小さいころのあだ名はありんこ≠セった。
 男にしても女にしても変わった名前はからかいの種になりやすく、同世代の人間はみんなそうやって俺を笑っていた。笑いすぎて、口から歯がこぼれ落ちてしまったほどだった。無垢なる幼心は切れ味のいっとう良いナイフだ。それがどれだけの破壊力を持っているのか考えもしないで、生まれたての偏屈な正義で簡単に他人を傷つける。俺は子供ながらに惨めな気持ちでその正義をしのいだ。たとえ幼稚な暴虐であろうと、自分の力の及ばないところで決定されたことをまるで自分がコンプレックスにしていないかのように揶揄され、不名誉に傷つけられた自尊心から俺は毎日泣いていた。
 そんな俺をいつも庇ったヒーローは、一つ違いの姉だった。
 子供のころの一年の差というものは大きい。たった三百六十五日早く生まれてきただけのことが、まるで決して抗えない運命のように感じてしまう。磁力を持つ彗星のごとく現れた姉に、俺をからかって笑っていた人間は馬鹿みたいに恐れをなしていた。姉は彼らの正義感より一年分真っ当な正義感を振りかざす。乙女のピンチに駆けつけるヒーローよろしく、俺が誰かに泣かされたときはすぐさま飛んできて助けてくれるのだ。幼い当時にしては長い手足で俺を庇い、果敢な口舌で相手を打ち負かし、時には正義の鉄拳を二、三発ほどお見舞いして、俺の涙を可愛らしいハンカチで拭う。それはそれは満足そうに。
 しかし、その姉の愛情は、俺に対するもう一つのたおやかな暴虐だった。
 泣いている弟を助ける姉――大人に聞かせれば素晴らしいと感嘆の息を漏らし、拍手を贈ること間違いなしの、類稀の美談だ。だが不幸なことに、からかわれて惨めになる心を後戻りできないほどに腐らせたのは、この優しき姉だったのだ。
 俺専用の砂糖菓子のような甘さは執拗すぎる。
 嬉しさの反面、有難迷惑でもあった。
 こんなことを言えば酷いやつだと罵られるかもしれない。でも、俺だって不完全なりに人間なのだ。ああも必死に庇われて、抱く感情など劣等感しかない。女兄弟に守られたひ弱な弟≠ニいう目で周囲に見られることは耐えがたい屈辱だった。それによって加速した自尊心の崩壊は、いつしか姉に対する厭らしさへと変貌した。
 彼女が俺の涙を拭うたびに心が泥ついた。
 彼女が俺の名を呼ぶたびに鼓膜が濁った。
 彼女が自分への過保護を囁くたびに全身が痒みに逆立った。
 心温まる姉弟愛を強制されるのは心臓に白髪でも生えるような苦痛だ。嫌悪そのものである。そんな俺の心の片隅にある泥ついた感情に気づくことなく、姉は俺の頭を撫でる。そのかったるい温度がどれだけ恨めしかったかは口にするのも憚られた。この十数年間、感情が限りなく仙人掌のようになっていくのを感じながら、俺は思っていた。
 動物界節足動物門昆虫綱ハチ目スズメバチ上科アリ科。見れば奥歯が薄気味悪く疼くような黒い群衆の一粒。無力に無闇に動き回るしょうがない姿は、きっとまさしく俺なのだと。
 しょうがない。お前は本当にしょうがない。




「ねえー! まだー?」
 玄関で靴を履く姉が、未だ部屋で用意をしている俺を呼ぶのが聞こえる。
そう急ぐなら先に行けばいいのに、俺が同じ高校に入学してからというもの、一緒に登校するというルーチンを一度だって欠かしたことがない。今のようにちんたらしている俺を姉はいつも玄関で待っていた。
 俺はもう少し寝たりゆっくりしたいと思うタイプだけど姉はそうじゃないらしい。早起きは三文の得なんて言葉を本気で信じてるのかもしれない。そしてその得を俺にも味あわせようと無理をする。無理なのは姉じゃない、俺のほうだった。
 この姉は、いじめられっ子だった少年が大きくなり、なにかあるとすぐにでもささくれだってしまう危なげな思春期を迎えているということを、わかっていないのだ。だから相変わらず、俺を大事に大事にする。しょうがないなあ、亜莉(あり)は。そう言いながら。
 俺が那贄(なにえ)亜莉という名と共に生を授かってからというもの、姉の那贄亜羽(あう)は相当度の過保護を俺に傾けているらしい。母親から聞いた話なのだが、彼女は過去、碌に話もできない赤ん坊だった俺を誰よりも慈しんであやしていたという。一つ違いなんだからあやすったって大したことはできないはずだ。けど、母親が微笑ましそうにそう言うので、子供ながらに頑張ってくれていた、ということだろう。心底健気だ。しかし健気で済む話じゃなくなってくるのがこの年頃。保護の過ぎる過保護はいただけない。
 にもかかわらず、しっかり者の姉としょうがない弟という図に満足をしているのか、親が口に出す文句の殆どは亜羽に迷惑をかけないように≠セった。いきすぎた姉の行動にはなにも言わず、そうさせるお前が悪いのだと一方的に叱る。そうなるとやっぱり悪いのは俺のほうみたいな流れになる。俺に小言を言うくせに姉を放っておくなんて。いつから人生はこんなに生きにくくなってしまったんだ。遡ればきっと幼少期から。もしくはそれよりもっと前。俺の名前が決定された時点で屈辱は約束されていた。
「遅いってば! あーりー! はーやーくー!」
「わかってるって」
 距離により膨張した姉の声が響く。そのあとに続く俺の声は、まるでセミの抜け殻みたいだった。発声の熱量の温度差がすごい。朝から元気なのはいいことらしいから、姉のほうが正しいみたいに感じられる。
 なんとか支度を終えて玄関に行くと、準備万端の姉がドアに背凭れて俺を待っていた。
まるで待ち合わせに遅れた彼氏を責めるような顔だった。
「遅いよ。なにしてたの」
「亜羽ちゃんが早すぎるだけだろ」
「そんなことないよ。いくら学校が家から近いからって、最近の亜莉ってば弛みすぎ」
「三年生は遅刻が内申に響くからって俺を巻きこむなよ」
「亜莉だって来年は受験生なんだから」自然な動作で俺に手を差しだす。「ほら、行くよ」
 このお年頃で手を繋がせようとするなんて狂ってる。昔の名残か、すぐ手を差しだす癖は今でも健在だ。十中八九、俺の手がそこに収まることを信じているんだろうけど、お生憎様だ。俺はそれに気づかないふりをして「うん。おまたせ」と玄関のドアを開けた。


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