《紫木咲の復讐》2/6
もう疑いようはなかった。混乱なんてしなかった。それまでの流れで、なんとなく、薄々察してはいたけど、純さんは姉と付き合ったまま、親友である佳乃さんと浮気しているらしい。なんて猥褻な絵図。罪深い事実。
ここ最近の姉の不穏はこれで納得がいった。多分だけど、姉はこれを知っている。知っているけどなにも言えずに、ずっとずっと苦しんでいる。
「……アホゥだなあ」
他人の色恋に口を挟むつもりにはなれなくて、私は姉を慰めることも、二人を糾弾することもしなかった。姉は相変わらず暗いままだし、二人は浮ついてばかりだし、傍観する私も当時受験勉強が忙しくって俗世と関係を遮断していた。次第に廊下ですれ違う姉の顔にも興味がなくなり、ただ見なくなっていく恋人の顔に、やっぱりうまくいってないんだなあと思い出すくらいだった。だけど時折姉の携帯を鳴らす名前を見るかぎり、恋人を続けてはいるみたい。馬鹿馬鹿しくて嘲笑。私の隣を歩かなくなった佳乃さんもきっと元気にしていることだろう。部屋の中で絶望しているのは姉だけ。私は壁越しのそれを聞きながらなにに対してかいい加減にしろと心の中で喚く。
喚くんじゃなかった。
あの二人にとっていい加減になってしまった。
姉は六月の雨の中、飛び降り自殺をした。
「どうして、どうして」
煙が狂う真っ黒のお葬式で、母が姉の体の前で涙を流す。どうして、と。
私は知っている。
姉を哀悼し送るこの式に来て、たくさんの感情を滲ませて重苦しい表情を浮かべる、私たちの背後に控えている二人こそが、二人が、姉を、姉が。
「咲ちゃん」
私に声をかけてきた佳乃さん。無視するのもどうかと思い、私はいつもどおりに「はい」と言って振り向いた。私の顔を見て言葉を詰まらせる。それは隣にいた純さんも同じだった。けれど彼は少し早く気を取り直して、私に言う。
「……このたびはご愁傷さまでした」
それはお葬式の挨拶の言葉ですか。それとも皮肉のときに使うやつですか。
こんなところにのこのこ来るなんて無神経なひとたち。
腹が立った。これは怒りではない。ただ、腹が立ったのだ。だから私は意地悪をしてやりたくなったのだろう。意地悪というか、同じ皮肉を言ってやりたくなった。挨拶みたいに。
「純さんも同じですよ」私は続けた。「お姉ちゃんの彼氏さんだったんだから」
狙いどおりに彼の顔が歪む。
次はお前だ。
追い打ちをかけるよう、佳乃さんにも口を開いた。
「佳乃さんも……親友だったのに」
彼よりもわずかに小賢しかったためか、咄嗟に目元を押さえて俯く彼女。
私はその姿を見つめていた。傍目にはよく見る風景だっただろうけど、私たちの心境はバラバラに乱れていたはずだ。
二人を見つけた両親が、姉に会ってやるよう頼んでいた。少し後には二人のご両親も顔を拝みに来る。家族ぐるみの付き合いだった三家だ。染井家も林森家もこのお葬式に来られていたのだ。その他にも、姉の他の友人、担任の先生、親戚や祖父母も、みんなが姉を悼みに。
でも誰も知らない。偶然見てしまった、聞いてしまった私しか。毎晩毎晩、罪深さに震えながら他人の部屋に押し入る私しか知らない。私はやっと見つけた。どんな思いでと探していた、姉の心を。
アルバムに映る恋人と親友の三人。姉の顔がペンで塗り潰されていた。
犯人はおそらく姉自身だ。こんな無礼をしでかすものはこの部屋にはいない。
絶望しながら祈っていたのかもしれない。二人の幸せを。あのひと、本当にアホゥだから。邪魔な私は消えた方がいいって。悲劇のヒロインかお前は。人間なんだから乗り越えろよ。それとも人間なんだから、潰れちゃったの?
私はあの日面倒そうに姉のことを話していた二人を思い出した。あの子大声で泣いちゃうわ。素直で一途な姉はあなたたちのために声を押し殺して泣いていた。
● ○ ●
人間なんだから乗り越える。持論は間違ってはいなかった。
紫木木古の死は紫木家やその周辺に大きな欠落を生んだが、それをずっと引きずるようなことはなかった。もちろん完全に悲しみを追い越したわけではないが、それでも前に進まなきゃいけないのが時間で、進まされるのが人間だ。紫木家はあれから約四年、それなりに平穏に歩んでいた。
「咲ー、帰りにお豆腐買ってきて」
「絹? 木綿?」
「小粒のやつー」
「……もしかして納豆のこと?」
キッチンからの母の叫びはいつもミスが多い。あらゆる家事を同時にこなし、いつも切羽詰らせているせいだと思う。結局どっちを買えばいいんだろう。どっちも買ってこればいいかな。
玄関のフローリングに座りこんで靴を履いていると、後ろから水洗の音が聞こえる。
「おい、着替えなくていいのか? 咲」
トイレから新聞を持って出てきた父が私に問うた。中で新聞を読む癖のある父のトイレ立てこもり時間は約十五分。母からよく小言を言われているし、その新聞をリビングにまで持っていくのはどうかと思う。
「うん。今さら着替えるのも面倒だし、制服のままでいいや。もう慣れたよ。休日の朝から学校なんて、一年のころは嫌で嫌でしょうがなかったけど」
「あと半年くらいでその制服ともおさらばだしな」
「精々今のうちに華を楽しむよ。お姉ちゃんの歳ももう追い越しちゃうしね」
そうだな、と言って父は微笑した。
また今年も六月が来て、紫陽花薫る風がほのかに熱を帯びていく。雨が降る前独特の甘い匂いがよく鼻孔を突くようになった。けれど今日は快晴。絶好のお参り日和だ。母からもらったお金で適当に花を見繕い、私は姉に会いに行った。
「久しぶり、お姉ちゃん。暑くなかった?」
私は灰色の墓石に水をかけながら言った。祥月命日には毎年家族で来て供えと掃除をしているのでこの無機質な姉は未だ綺麗なままだ。私はそれ以外の日にもたびたび訪れているため誰よりも多く姉に触れている。
私はしばらくその墓石の前に立っていたが、遠くから足音が聞こえてきて、振り返った。
心臓が止まるかというほど驚いた。突然再会した二つの顔に目を見開いてしまう。花束なんて持ってきてどういうつもり。私は庇うように、墓石よりも一つ彼らの手前側に出た。
「純さんに、佳乃さん。お久しぶりです」
「もしかして……咲ちゃんか! 大きくなったなあ」
頑張っているようだけど、残念ながら、動揺が隠しきれていない。こんなところで思わぬ人間と会うとはって。私も同じことを思ってた。多分あなたたち以上に。
「もう高校生ですもん。当たり前ですよ。お二人も、お姉ちゃんのお墓参りに来てくれたんですね」
「まあね。毎年来てるし」
「会えて嬉しいです。お姉ちゃんもきっと、天国で喜んでくれてます」
姉と違って素直じゃないなあと自分でも思う。べらべらと勝手に出てくるセロファンに包まった飴のような言葉。甘いという点では林森佳乃と同じ。ただ私は彼を頼ったりはしない。頼るもんか。
「もう四年も経つんですよ、あれから」
「……ああ」
染井純は姉の墓石の前に花束を置き、手を合わせる。
林森佳乃もじっと見つめてから静かに黙祷を捧げた。
でも、思い入れもなさげにすぐさま顔を上げ、私に話しかけてくる。
「その……咲ちゃんはよくここに来るのか? ずいぶんときれいにしてあるから」
気まずそうな顔を晒してなにがしたいんだろう。もしかして年下だからと気を遣われているのだろうか。一回りも歳が離れてるわけでもあるまいし。誰が言った言葉だった?
「一ヶ月に一回は必ず来ますね」
「咲ちゃん、お姉ちゃんっ子だったもんね」
否定よりも先に、林森佳乃は私の頭をよしよしと撫でる。
生理的な嫌悪感が胸を疼かせた。触んなとは流石に言えなくて「私、もう高校生ですよ」とそれとなくその手を拒絶する。この女はこの女で馴れ馴れしい。よく姉の墓の前でそんなことができる。ああ、また腹が立ってきた。怒りじゃない。腹が立ってきた。本当は彼らの姿を見つけてからずっとそうだ。