《紫木咲の復讐》1/6


 四つ上の姉が自殺した。
 遺書はなかった。
 それは深い深い、溺れそうなほどの雨の日。姉の死体は血を洗われるように地面で潰れてたという。転落自殺。容易く行われるものの中でいっとう醜い死にかた。いっそ潰れてしまいたかったのだろうか。水たまりが贈ったキスがそう言っている気がする。
 突然の娘の死に両親は絶望し、母にいたってはノイローゼ寸前にまで陥った。なんとか母を励ましていた父も、時折影を落としたような悲壮な顔をするので、私はその涙を拭いてあげるのが役目だった。
 父と母を寝かしつけた後、私は姉の部屋に忍びこむ。持ち主を亡くしたその部屋はどういうわけか閑散として見える。窓際に並べられたぬいぐるみも、片付いていないフローリングも、閉じるのを忘れた洋服箪笥も、その部屋を構成するなにもかもも、姉を思って泣いているように思えた。泣いて、それでもなお持ち主のために配置する家具たちは、夜の侵入者に冷酷だ。責めるように取り囲む。私はあくまで余所者で、ごめんなさいと呟きながらでしかここに入ることを許されない。私が姉の妹であることがわかると、ようやっと家具たちは私に同調してくれる。無遠慮に部屋のものを出したりしまったりする私を黙って助けてくれる。こうして何度も姉の心を探した。姉はどんな思いで死んだんだろう。
 私の姉・紫木木古は、素直で一途なのだけが取り柄のようなひとだった。
 四人家族二人の娘のうち長女として生まれた彼女は、お世辞にもしっかりしているとは言えなかった。もしも今この瞬間に言葉の意味がすべて対極になってしまったのなら彼女は本当にしっかり者だと表現できただろうが、そんな言語革命乃至意識革命はあるはずもないのでやはり彼女はおっとりの部類に含まれるというわけだ。鍵を鍵穴に挿しっぱなしで家を出たり、レタスとキャベツを間違えたり、妹の私のほうが姉なのではないかと囁かれる粗相をなんの恥ずかしげもなくするひと。つまりアホゥだった。
 ちなみに脳みそのほうもアホゥだった。いや、成績が悪いというわけではないのだが、がっかりするほど要領が悪い。テスト前にあれだけ時間を割く者の成績とは思えない、そんな他愛もない成績しか取れないほど、彼女は要領が悪かった。
 可もなく、不可もなく。平均よりちょっと点数の高いテストの答案を私に見せて、難しいね、なんて笑って見せる。彼女には特筆できる特技もない。ただ自分の残したほどほどな結果を受け入れられる素直さと、それでも努力できる一途さだけが取り柄の、よくいる普通の女の子だった。
 そんな普通の女の子には好きなひとがいた。
 女の子なんだから普通のことだ。
 普通に恋をし、普通に結ばれ、普通に親友は祝ってくれた。
 今でも覚えている。姉が恋人と共に歩き、少し離れたところから二人して後姿を眺めていた。あのときが一番平和だった。恨みがましいくらい平和だった。
 どうして。どうして。
 私は姉のベッドにうずくまりながら何度も心の中で呟いた。
 姉は死んだ。
 平和を捨て去り、自殺してしまった。
遺書はない。理由もわからない。身近な人間に聞いても思い当たる節がないと。両親は姉の墓の前で何度も何度も尋ねた。どうして、と。

 私は知っている。どうしてと問う相手が間違っていることを。

 私、全部知ってるんだよ。たまたま見ちゃったんだよ。聞いちゃったんだよ。どうして。どうしてお姉ちゃんを裏切ったの。彼氏の純さんと、親友の佳乃さんが。
 姉はどんな思いで死んだんだろう。
 姉が死んでしまったのは、あの二人のせいだった。


● ○ ●



「君が木古の妹の咲ちゃんか」
 姉が紹介してくれた男は、太い木のようなひとだった。細身というよりは大柄で骨ばっていて、岩石のように硬そうだ。そんなガタイを姉の高校の学生服で包みこみ、かろうじて人間であることを主張している。貶しているわけじゃない。大きな見目にかかわらず空に向かって貫く大木のようにまっすぐとした姿勢は、目を見張るほど美しかった。魁偉な雰囲気に反して一つ一つの行動はしなやかで、だけど軟派じゃない。初対面の私に笑いかける愛想はなかったが、敬意をもって頭を下げる礼儀正しさがあった。結論から言うに、私は一目でこの男を気に入ったのだ。
「初めまして、姉から話は聞いてます。純さんですよね」
 私がその名を呼ぶと、彼は照れくさそうに笑った。
「どんな話を聞いてるんだ?」
「聞いたらもっと恥ずかしくなりそうなことですよ」
 彼は「こら」と姉の頭を小突いた。姉はその暴力に反論していたけど嬉しそうだった。
 あっつあつじゃんかこるぁ。
「敬語はいらないから」彼は私に振り向く。「一回りも年が違うとかじゃないんだから、俺もあんまり堅苦しくしてほしくないし」
 それから私はお言葉に甘え、存分に生意気な口を聞かせてもらうこととなった。
 少し遅れて紹介された二人の親友の佳乃さんは、姉とは違ってしっかりしていた。抜けているところや隙は姉より多く見えたけど、自分がどう動くべきかをわかっているような鋭さがあった。意識的か無意識的かはわからない。彼女はニボシのように目を細めて笑うのが得意だった。ふわふわとした髪を指に巻きつけながら微笑まれれば、ただのアホゥにしか見えなかった。
 血縁である姉を除けば、私は一番この佳乃さんと親しかったと思われる。男女二人を見守る側の立場として気が合ったのかもしれない。手を繋いで夕暮れを下校する姉と純さんを、二人して後ろから眺めたりもした。私たちは並んで、目の前の素敵な二人を見つめる。
「木古は」
「はい?」
「幸せ者ね」佳乃さんはアイスバーを食べながらくすりと笑った。「純みたいな素敵な彼氏がいて。そう思わない?」
 そう思う。
 姉は幸せそうだ。
 姉は、二人は、噂されるような目立つカップルとは少し違った。二人で遊園地に出かけることも夜遅くまで電話をすることもない。でもそれ以上の慈しみがその距離感から感じられる。普段表情の緩やかな姉が彼の前だと花の精のように柔らかくはにかんでいるのが微笑ましかった。パッと目を引くわけではなかったが、だれもがその二人の侵略を躊躇うような、そんな美しい関係だった。
「あっつあつじゃんかこるぁ」
 私はふと呟いた。
 すると佳乃さんはきょとんとした顔をする。だけどすぐにその音の響きが気に入ったのか「あっつあつじゃんかこるぁ」と私の真似をしだした。あっつあつじゃんかこるぁ。夕暮れにカラスみたいな鳴き声が二つ、何度も何度も響き渡る。純さんには気持ち悪いと言われた。だけど、あっつあつじゃんかこるぁを止めなかった。私もアホゥだったのだ。あのときは。
 それからずっと後の五月半ば。暑さが鼻の先を見せ始めたころだった。
 姉の顔が暗がり始めた。
 最初は全く気づかなかった。思い返せばそのあたりからだろうか、というくらいで、本当はもっと前からだったのかもしれない。私が知るかぎりではそのあたりだったということだ。もっと前に気づけていれば。気づいたところでどうするべきかはわからなかっただろうけど。
「なんでもないよ」
 どうしたのかと聞く私に、姉はそうとしか返さなかった。
 おかしいと思った。素直が取り柄の姉が、素直に口を開かないなんて。なにもないだけじゃないのかとも考えたけど、だとしたら姉の様子がおかしいことへの説明がつかない。姉は確実になにかに悩んでいる。真夜中、壁越しの姉の部屋から隠れるようにさめざめとした泣き声が聞こえたのは幻聴でもなんでもない。
 気になった私は純さんや佳乃さんに相談してみることに――しなかった。家族の私が知らないことを二人が知っているとも思えなかったし、いきなりそんなことを言われても困るだろう。私たちは姉を介してコミュニケーションをとれるのであって、別に定期的に連絡を取り合っているわけでもない。姉のためにそこまでしてやる義理はなかった。よく誤解されるのだが、私は別にお姉ちゃんっ子でもなんでもないのだ。姉がなにかに悩み、なにかに泣いていようと、まあつらいことがあったんだろうなと思うくらいだ。悲しみというものは自力で乗り越えられる。素直で一途なのだけが取り柄でも、姉は人間なんだから。
 だから私がそれを見つけてしまったのは、ほんの偶然だった。
 見間違いかと思った。
 純さんと佳乃さんがキスをしているなんて。
 もしかして姉のあの落ちこみよう、彼と別れてしまったのが理由なのだろうか。じゃないとこの場面に言い訳が立たない。
 私が陰で混乱しているのにも気づかずに二人はみだらに言葉を交わす。
「いいのか? こんなところで」
「いいよ、どうせ誰もいないし」
「よくあるセリフだな」
「一度言ってみたかったの。純もでしょ?」
 どうせ誰もいないというセリフはよくある定番だが、それを聞いている誰かがいるという展開もよくある定番だと思う。それをわかっていなかったのが二人の残念なところだ。だがその残念さがイケナイ空気とやらを過剰にさせている。私がいてはじめてこのシチュエーションは活かされるような、そんなかんじがした。
「このあたりは木古の家の近くだけど」
「それ前も言ってた。でも大丈夫だったでしょ」
「佳乃は本当に危ないのが好きだなあ」
「それ、純が言えるの?」
 私は物陰からちらりと様子を伺う。
 佳乃さんは純さんの顎を猫のように撫でていた。
 なんだそれは。
 わけがわからなくなって私は見るのをやめる。だけどその場を去ることはしなかった。
「ねえ、純」佳乃さんの声は甘えただった。「いつ木古と別れてくれるの?」
「俺ばっかに押しつけるなって。こういうのは一緒に言おう」
「なんて? 私たちラブラブだから悪いけど別れてって? あの子大声で泣いちゃうわ」
「俺が言ってもそうなりそうだろ」
「きっと先にあたしたちが付き合ってればよかったんだよ。そしたら木古も素直にあたしたちをお祝いする立場でいられたのに」
「無茶言うなよ。あの頃は木古が好きだったんだ」
「あたしだって純を好きなったのに」
「なのにおめでとうとか言ってたのか」純さんは少しだけ笑った。「健気だな」
 私はやっと、その場から立ち去ることにした。
 数十秒ほどの会話だったけど、まるで濃密な時間に感じられた。



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