《藍原実の雪辱》2/2


 目の前の少女が事件を起こしてから、随分と時間が経ってしまったように思う。女子トイレに籠るのは男の僕としては肩身が狭いけど、女子にとっては心強い塒というか、リラックススペースになったりするのだろうか。会場に戻ることも、これからどうすることもできない彼女は、こうしてここにとどまっていた。
「ぷふ」
「いきなりなに」
「思い出し笑い」
「えー。意味わかんねー」
「恨みを買うような人間だとは思っていたけど、まさか君みたいな子にあんなことをされるほどだったとはね。やるほうもやられるほうも相当エネルギーが必要だろう」
 一瞬口元を緩ませた僕に咲ちゃんはそっけなく返す。
「エネルギーなら有り余るほどあった。あっちはどうか知んないけど」
「そっか」
「私もこの展開には一瞬びびったかな。でも咄嗟の判断がファインプレイでよかった。友人代表のスピーチなんて乗っ取るには絶好の機会だったし」
「へえ。意外」
「藍原実の考えが足りてないだけ。私が悪いみたいに言わないで」
「こりゃ手厳しい。でも僕が言いたいのはそうじゃないよ。君はもっとド派手なことをしてもおかしくないと思う」
「あ。ナメたな」
「かもしれない。賢明だけど、アパシーさえ感じるね。君は二人を殺してやろうって気にはならなかったの?」
「殺しちゃったら、あの二人はお姉ちゃんと同じところに行っちゃう。無理にあっちで再会させて、またお姉ちゃんを苦しめることはできない。お姉ちゃんの心の傷も癒えて、二人も茶番みたいな生涯をパッとしない顛末で終えて、あっちに逝ったあと、すっかり骨と皮だけになった不幸のまじないものみたいなクソジジイとクソババアを見て、傑作だねってお姉ちゃんに笑ってもらうの」
 まるで酒飲みのようにぐびぐびとスポーツドリンクを飲む咲ちゃん。
 自棄酒ならぬ自棄スポーツドリンクだ。
 キャップに溜まっていた液体が手から肘にこぼれて咲ちゃんの着るドレスを汚す。黒いから目立たないけど、染み抜きはしておいたほうがよさそうだ。
「お姉ちゃんが大好きだったんだね」
「みんな言う」うんざりした声音だった。「でも勘違いなの」
 姉の死を原因にここまでの暴挙をしでかした人間が姉思いでないなどありえるだろうか。僕は兄弟なんていないからわからないけど、こういうことの原動力は愛であると思う。相当なエネルギー。それはさっき話題にも上がったものだった。
「勘違いって、なんでそう思うの?」
「私、お姉ちゃんが浮気されてるの知ったとき、やっぱあのひとアホゥだなあって思ったの。可哀想とは、あんまり思わなかった。妹としてはだめでしょ、そういうの。ああそっかあって思っちゃったんだから。薄情だと思わない?」
「どうかな。薄情な子は復讐なんてしないよ」
「だって自分のためだもん」咲ちゃんは続ける。「ずっとずっと、腹が立ってたの」
 腹が立ってた。そう咲ちゃんは言った。
 でも、そんな拙い言葉を言う彼女の表情は驚くほど複雑で、もっともっといろんな感情が詰まっているように感じられた。恨み。憎しみ。悲しみ。全部含めて腹が立った。裏切られたのは紫木木古だけでなく、咲ちゃんも同じだったのかもしれない。なんにも知らない、外野と言っても過言でない僕がこんなふうに考察するのもおかしな話だけど。
「藍原実は腹が立たないの?」
 しばし沈黙していた僕に咲ちゃんは尋ねた。蓋をしたペットボトルを両手でくるくると回している。もう残りも少なくなっていたため、軽くて高いピチャッとした音が頻りに鳴っていた。
「あの二人に対して? もちろん腹が立つ。むしろこの件に関して紫木木古派の人間は、誰だってあの二人を憎むだろうね」
「まあ、貴方は特に姉が好きだったみたいだしね」
「なんか照れるなあ」
「さっきまでぺらぺらしゃべってたくせになんでしおらしくなってるの?」
「いや、自分の好意や思いを誰かに曝け出すっていうのは本当にエネルギーがいることでしょ。君の復讐とおんなじだ」
「うーん。確かにー」
「呆れてるね。でも本当にエネルギーがいるんだ。だから充填できてよかったよ」
「は?」
 おそらく宴もたけなわ。スケジュール的にはまだ早いが、あんな一件があったあとじゃ少しでも先のプログラムに移行して、上手な式展開をしたいはず。ならば今が頃合いだ。
 僕は彼女の手からペットボトルを剥奪し、代わりに僕の手を握らせる。そのまま立ち上がって「行こう」と手を引いた。
「えっ、どこに」
「会場。そろそろ時間だろうから」
「戻るの?」途端、咲ちゃんは不安そうな声を出した。「なんで」
「君は僕に勇気をくれた。だから僕も君に勇気をあげる」
 近くのゴミ箱にペットボトルを捨てる。まだ中身が残っていたから落ちたときの音は重かった。分別の精神に反しているけどもうモノがゴミ箱の中じゃ取り返しがつかない。どうせ引き返せないなら自信を持っていたほうがいい。つまりそういうこと。ぶっとんで遠回りしたのは僕の性格だ。
「僕もね、してやりたかったんだよ、復讐」
 まず話についていけないであろう咲ちゃんは驚いたように口を開けていた。
「言っただろ? 僕は彼女に恋をしていた。彼女を弄んだ染井も彼女を軽んじた林森も、みんなまとめてどつくぞとか思っちゃってるんだ。二人だけじゃない。彼女を死に至らしめ、いまもなお結婚式という晴れ舞台で彼女を凌辱し続けている現実にも、僕は憎しみを禁じえない」
「どつきに行くってこと? やめときなよ。貴方そんなに強くなさそうだし。あの、傷つかないでほしいんだけど、さっき拘束されたときもまるで女子かよって力しかなかったし、あのとき私が必死に抵抗してたらきっと指とか折れて――」
 咲ちゃんの言葉はまるっと無視して俺は会場のドアに手をかけた。
 押して参ると中に入れば、音に気づいた何人かが俺たちのほうを振り返る。背後にいる咲ちゃんのシルエットを見て微妙そうな顔をしたけど、彼女の姿を見せないように配慮して立てば、みんな視線を逸らしていった。
「心配してくれるのはとっても嬉しいんだけど、残念、僕は肉体派じゃないからあいつら全員どつくことはできない。部外者だっているんだし」
「だったらなんなの?」
 咲ちゃんが尋ねたとほぼ同時に横からスタッフの男性が現れた。最後の確認と許可らしい。僕はどうぞどうぞと頷いて、ついでに飲み物を頼んでおく。席に戻るのも可哀想だったから、僕は咲ちゃんの隣にいてあげることにした。
「元気なさそうだね、お父さんとお母さん」
 わりと近くのテーブルに座っている咲ちゃんのご両親を一瞥した。背を向けていたので咲ちゃんの存在には気づいていないけど、周囲からの疎外感や同情、本人たちの放つ絶望や悲哀が、居心地悪そうな空気と一緒くたになって感じられた。
「そりゃそうだよ。あんなことがあったんだから」
「でも式は続いてる。能天気なもんだね」
「アホゥなのはなおせない」
「わかる。天性のものだしね」
「それで、どうしてここに連れてきたの? これからなにをするつもりなの?」
「もうしてある。するんじゃなくて始まるのさ」
「は?」
「僕も君と同じで頼まれていたことがある」にっこりと振り返った。「思い出ムービー」
 司会の栄名歩子が声をかけると、会場は薄闇に包まれる。大きなスクリーンが下りてきて、そこに白い光の筋が投影された。あと数秒もすればメロディーとともに映像が流れるだろう。
 スタッフが二つのグラスを持ってきてくれたので、ジュースが入っているほうを咲ちゃんに渡した。
「未成年だからワインは禁止ね」
「え? うん」
 咲ちゃんがグラスに口をつけると曲が流れだした。ゆったりとしたローテンポ、けれど重くない、ピアノの音がよく響いた洋楽のラブソングだ。見ているひとたちの囃すような歓声が上がる。おいおい、照れるな、よしてくれよ。
 前奏から数秒後、大きな写真と文字が、スクリーンに投影される。
 その瞬間に黄色い歓声はやんだ。
「は?」
 咲ちゃんがふたたび呆気にとられた声を上げる。その声の数秒後、今度は新郎新婦の席から「はあああああ!?」という叫びが聞こえた。ついさっきの騒動で態勢がついたであろう観衆も、残念ながらこの不意打ちには弱かったらしい。ぽかんとした顔で僕の作ったムービーを眺めている。

――愛しの紫木木古へ、僕・藍原実の想いを捧ぐ――映し出された映像はそんな文言と一緒に並べられた、僕と彼女の写る写真の数々だった。

 とは言えツーショットのものはほとんどない。修学旅行のときに偶然写った一枚だとか、見切れてほとんど誰かわからなくなった一枚だとか、もう果ては雑コラ上等の合成写真だとか、そんなものがゆっくりと愛情深く流れていく。おっとそれだけじゃないさ。一枚一枚に彼女との思い出を添えられている。同じタイミングであくびをした記念日はどうしても載せたいワードだった。友人に撮られた悪意のある写真上で若かりし僕は鼻を大きくかっぴらいていた。
「きもい」
 隣で味のある目をした咲ちゃんにそう評された。
 確かに、付き合ってもいない男と自分の死んだ姉の嘘か本当かもわからない強引な思い出ムービーを見せられたら、誰だってこんな反応をするだろう。冷めた反応をされるのは承知の上だった。きもいは傷つくけど。
「どういうことだ藍原!」
 もちろんこんな反応をすることも承知していた。新郎新婦の高い席から下りてきた染井が、凄まじい形相で近づいてくる。これは逃げたほうがいいかも。
「落ち着いてください染井様!」
 内心ひやひやしていた僕と染井の間に割って入ったのは、真面目に司会をしていた栄名さんだった。たいそう驚いただろうに復活が早い。やはり優秀な女性だ。どうどうと両手を使って、染井に静止を求めている。林森の「落ち着けるわけないでしょお!」という悲鳴に近い言葉が会場に響く――ことはなかった。残念。思い出ムービーの音楽がサビに入った。大盛り上がりな音量に人間の声帯は勝てない。
「こんなふざけた話があるか! 栄名さん、あのムービーを止めてください!」
 え、それは困る。
 まだあと二分ほど、僕の愛と努力の結晶が残っているというのに。
「申し訳ありません。それが、できないんです……」
「は、ちょ、なんでですか?」
「いえねえ、このたびのムービーでは最新機器を駆使してスクリーンに映写しているのですが、一度データを飲みこむと最後まで戻せない仕組みになっておりまして、ええ」
「なら電源を!」
「いえいえいえそれを私めも考えたのですが、どうやらこの会場の電気設備と並列化しているらしく、電源を落とすとこの式場すべての電源を切ることと同義でして。さすがに私の一存で全機能を停止させるわけには……おそらく別に費用もかかってきますし……」
 そんなわけあるか。
 のらりくらりと染井の怒声を交わしている栄名さんが背中を陰に後ろ手でこちらに親指を立ててきた。まじですか。思わず吹き出してしまう。咲ちゃんはぽかんとしていた。栄名さんはえらく咲ちゃんを気に入っていたし、あのスピーチでいろいろ思うこともあったのだろう。心強い味方を得てしまった。おそらく最後まであのムービーは流れ続ける。
「な、なんでよお! もう! せっかくの結婚式が、なんでこんなことになるのよ!」
 林森佳乃の涙声と共に二番のサビを迎える。
 僕と彼女の写真がドアップで映った。ちょうどこれお気に入りの一枚なんだと咲ちゃんに教えてあげる。返事はなかったが僕は満足だ。
 真後ろの君にドキドキ。
 たくさんのハートマークを散らしながら、修学旅行のとき食堂で撮られた写真が浮かび上がった。僕も彼女も目線は違う方向を向いている。学校が雇ったカメラマンが撮ったものだ。その修学旅行中、僕たちは一度だって視線を通わせることはなかった。だけど君がいる。この暗闇で、純白のドレスを着る花嫁以上に、大きなスクリーン上で輝いている。ただそれだけをしみじみと感じていた。
「貴方、こんな小っ恥ずかしいことをやろうとしてたんだ」
 やっと咲ちゃんの声を聞けた気がする。
 隣を見れば、心底呆れたような顔の彼女が僕を見上げていた。
「ね。勇気がいる」
「本当にアホゥばっかり。結婚式としては最低最悪だ」
「だから最高だろ?」
「実に同感」
 咲ちゃんは苦笑した。苦笑だけど、それは間違いなく笑顔だった。
 そして曲はラストサビへ。
 一際強く気高い音。
 場違いな愛情表現が、この一帯を支配する。
「俺たちの……結婚式が……」
 おーいおいおいと新郎新婦は叫んでいる。この場をどうにかして治めてくれる人間は現れそうにない。いい気味だ。残念ながら、この結婚式は完全に乗っ取った。指を咥えて見てるといい。
「今日の主役は誰だと思う?」
 咲ちゃんは呟いた。
「そんなの決まってるさ」
 僕たちはからかうように持っていたグラスを打ち鳴らした。
 最後の愛のメッセージのあと、スクリーンには彼女の笑顔が浮かんでいる。



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