白いテディベア(4/4)




 Ds-10と型番された薄く小さいチップは恐ろしい雰囲気を渦巻いて手の中に収まっていた。オズワルドはチップを口に含み噛み潰そうとして、しかし、イヴの制止の声でそれを止める。
「待て。ここで発信機を潰してもここまで来たことはバレてしまう。リングストン・アポン・ハルクからじわじわと東部に追いつめられれば空路も露見しかねない」
「じゃあどうするの?」
「こいつも気球で風に乗ってもらう」イヴは小さく笑った。「ただし俺たちとは真逆の方向にな」
 その言葉にオズワルドは納得したように頷く。
 ダレスバッグから小型熱気球を取り出して組み立て始める。それにチップをくくりつけて、ゼンマイを巻いたあとバーナーをそっと点け、向きを調節したあとそれを窓から飛ばした。
「これで大丈夫なんですか……?」
「おそらくな。いくらヘルヘイム収容所の発信機とはいえ高度までは探知できないはずだ。アンプロワイエからしてみれば今俺たちは確実に、リングストン・アポン・ハルクからレットマンチェスへと引き返しているだろうな」
 セレナータはじっと白いテディベアを見つめる。オズワルドは首を傾げた。
「これは、セレナータの?」
 セレナータはこくんと頷いた。腹の割かれたテディベアはもう愛らしさの欠片もなくなり、ただひたすらに無残な姿でいる。ルーシャから持ってきたたった一つのものだったのだろう。セレナータの顔色は哀れそのものだった。
「イヴ。お裁縫道具って持ってる?」
「持ってない」
「手術縫製具は?」
「もっと持ってない」
「じゃあ、どこかで買ってほしいな」
 オズワルドはテディベアの綿詰めに従事する。全て詰め終わっても裂けた腹は戻らない。そのテディベアを持ち上げてイヴのほうへと向ける。テディベアの脇を両手で押さえて、華奢な両腕をぴくぴくと動かした。
「お願い」
 イヴはプスッと口の端から噴き出すような笑いかたをした。小刻みに肩を竦めて、それから「はいはい」と言って困ったような苦笑を見せる。
 オズワルドはセレナータに向き直った。そして「この子、ごめんね」と言って申し訳なさそうな顔をする。
 セレナータは眉を少しだけ下げて微笑した。それから困ったように視線を彷徨わせて、おずおずと口を開く。
「も、もういいですよ」
「えっ、だめだよ? あたし酷いことしたもの」
「そうじゃなくて、もう、いいんです……もう、私のこと……無理に帰そうとしなくていいんですよ」
 オズワルドは目を瞬かせた。
 それから「なんで?」と眉を寄せて深く首を傾げる。
「だって、私のせいでこんな……さっきだって一歩間違えたら死んじゃうようなこと」
「でも、セレナータは帰りたいでしょ?」
「二人に迷惑はかけられません!」
 切羽詰まった声を荒げてセレナータはまっすぐに言い放った。空気は少しだけ震えて、それから車の走行音だけが厭に響いていた。
「こんなよくしてもらったひとたちに迷惑をかけて、私……もうだめなんです。私を、ここで、降ろしてください」
 それは齢九歳の子供にしてはやけに自立したような物言いだった。
 セレナータは最初からそうだった。賢く大人しいところも、妙に聡いところも、常に気負ったように切なげなところも、ずっとここまで変わらなかった。オズワルドなんかよりも随分とものを考えているように見えるこの少女の心の中は、今や自責、屈辱や懺悔などでいっぱいいっぱいに違いない。丸くなった背は幼くて、けれどその胸のうちは、気高く尊かった。
「ここで降りてお前はどうするつもりだ」
 イヴは静謐に問いかける。セレナータは唇を噛み締めるように呟いた。
「……生きます。生きていたら、いつかルーシャに帰れるかもしれない。帰れないかもしれないけど、帰るために生きていきます」
「そうか」イヴは返す。「だが、お前一人で、どうやって生きていくつもりだ」
 セレナータから返事はなかった。イヴ自身も返事の期待はしていなかった。
 この世界は、齢九歳のか弱い少女が、誰にも頼らず一人で生きていけるほど、甘いものではない。ひどく世知辛く、そして非道だ。イヴはそれを痛いほどに知っている。この車を降りて二人のもとを離れたセレナータを想像するなど、容易すぎて気分が悪かった。
 イヴは溜息をつく。
 セレナータは身を縮こませた。
 なにもイヴは慈善事業でセレナータに親切をしたわけではない。そこまでのことをするほどイヴは心の優しい人間ではない。ただ興味が湧いただけだ。そして、ただわからせたかっただけだ。オズワルドに。セレナータに。そして、セレナータはそれを理解し、あとはオズワルドが理解し、そして言葉を吐くだけだ。イヴが期待した言葉を、イヴが予期した展開を、いつか自分に囁きかけたような、極上の誘い文句を。そのためにイヴは、セレナータをここまで連れてくる羽目になったのだ。
 しかしだ。オズワルドはどういうわけかさっきから言葉を発しない。イヴは不思議に思って身を捩り振り返る。俯きがちのオズワルドに声をかけた。返事はなかった。ただぼんやりした顔を上げて、へらりと表情を崩していた。嫌な予感がする。
「ねえねえ、イヴ」
「ん?」
「熱と動悸と目眩と頭痛と吐き気がおさまらないんだけど、これって恋なのかなぁ?」
「熱だ」
 イヴはすぐさまオズワルドの額に片手の平を寄せる。しっとりと湿ったその浅い額はわけもわからず熱かった。イヴは驚きに眉を顰める。
 昨日のオズワルドを思い出す。通りで、気分が悪いだのなんだのわけのわからないことを言っていたはずだ。不規則不摂生な生活で体調を拗らせているとは思っていたが、まさか熱を出すなんて。
 オズワルドの、いつもよりぼんやりとした表情や気だるげな仕草は、相当度の熱を感じさせる。
 イヴはその額から手を離し、前を向く。
「吐き気ってどれくらい」
「我慢はできる」
「頭痛は? 目眩は?」
「くらくらするわ」
「ドラッグストアで鎮痛剤とビタミン剤を買ってやる。それまで我慢しろ」
 オズワルドは頷こうとして首をもたげるが、すぐにガクンと体ごと熱に引きずられる。項垂れるかのようにずるずると座席のシートに沈没し、最終的にはセレナータの膝の上に頭を乗せてしまう。倒れこまれたセレナータは驚きで肩を震わせるが、知った人間が突然病人に様変わりしたことのほうが驚愕だったらしい。
「だ、大丈夫ですか?」
 セレナータはオズワルドの顔を覗きこむ。
 オズワルドは「うんうー」とどっちつかずな声で返事をした。わりとだめらしい。セレナータどうこうの話ではなくなった。
 イヴはデパートに車を止めて、鍵をかけたまま、オズワルドとセレナータを置き去りにする。窓も壊れているし物取りが怖かったが、そんな輩ならあのオズワルドでも上手く対処できるだろう。なにより取られるような物もない。五分も経たずに戻ってくるつもりだったし、デパートに入った途端にカラフルなドラッグストアが目についた。これは三分もかからない。イヴは適当な薬を攫って代金を支払った。
 あの調子だからせめてなにか栄養になるものを食べさせたほうがいいかとイヴが踵を返しかけたとき、異変に気づく。
 それは悪い異変だった。
 広い駐車スペースの小さな影の一角。そこに停めてあったはずの車が、忽然と消えている。影も形もない塵芥すらなく、きれいさっぱりなくなっていたのだ。
 ただ一人イヴを置いて。
 風邪っ引きのオズワルドと、セレナータを乗せたまま。




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