた早朝ラジオ体操で、皆勤賞をもらったときのことだった。初めは嫌々、中盤は惰性、最終的には達成するための義務感で通いつめたラジオ体操だったが、表彰されありきたりな柄のタオルをもらったとき、私の幼心に一陣の風が吹き抜けた。その風は私の浮かないラジオ体操への思いを瞬く間に刷新し、ほのかな親しみを植えつけたのだ。それから毎朝ラジオ体操を行うようになった私は、友達からラジオ・ストレッチャーだとかよくわからないニックネームをつけられるほどにまで成長。体操という行為自体にも意味と価値を見出し、たまにこうやって人目のつかない場所で体操に勤しんでいたりする。流石に危ないのでヒールは脱いで。イヤホンで体操のミュージックを聞きながら。
「だーめだーこりゃー……」
 だが、そのラジオ体操が裏目に出る場合もある。
 今日のような二日酔いの日には過剰なジャンプや首の回転は苦に苦を重ねるようなものだった。
 頭を押さえながら「ううう」と唸り、ふらふらと持ち場に戻る私の肩を、誰かが優しく叩く。
「……栄名さん、大丈夫ですか?」
 あら。
 どうして彼女がここにいるのかしら。
 つい先日林森佳乃に紹介してもらったばかりの紫木咲ちゃんが、心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
 身に纏っているのは若さ満ち溢れる制服。かわいい。短すぎず長すぎないスカート丈に青春を感じた。眩しくって羨ましい。だけどこんなところには場違いって感じ。
 ぼんやりしていて返事が遅れてしまったけど、私はようやく「大丈夫です」と口を開く。
「それより、どうしてここに?」
「えっと、スピーチの原稿の下書きができたので」彼女は学生鞄のチャックを開けて内ポケットから四つ折りした紙を取りだす。「お暇なら栄名さんに見てもらおうと思って。アポもなしにすみません。忙しいようでしたら後回しにしてくださってもかまいませんので」
 思ったよりも仕事が早いな。
 驚きを隠せなかった私は「あ、ああ、大丈夫ですよ。ちょっとあっちで確認しましょうか」と、待合スペースにまで彼女を促した。
 彼女は礼儀正しく恭しい態度で私の後につき、音を立てないよう椅子をスライドさせて座った。そこまで緊張しなくてもいいのに。まあ自分の書いたものを誰かに見てもらうんだから固くなるのも無理はないけど。
 私も対面に座って、四つ折りされた紙を開く。
 結論から言うと、即席と思われた彼女の原稿はよくできていた。
 ただいま司会の方からご紹介いただきました、新婦・佳乃さんの友人・紫木咲と申します――という改まった挨拶から始まるそのスピーチの原稿は、昨日の今日で仕上げてきたとは思えないほどのクオリティーだった。タブーは何一つ犯していないし、文章がちぐはぐな箇所もない。むしろ、起承転結、発端・展開・最高潮・結末の流れを導入した文学的とも評せる文章は、文字である今の段階から胸を打つに値した。頬の肉を噛むことで必死に耐えたが、ほろ泣きしそうだった。このスピーチを読んだあとだと、あの悪夢のような夫婦の幸せを願うことすらできる。最高傑作だ。夏目漱石や宮沢賢治を超える。
「よくできていますね」
 しみじみとした気持ちで私は言う。
 咲ちゃんは緊張が解けたようにふわりと笑った。
「本当ですか?」
「はい。びっくりしました。私の添削なんていらないんじゃないかってくらいで」
「そんなことないですよ。ネットで調べたり、両親に聞いたりして、なんとかできあがったようなものなので」
 あの花嫁が連れてきたスピーチ代表だ、どんなものを書いてくるかと思っていたが、こんなまともな原稿が書ける人間だったとは。遺憾ながら賞賛する、林森佳乃の選択と審美眼に乾杯、いや、完敗だ。
「気になるところとかってありますか?」
 咲ちゃんは学生鞄から筆箱を取りだして尋ねる。
 なんて真面目な子なんだろう。
「ううん。そうですね。細かいところなんですけど、よろしいですか?」
「はい、もちろんです」
 咲ちゃんは真摯に頷いた。
「全体的に長すぎるイメージがありますね。もちろん長くてもいいんですけど、新郎側の友人スピーチの尺を考えると、バランスが取れてないんですよ。このあとの時候の挨拶は削ってもいいですね。中身のエピソードはどれも素敵なのでなるべく手を加えない方向で。それから……」
 なるべく私のバイアスがかからないよう、彼女の言葉が生きるよう、慎重に原稿の指導を行った。
 正直な話、それからの咲ちゃんの原稿指導は最初に危惧していたほど厄介なお仕事ではなく、むしろ私にとって憩いのような時間となっていった。まだ汚れも知らなさそうな純朴な子供に癒されてしまう老婆の感覚。誰がババアじゃと憤慨する気にもなれない。客自体がストレスみたいなこの職場で、彼女に頼られることの心地よさといったら、自分でも驚くほどだった。その雰囲気にもあてられたのかもしれない。日本でも指折りの進学校に通っているという彼女の態度は、大人の私からしても感嘆の息を漏らしてしまうほど、生真面目で真摯なものだった。ただの緊張だと思っていた堅苦しさが私への敬意だと悟ったときには、思わず両手で手を押さえるという、バアにはふさわしくない乙女ポーズを披露してしまった。緊張気味の苦笑を浮かべて「栄名さん、ここを変えてみたんですけど、どうですか?」と質問に来るそのいじらしさと言ったら、体の柔らかいところをくすぐられているみたいな気持ちになる。私にも他の仕事があるからあまり長くは時間を割けなかったけれど、彼女がたびたび足を運んでくれたおかげでサポートしやすかった。
 私があんまり咲ちゃんにデレデレしているものだから、女子会で「次の裏切り者は貴様か」と笑われた。そうからかう彼女らも、噂の咲ちゃんと話してみれば、「いい子! あたしのことお姉さんだって! いい子!」とたちまち虜になっていた。
 人懐っこくて、真面目で、だけど暗いってわけじゃなくて、むしろ冗談とかが好きな女の子。たまについてくる染井夫妻が彼女をかわいがっているのも頷けた。



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