ツァドキエルの目覚め(3/6)




 不気味ながらも人の良さそうだった顔は、いまや痩せこけて頬骨が出ている。炭でも塗りたくったかのような真っ黒な目のクマと、泣きはらした瞼の朱が、不穏さを引き立たせていた。
「お、お前……あの小娘の仲間の男か……セレナータは……セっ、セレナータはどこだ!?」
 そうか。
 イヴはここで改めて気づく。
 この男――ハンバートは、セレナータが死んだことを知らないのだ。
 そして、いまも彷徨って、蒙昧し盲目し、夢を見ている。
 痛々しいくらいに浮いた血管が壁面を這いつくばっていた。振り乱した前髪の額には怒りとも悲しみともつかない皺が刻まれ、見る影もない。ただ彼の手の中で持て余されたラム・アルム、鎖とナイフの武器・《不純白》以外は。
「セレナータを返せ……返せ……」
 じわじわとふらつきながら寄ってくるハンバートにイヴと卑弥呼は尻込みをする。そこにつけこむように、ハンバートは《不純白》を薙げ放った。
「返せ!!」
 イヴの喉元目がけて狂いなく向かってきたナイフ。卑弥呼はイヴを押し倒すようにしてそれを避け、手を引いて走り去る。
「よく避けれたな」
「勘だよ!」
「あの窶れ具合からして俺たちを追ってくることはまず無理だ。それほどの脅威にはならないだろう」
 しかし、その言葉のすぐあとに、二人の横を鎖の尾を引いたナイフが駆け抜ける。高温のため蒸気を発するそれを斜めに避けて足を速めた。
「前言撤回だ。あの男の執念は並みじゃない。今もなおセレナータに固執したままだ」
 あれほどの齢の男が十歳にも満たない少女一人を追い求めていることが不気味でならなかった。狂ってしまうほどに、ハンバートはセレナータに狂っている。
「誰だよセレナータって。お前の恋人か?」
「もしそうなら俺は今ごろ法で裁かれ牢屋で膝を抱えている」
「だから収容されたんだろ?」
「なるほど」
 卑弥呼が茶化すのを聞きながら、卑弥呼は廊下に埋めこまれた部屋部屋に視線を向ける。
 人気のない静けさ。きっとどこもかしこも空っぽなのだろう。逃げやすくはあるが紛れることも困難な状況だった。ファンタスマゴリアの亡霊のような男を背後にしながら、イヴは極めて冷静にこの場の打開策を考えていた。しかしどれだけ頭をこねくり回してもこれといったものが思いつかない。事態は好転のチャンスを逃している。このまま走り続けたところでいずれはハンバートに掴まるだろう。ああなってしまったハンバートがイヴと卑弥呼になにをするのかわからない。だがなんの躊躇いもなくセレナータの体にナイフを放ったときのことはまだ記憶に残っている。肝の冷えるような思いでイヴは拳に力をこめた。
 そのときだ。数メートル先の暗がりの窓の目立つドア。薬品室と刻まれたプレートを掲げるその部屋へと、イヴは咄嗟に身を翻す。
 卑弥呼も乱暴に開け放たれたドアの先へと入り、イヴの後に続いた。
 それに追尾するようにハンバートのナイフが上空を掠める。部屋に羅列する棚を破壊しながら唸り狂う。砕けたビーカーから飛沫を上げる薬品が卑弥呼のコートに浸みこむと、そこは歪な穴を作った。
「なにをする気だ」
 卑弥呼は問う。イヴはなにかを探したふうに部屋いっぱいに広がる棚の薬品群を目で追っていた。
「なにかするんだよ。卑弥呼、お前はアルミ板を探してくれないか?」
「は? んなもんここにあるか?」
「アダムから送られてきた見取り図において、この部屋は拷問用具の保管所だった。それらしいものがあってもおかしくない」
 時折思い出したように襲い掛かってくるナイフを避けながら、イヴは焦る手元で薬品の瓶を手掴んだ。
 おそらくもうハンバートもこの室内に入ってきているだろう。最悪、袋の鼠である。陽炎のように荒ぶる足音を聞きながら、頭が痛くなるようなスピードでイヴは棚を眼漁りしていった。
 いくつかの薬品瓶を掴んだとき、ハンバートの姿が視界の端に入る。おそらく相手もこちらに気づいているのだろう。予想通りイヴと卑弥呼に向かってナイフを投擲してきた。ガラスの砕け散る音がする。ジャラジャラと鎖を鳴らしながら、棚の枠を捉えたナイフはハンバートの手元へと帰っていった。緊張の空気になる。隣合う本棚にそれぞれ身を潜ませながら、コツンコツンと響く足音に二人は警戒を強める。
 片足を着いていたイヴが、片方の靴を脱ぎ、鏡代わりに背後の様子を見ようとする。
「昔はな、卑弥呼。俺も靴に気を遣っていたんだ……昔と言っても半年にも満たない程度の。ほぼ毎日輝きだすんじゃないかというほど磨いていた。それがどうだ。今やなんにも見えやしない」
 見つけ出してきたであろうアルミ板を脇から掲げながら卑弥呼は返す。
「なにをするつもりなのかは知らねえがやるなら早く言ってくれよ。一度のコールに注文の多い客はウェイターには嫌われるぜ」
「ナイフが向かってきたら、俺の前にアルミ板を翳せ」
「盾ってことか?」
「見てのお楽しみだ」
 小さく口角を吊り上げ妖しく微笑むイヴに、卑弥呼も笑みを返すことで了解した。
 ハンバートは覚束ない足で二人の足取りを探っている。潜んだことは無意味ではなかったらしい。おそらくハンバートは、二人の大体の位置しか掴んでいないのだ。ここ薬品室は様々な薬品が保存されている。その多量な薬品を管理するための棚は並々ならぬ高さと大きさがあった。幅二メートルほどしか確保されていない完全管理用の室内では、一度人間を見失えば見つけるのにはそれなりの時間を要するのだ。
 イヴは頃合いを見計らって声を張りあげる。
「ハンバート・ハンバート!」
 その声により、ハンバートはイヴのおよその位置を掴んだ。近くなる足音を聞きながらイヴはもう一つ声を上げる。
「お前に尋ねたいことがある。オズワルドは今どこだ?」
 その名前を出した途端、ハンバートの息が荒くなるのがわかった。
「ジャックといいお前といい……その小娘がなんだと言うんだ。あの生意気な小娘のせいで僕の、僕のセレナータが……」
 イヴは棚の影から出て姿を見せる。イヴを見たハンバートはイヴの予想通りにラム・アルムの刃を向けてきた。卑弥呼は待ってましたと大きなアルミ板を前へと翳す。それは二人の体をすっぽりと覆うほど大きな板だった。板と言うよりは断頭に使われるような切断刃の類なのかもしれない。それほどの厚さもないアルミ板はハンバートのナイフを吸いこんで見事盾の役割を果たしてくれた。ハンバートが鎖を引っ張りナイフを引き抜こうとしたとき、イヴは嘲笑するように口を開く。
「そんなにセレナータに会いたいか?」
 ハンバートはぴくりと動きを止める。引き攣った顔でイヴを見据えて、震える声で「ああ、ああ」と返す。
「セレナータ、僕のセレナータ、セレナータ」
 アルミ板の温度が上がっていくのがわかった。《不純白》の熱でなにかが確実に溶けていく。それも、イヴの狙い通りに。
「なら、お前に言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」
 恨み言だったのかもしれない。一際強い口調で、宣誓するようにイヴは言う。


「残念だったなチャイルド・マレスター。彼女はもう二度とお前の手に落ちることはない」


 その言葉にハンバートは激昂した。人間のものとは思えない叫び声をあげて、ラム・アルムの刃をイヴに向けようとする。
 しかしだ。ハンバートがいくら強く鎖を引っ張ろうとナイフはアルミ板から抜けない。純銅製のそれはアルミ板に高温融解し――結合して離れない。
 狼狽えるハンバートにイヴはコルクで栓をしたフラスコを投げた。彼に語りかけている間に、アルミ板の裏でこっそりと、棚からくすねた薬品で調合は済ませておいたのだ。
「隠れろ」
 そのフラスコがハンバートの脇の棚にぶつかり割れた途端、大きく爆発を起こした。
 コルクの破片やガラスが飛び散る。爆発というには小さなものだったが重傷を負わせるには十分な燃焼だった。爆風と熱で部屋中が不穏に染まる。
 卑弥呼は唖然とした。爆風で髪が靡いているときも、イヴはなんでもないような表情で棚を背に腕組みをしていた。イヴのかけ声のおかげで棚の影に避難できた卑弥呼は、ひょっこりと顔を出す。ハンバートは仰向けに倒れていた。見るからにひりつきそうな、痛々しい蒸気が体から空へと漂っている。





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