ツァドキエルの目覚め(1/6)




 ヘルヘイム収容所はレットマンチェスの果てにある。
 幾何学的な直方体をいくつも連ねたような外観。建築物としては年代物だ。だからといって監獄機能が耄碌しているのかといえばそうでもなく、石畳のベイリーや豪奢な凸壁の狭間には夜通し監視がついており脱獄を防ぐための仕掛けも十分。鉄壁とも言われた監獄は伊達ではないのだ。あちこちに小さく刻まれたプロビデンスの目は王室や首相官邸にも刻まれているものだった。収容所の敷地内には真っ黒い護送車・ブラックマリアが並んでいる。見た目は重層だ。ラナバウトを基にしたボディーで、リアガラスが崖のように落ちている。銃弾すら跳ね返しそうなそれは暗い空気の中でも存在感を放っていた。収容所とブラックマリア、有刺鉄線のある鉄柵。それが《The Three Muskteers》の機内から見える景色だった。
 明けの明星が煌めくまでしばらくという時間帯、ここまで鮮明に視認できるのは幸運である。周りに障害物がないとはいえ、街灯の少ない場所に立地されているという点は懸念すべき箇所だったのだ。
「オズワルドを助け出したあとのことなんだが」
 イヴは思い出したように呟いた。それに卑弥呼が振り向く。
「まだ成功もしてねえ救出作戦にやけに前向きだな、イヴ」
「先のことを考えておくのは今のためにも繋がるさ。助け出したあと、ヘルヘイム収容所から撤退しても、俺たちに居場所はないだろう」イヴは斜め足元へと視線を移す。「収容所を襲撃するという惨事を起こすんだ。俺たちにとって生きにくい世の中になるだろう」
「生きやすかったことなんてあったか?」
「それでもお前は今日まで生きてこれた。それで答えになるか?」
 イヴはそこで吐息混じりに苦笑した。それから少しだけ顔を上げて、探るように呟く。
「そこでだ。考えたんだが、俺たちの行動を正当化すればいいんじゃないか? 女王政府もアンプロワイエも悪者で、俺たちが正義なんだ。そういう状況を作れば、エグラド国民は無意識に俺たちに加担してくれるだろう」
「簡単そうに言うけどよ、そのための仕掛けとかは考えてるのか? 今ならある程度動きは取れるが、目標のヘルヘイム収容所までもう間もなくだ。考えてる暇もなく俺たちは悪者になるんだぞ」
 卑弥呼の主張はもっともなことだった。ヘルヘイム収容所はもう目の前で、今から一世一代のタネをしこんでやる時間はない。無事助け出せてさあこれからどうすると意気ごもうにも、いま以上にイヴたちは警戒され、最悪射殺命令なども発令されるだろう。この渡航できない国で端へ端へと追い詰められるのは怯え竦むほど恐ろしいものだろう。準備たる準備ができていなかった。ある意味ではもうイヴたちは詰んでいる。
「お前たちが昔やった失楽園計画とやらだって時間がかかったんだろ? おまけに、完璧に国を変えるとまではいかなかった。どうするつもりだよ」
 イヴは右手を顎のほうへ寄せた。
「……失楽園、か」
 泡を吐く感覚と似た呟きだった。石膏像のように固まった横顔は、脳を貪り歩くような表情を湛えていた。それから数秒後に「わかった」と呟く。
「“ジャンヌ・ダルク”の手を借りよう」
「は? 誰だそれ」
「哀王の横にいたやつだよ」
「あの優男か」卑弥呼は見下げて尋ねる。「そいつがなにしてくれんだよ」
「なにもしてくれないかもな」
 イヴの苦笑気味の発言に卑弥呼は愚痴をこぼした。それを無視してイヴは機械を弄る。
 今どこにいるかもわからないジャンヌだが、彼はハイテクノロジーの玩具、人工衛星をハックしている。飛び交う電波は全て彼のものであり、つまりはこちらがどうこうする必要はまるでなかった。
 哀王と共に無事に逃げおおせて、どこかへ無事に避難できていたら。棚ぼた式で手に入れた玩具で気まぐれに遊んでいたとしたら。
 イヴは通信用マイクでどことも知れないアドレスに語りかける。
「おい、ジャンヌ、聞こえるか。お前と哀王に頼みたいことがある」
 数秒後、笑うように、紫色の信号が独りでに点滅した。





「おい、起きろジャック坊や」
 刑務官用の更衣室のベンチでを横たわっていたジャックにセベクは言った。額に乗せていた腕が動いて眠そうな目を開幕させる。一部撫でつけるように整えていた前髪に浮き足立った癖がつき、だらしがないとセベクは嘲笑った。
「いま何時?」
「四時ぐらいだったかなあ」
「ニワトリより先に起きちまったや。なにも起こさなくてもよかったんじゃねえですかねえ?」
「仮眠か?」
「朝イチでオズワルドの様子を見に行くつもりだったもんで」
「復帰当日からトバしやがるぜお前は」
「そういうあんたはこんな時間までご苦労なこった」
「苦労なんざしてねえよ」セベクは眉を歪ませるようにして言った。「二十人ばかり、ガス室行きが決まったのさ。抵抗するやつもいたからその監視にあたってた」
「通りで臭いわけだ。シャワー浴びといてくださいよ」
 ジャックは反動をつけてベンチから起き上がると、自分のロッカーの方へと歩んでいった。
 更衣室には自分専用のロッカー、ベンチ、簡易なシャワールームが設けられている。刑務官には所長が持つようなデスクや部屋がない代わりに更衣室のなかを好きに使っていいという権利があるのだ。センターには四角い金属テーブルとベンチを置き、壁をぐるりとロッカーで取り囲む配置になっていた。私物を持ってくるのも許可されているのだが顕著な例がジャックである。刑務官共同のテーブルやロッカーの上、天井などはほとんど彼の持ちこんだ物で埋めつくされていた。
 セベクはテーブルに置かれたライデン瓶型の電灯を爪で弾きながら言う。
「そういや《ピエール》から聞いた話なんだけどよ、囚人のうちの一人が飯のお守りしてた《ゼノビア》嬢を犯そうとしたらしいぜ」
「クズ以下に果敢な野郎だ。アンプロワイエの中でも屈指の精鋭とされる、あのウォーリア・クイーンに手ぇ出そうなんざ」
「まったくだ。結局そいつはゼノビアに殺られちまったわけだが」
「血の気の多い」
「お前には負けるだろうよ」
 おかしそうに笑いながらセベクは胸ポケットから煙草ケースを取り出し、トンと一本抜き取った。テーブルに投げ出されるように転がってあったライターで火をつけて煙を吹かす。
「明日は、っつうか今日は上層部緊急会議らしいぞ。制服はロッカーにちゃんとあるな?」
「そりゃありますけど。一体なんの会議なんで?」
「現在逃亡中の囚人の追跡について。特に知りたがりの“イヴ”と“ジャンヌ・ダルク”」
「ああ」
 ジャックは素っ気なく返した。
 つい先刻そのイヴ本人と会っていたなどとは口にも出さない。ジャックにとって興味のないことだったのだ。もしまた出遭うことができたら所長や女王政府の命令通り、捕縛に一役買ってやらんわけでもない。やる気のないことに労力を削ぐのは面倒だが、これが仕事なのだから仕方がない。
 ジャックはロッカーから熟れた梨を取り出す。ロッカーの鍵を閉めて、そのまま鍵をポケットの中に入れた。
「なんだ、帰んのか?」
「いいやあ? ちょっくら差し入れにでも行こうかと思いましてね」
「お前がそんな殊勝なことをするような人間か? 差し入れって一体どこに――」
 そこで言葉は千切られる。
 何事もないただの午前四時があっという間に崩壊した。
 ヘルヘイム収容所の建物が激震した。天変地異かというほどの振動が伝わり、爆音が響き渡る。爆音なんてものじゃない。今までに味わったことのないくらいの衝撃。砲撃でもされたのかと勘違ったほどだった。
 セベクは煙草を唇から落として眉間に皺を寄せる。




×/
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -