《藍原実の雪辱》1/2


 まずはなにから話そう。どこから話せばいいのか、どこまで時を遡ればいいのか見当もつかない。見当をつけるために検討する時間も必要だと僕は思うけど、きっと無駄極まりないという意見のほうか一般的だろうからここは割愛しておこう。
 僕は今回の一件からすればとんでもないほどの脇役なもので、きっと君を満足させられるほどの物語も持ち合わせちゃいないんだ。でも、そうだな。君が知らない話。僕と彼女が出会った話なんてどうだろう。というより僕がそれを話したくなってきた。悪いけどその話をこれから聞いてもらうことになる。僕の人生、ひいては今回のことでの僕の立場をも説明できる話だと思う。
 僕が紫木木古と出会ったのは、ある冬の体育の授業中、グラウンドの端でのことだ。
 厳密にはもうとっくに出会っていたし、それはグラウンドなんかじゃなくて同じ箱の中、つまり教室での邂逅だったんだけど、そのときは互いに互いを意識してなくて、所謂ただのクラスメイトだったから、やっぱり一周回って、厳密にはその冬のグラウンドで出会ったのが正解なんだと思う。回りくどいって? そういう性格なんだ。
 話を戻すと、冬のグラウンドで、僕たちは出会った。
 僕は軽い擦り傷を膝に食らって、保健室に行く途中だったんだ。近くの水道で軽く砂を流して保健室に向かっていると、一人の女子生徒が佇んでいるのに気がついた。その子は学校指定のジャージを着ていて、独特の質感の、細かい皺のない、ストンと落ちた胴体のラインに沿うように、見惚れるほどまっすぐに直立していた。寒さのせいで赤くなった手を顔の下半分に当てていたのが印象的だった。口も鼻もすっぽりと隠れるくらい、彼女の顔は外気に触れることを拒んでいた。それはまるで驚いて口を押さえているときのようなポーズだった。彼女はそんなポーズを保ったまま、じっと空を見上げていたんだ。何秒もその状態のままだったからさすがに僕も気になって、彼女が仰ぐ空を見上げてみた。驚いたよ。いや、拍子抜けかな。なんにもなかったんだ。あるのは薄い雲と視界の先にちらつく木の枝だけ。一体なんなんだと思ってもう一度彼女に目を遣った。まだ彼女は空を眺めたまま、手で顔の下半分を覆っていた。でも、次の瞬間には彼女は僕に気づいた。空を眺めたまま、僕のほうへと器用に振り向いたんだ。そういえばと僕は不躾にもじっと彼女を見つめていたことを思い出して、謝ろうと口を開いた。けどそれはできなかった。謝ろうと思った瞬間、彼女の赤くなった手の下からそれ以上に真っ赤な液体が、その顎目がけて伝っていったんだ。そこで僕はやっと気づいた。彼女は空を見て驚いていたんじゃない。鼻血を押さえていただけなんだってね。
 しょうもないって? わかるよ。本当にしょうもない出会いなんだ。でも僕にとっては印象的で、ある意味衝撃的だった。ときめいた、というよりはぐわっときたんだ。とんだアホゥだよね。だけどね、確信している。きっと君が僕の立場でも同じようになっていたと思うよ。いや、妹である君にこんなこと言うのもおかしいか。ごめんね。
 その後彼女はぼたぼたと鼻血を流しながら聞いてきた。大丈夫? いやいや君のほうが大丈夫? 僕は自分の怪我なんてどうでもよくなって彼女に言った。なんで鼻血出しながら僕の心配なんてしてるんだろうって不思議だった。でも彼女はだってと言って食い下がった。空いているほうの手で僕の膝を指差した。血が出てるよ。彼女は言った。僕はかつて小さな擦り傷だったところを見下ろした。真っ赤な血が足を滴って、くるぶし丈の靴下のところにまで到達していた。びっくりしたさ。時間差をつけて出血しやがったって。驚いたけど、なんとなく恥ずかしくて、こんなのは平気だって言った。それよりも君はどうしたのって続けると、ドッヂボールのボールが鼻に当たったと言っていた。鼻血なんてそのうち止まるからって、保健室には行かない判断したらしい。ずっとここで止まるのを待っていたんだと。そっちは絆創膏をもらわなくてもいいのかと聞かれた。血がけっこう出てたからさすがに僕は行かないわけにはいかなかった。だからお大事にと言って保健室に向かおうとした。彼女もお大事にと手を振ってくれた。両手で。鼻血垂らしながら。
 こうして僕は彼女を好きになった。
 えっと、ひかないで。
 別に鼻血を出してる姿がかわいかったとかじゃないよ。
 その一件があって、彼女を意識するようになって、目で追っていくうちにってかんじ。
 まあきっかけは鼻血だけど。
 同じクラスだったこともあって、僕は彼女と話す機会には恵まれていた。と思う。彼女も僕も異性とそう話すようなタイプでもなかったから。故に、僕よりも友人である染井のほうが彼女と親しかった。悔しい思いを何度もしたよ。彼女が染井と付き合うようになってからはより一層ね。だけど僕はずっと彼女が好きで、まだ好きなままだ。想いあうことはなくても好きだった。彼女が幸せならそれでいいと思ったこともある。
 でもね、僕は見てしまったんだ。友の裏切りをね。
 僕の失態はそれで友を糾弾したことではなく、彼女に伝えてしまったことだ。本当にアホゥだよね。あの日に戻れたら、僕は自分のほっぺたを無茶苦茶にぶんなぐってやりたいよ。この脳足りんめ、図体だけでかくなったよちよち歩きの脳みそに止まりかたを教えてやれってね。ドスも効かせてやるさ。どすこい。面白くなかった? ごめんね。
 まあとにかくだよ。僕は彼女に伝えてしまったんだ。彼がその、不義を犯していると。最初は信じなかったけど、そういう兆候を見かけるたびに、彼女はそれが真実だと悟るようになった。彼女の顔は次第に曇っていった。失言だったかもしれないと思い始めたとき、懺悔か棚ぼたか、一度言ったことがあるんだ、僕じゃだめなのかと。彼女は苦笑した。だめだったんだ。僕じゃ。僕じゃ彼女は幸せになれないのに、彼女を幸せにしてやれる男は、彼女を幸せにはしてくれない。僕じゃ彼女を慰められないのに、彼女を慰められる女は、彼女を幸せにしてくれない男と一緒にいる。そうしたら、もう詰みだろう。
 彼女は死んでしまった。
 ここでようやっと、君のストーリーと重なるわけだ。
 聞いてくれてどうもありがとう。
 これが僕の罪の話だ。


● ○ ●



「長い。想像の三倍つまんない」
 女子トイレの芳香剤は男子トイレのものとは少しだけ違う気がする。フローラル度が増しているというか、どうにも尋常でない清潔感が感じられるのだ。だからここでの飲食もぎりぎり許されると思う。芳しいこの空間で買ってきたスポーツドリンクを飲みながら、ギラつきの冷めた目をする咲ちゃんが、不服そうなご尊顔で感想を述べた。
「思い出を切り抜いたらどこもかしこも面白いなんてとんだ道化だよ。村人Aもいいところの僕にそんな面白さを求められてもなあ」
「つまり藍原実は、お姉ちゃんに勝手に恋をして勝手にフラれたってことでしょ? もっと言うなら染井純と林森佳乃の裏切りを勝手に密告した。なんかあれだけお膳立てしておいてタイムセールのひじき出された気分。お腹に溜まるものが欲しー」
 いつの間にか咲ちゃんの語尾からですますしょうさいが消えている。打ち解けてくれたとかそんなのじゃなくって、きっと見下されてるんだと思う。でもフランクになってくれたのは悪いことじゃないので僕はなにも言わなかった。
「君は僕のことをどう思う? 彼女に二人の裏切りを伝えた僕を」
「どうとも。貴方が伝えていなくても姉は気づいたと思う。二人には慎重さが足りなかったし。姉はアホゥだけど、まあ言っても人間だから」
「救われるな」
「勝手に救われんな。藍原実が原因なことに変わりはない」
 咲ちゃんはきっぱりと言った。
 だけど、壇上に立っていたときのような過激さは、もうすっかり鳴りを潜めていた。
「そういえば藍原実はなんであのとき私に襲いかかってきたの?」
「頃合いかなって。なんとなく」
「まあ確かに。藍原実が来てくれて助かった部分もあるかな。始まりは計画していたけど終わりかたを考えてなかったから」
「ならよかった」
「でもみんな固まってたのによく動けたね」
「だって脅しの爆弾。あれ嘘でしょ?」
「ああ……むしろ藍原実以外それに気づかなかったことが驚きかも」
 すぐに納得したような表情をする少女は客観的に見てもかわいくない。これは容姿の問題だとか僕の大人げない私情が挟まれているからとかそんな世知辛い理由ではなく、ある意味喜ばしい理由で、彼女はかわいらしさを剥奪していた。つまるところ大人だったのだ。拗ねるなり恥ずかしがるなりすればまだ子供として救いようがあったものを、ここまで達観してしまってはもったいない。亡くなった片想いの相手の妹をどんな目で見ているんだ。そうだね、懐かしき彼女を思い出して、瞳孔が少し傷心気味かな。
「いい作戦だったとは思うよ。口舌も上手かった。みんなアホゥみたいに君を信じていた」
「まあ高校で発表とかばっかしてるから、ああいうふうに演説するのは得意」
「栄名さんから聞いたよ。立海鉋田だって? 相当賢いよね」
「藍原実に爆弾をフェイクだと見抜かれるくらいにはね」
「皮肉に取らないでよ」
 僕は苦笑して言った。



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