馬鹿は首を吊れ(4/4)




 オズワルドは起きあがらない。顔を押さえたまま小さく呻き、緊張で乾いた瞳から生理的な涙を流している。殴られたことがショックのようで、濡れた瞳は見開かれている。
 そんなオズワルドに、哀王は止め処なく言葉を吐き捨てた。
「お前のようなガキは嫌いだ。反吐が出る。お前のような分からず屋がいるから、俺は、俺は」
 哀王の言葉にイヴは顔を顰める。
 目の前に立つ男が熱くなっているのは明白だった。興奮して、思いつめている。そういえば、彼が収容所送りになったのは、分からず屋な人間が足を引っ張ったからだというのを思い出す。昔の彼になにがあったのかは定かではないが、彼の部下とオズワルドを重ねているらしいことは、イヴにも察せられた。
 出題したアナグラム自体不吉だったが、組み替えたものがものだったので、あのときの哀王の視線の先もイヴは考慮し、オズワルドには逃げてもらうことにしたのだ。それが、己の間違いや杞憂でなかったことが、はっきりとわかる。よく思ってない、のレベルではなかった。悪意どころか、哀王のあれは、オズワルドに対する呪いだった。
 哀王は未だに蹲ったままのオズワルドに近づいていく。なにをする気かはわからないが、この流れで仲直りをしようと手を差し出すなど、誰も思うわけがない。
 決断は一瞬だった。
 イヴはオズワルドを庇うように立ちはだかり、ポケットから“威嚇用のバタフライナイフ”を取り出して、哀王へと向ける。
 哀王は冷たい目のまま、「……ほう」と呟いた。イヴは努めて静謐に、哀王へと囁く。
「哀王、落ち着け。お前ともあろう者が混乱してどうする」
 少し媚びを売るような言いかたになってしまったことは、イヴも自覚していた。だが、冷静さを失った者への交渉は不可能で、こうして相手を遠回しに肯定してやることでしか、収束できないのもたしかだ。イヴは理論的に、そのことを知っていた。
 ただし、イヴのその言葉は実に的を射ていた。実際、荊荘哀王ともあろう者が、すっかり混乱してしまっていた。哀王の、オズワルドを見る目から、イヴはずっと感じ取っていた。
 イヴは言葉を続ける。
「……こいつはオズワルドだ。お前の部下じゃない」
 こういう諍いが起こることを、イヴは予感していた。まさかこんなに早く衝突してしまうなんて思っても見なかったが。
 イヴはオズワルドに仲直りしろと言ったけれど、もうオズワルドがなにを言ったところで、哀王には響かないだろう。当たり前だ。哀王はオズワルドを見ていない。オズワルド越しに、過去の己の屈辱を見ている。
「お前の悪夢はこいつじゃないだろう。オズワルドに怒りの矛先を向けるのは、理性に欠ける」
 先ほどと打って変わり、イヴは哀王を突くような言いかたをした。哀王は返答しなかった。返答に窮したというよりは、意図のある沈黙だった。数瞬後、哀王は口を開く。
「イヴ、お前は何故そんなやつといるんだ」
 哀王のふとした問いかけに、「仲間だからだ」とイヴは返す。しかし、その言葉に、「そんな馬鹿がか?」と哀王は口角を上げた。
「馬鹿と鋏は使いようとは言うが、お前の手にさえ余るだろう」
「……俺は、仲間を“使う”つもりはないんだ」
 そんなイヴの言葉さえ、哀王は鼻で笑った。
「俺だって使わないさ。仲間なら」哀王は続ける。「考える時間は充分にあったな……こっちに来い、イヴ。そいつよりも、俺といたほうが、お前には有益だ」
 哀王の言葉は、自分かオズワルドか、どちらかを選べというものに相違なかった。
 ともすれば、哀王の誘いは端っから、自分のみへ囁いたものだったのだ、とイヴは察した。この哀王はオズワルドを対等に見ていない。有用だと見なしてもいない。言外に捨てろと唆されている気さえした。
 オズワルドは言った。かつて見捨てた彼らにとって、哀王は仲間ではなかったのだ、と。なんて残酷なことを指摘するのかとイヴは呆れたものだが、むしろ、哀王のほうが、その部下たちを仲間だと思っていなかったのかもしれない。そこまで考え、イヴは押し黙る。
 秤にかけるまでもなく、哀王とオズワルドなら、哀王のほうが仲間として有能な人間だった。どう見積もっても、哀王と共にする利点よりも、オズワルドと共にする利点のほうが劣る。三人共に、というのが理想論ならば、イヴが手を取るべきは確実に哀王だった。
 けれど、イヴは知っていた。
「……益で人を選ぶと、益で捨てられる」
 イヴや哀王がそうだった。
 二人はとても似ていた。益で物事を考えるところ。そのくせ、感情が、好奇心が、抑えられないところ。そうして自分たちは見捨てられたのかもしれないと、イヴは思った。
 イヴは慎重に見極めた。哀王と行動を共にするメリット。リスク。先の展望。可能性。その全てを秤にかけて、素晴らしい出会いだったと拍手をして、しかし――彼を選ばないことを決めた。
「いまの俺は、運命だと言われたほうが、信じられるんだ」
 そう告げたイヴの後ろで、もぞり、とオズワルドの起きあがる音がした。
 このときやっとはじめて、哀王は怯み、その表情を変えた。けれど、次第に呆れたような色合いを生みだし、失笑気味に呟く。
「……運命で捨てられることもあるだろうに、馬鹿なことだ」
 イヴは苦笑した。
 もしかしたら、哀王の中で、己さえも馬鹿だと見下されたのかもしれないが、最早それでもよかった。答えは変わらない。イヴは保身という観点から、哀王よりもオズワルドを選んだだけだ。
 しかし、どうにも哀王の様子が異常であることに、イヴは気がついた。まさかと思い、振り返り、しゃがんだままのオズワルドに目を遣る。
 オズワルドは目の下を引っ張りながら舌を突き出し、所謂、あっかんべーをしていた。オズワルドなりの意趣返しなのだろうが、鼻血を無理に拭ったせいで、鼻にはこびりついたような赤い尾が這っている。なんとも間抜けな表情に、これを見せられたら確かに失笑するしかないな、とイヴは哀王に同情した。
「……そういえば。哀王、整備した“亜終点”はどうなってる? 逃げ回ったせいでかなり荒らしたと思うんだが」
「気にするな。俺も悪かった」
「ンッンー」
 イヴと哀王の会話に、オズワルドがわざとらしく咳払いをした。その真っ黒な目は哀王に非難しつつ、あるものを催促していた。それがなにかに気づいている哀王は、筆舌に尽くしがたい表情をする。逡巡、割り切ったように吐息して、オズワルドに向き直った。
「殴って、悪かった」
「反省してる?」
「……している」
「すごくすまない?」
「……すまない」
「いいよ。もうしないでね」
 まるで幼稚なその発言に、イヴも哀王も言葉に詰まった。
 おかしくなって、顔を見合わせて笑いあう。
 そんな二人に戸惑いながらも笑うオズワルドの手を、イヴは引っ掴んで立ちあがらせる。鼻血を拭うオズワルドを見ながら、イヴは内心で疑念した。
 そういえば、哀王に殴られたオズワルドの表情には、格別の恐怖が見えたのだ。それは哀王に怯えたというよりも、哀王を通して“なにか”に思いを馳せているようだった。あれはなんだったのだろう。
 しかし、「走ったからお腹すいた」と己の腹を摩る暢気なオズワルドに、イヴその疑念はたちまち忘れ去られた。





 ホテルまでの帰り道。朝とは打って変わった土砂降りに見舞われた夜の道を、イヴとオズワルドは同じ傘に入り、濡れないように帰っていた。二人の差す黒い傘は、帰り際に哀王からもらい受けたもので、返さなくてもいいとの許可も得ている。おまけに夕食までいただいたのだから、今日の諸々の一件を考慮しても、統括すればすまないことをしたとイヴは心中で気を負った。
「――それで、お前はライフル射撃を習っていたのか?」
「うん。そうだよ」
 イヴの問いかけに、オズワルドは頷いた。
 オズワルド曰く、ピアノもバレエもしていたが、どれも長続きすることはなかった、と。たしかに彼女には、美しい音色を奏でる才も、優雅に舞う才もなさそうだ、とイヴは思った。始めてから十年も続いたのは、意外も意外、女の子の習い事にはふさわしくない、射撃だけだったのだとか。けれど、その射撃だけが、とんでもない腕前であった。
 刮目したオズワルドの射撃術に、イヴは心の隅で感心していたが、実のところそれは哀王も同じだったようだ。それだけの技術があるなら持っていたほうがいいだろうと、哀王はあのときのエアライフルをオズワルドに譲ったのだ。ほぼ唯一と言っていい使い所だろう、と皮肉を添えて。
 エアライフルを抱きかかえるオズワルドを見ながら、イヴは問いを重ねる。
「ちなみに、競技の射程距離は?」
「十メートル。それより長いのはしたことない」
「立射だけか?」
「伏射とかもやるよ。最近ずっと撃ってなかったから、まともに立射で持てなくなってて、びっくりしちゃったわ」
「やってた射撃競技はライフルだけか?」
「ピストルもちょっと」オズワルドは片手でピストルを作り撃つようなふりをした。「でも、覗き穴がないと苦手なの」
 イヴはふうんと頷いた。
 競技としてしかしたことがなかったとしても、オズワルドの射撃は正確だった。これが動的なら話は別だろうが、十年もやっているだけはある。普段の彼女からは考えもつかない、あの凛々しい馴染みの良さを思い出して、イヴは感嘆の思いでオズワルドを見つめた。
「にしても、イヴはよかったの?」
 オズワルドの言葉に、イヴは「なにが?」と返す。
「哀王」
「哀王が?」
「ナマコにならなくて」
「ナマコにはならなくていいな」
「ナマコにならなくて」
「仲間のことか」
「イヴにとって、メイデーのお導きは、運命じゃなかった?」
「さてな。だけど、哀王は俺だけをご所望だったろう。むしろお前は、俺に哀王を選んでほしかったの?」
「イヴと一緒に、哀王を選びたかった」オズワルドは続ける。「そういう選択肢だってあったわ。あたしよりもうんと賢いイヴなら、きっと選べた」
 イヴは「ううん、そうだなあ」と呟きながら、肩を竦める。
 実際のところ、オズワルドの言うような選択肢は存在しなかった。イヴがあの状態の哀王を説得するのは不可能だったろうし、誘い上手なオズワルドは哀王の天敵ときている。
 けれど、そんな考えるまでもなく詰んでいる状況を説くでもなく、イヴは呟くように言った。
「俺は、たぶん、俺の前も後ろも、歩いてほしくないんだ」
 イヴの言葉に、オズワルドはぱちくりと瞬いた。その意味を理解できなかったからではない。むしろ、その意味を正しく理解していたからだ。
「……導かないかもしれないし、ついていかないかもしれないから?」
 イヴは目を伏せる。
 イヴはかつての相棒に言われたことがあった。君は前ばかり見ている、と。どんな気持ちで追いかけているのか、考えたことはあるのか、と。その言葉の意味をイヴはずっと理解できなかったけれど、哀王という鏡写しのような人間を見て、ようやっとわかった。
 ずっと隣にいると思っていたけれど、きっと違ったのだ。イヴは相棒を置いて行ってしまったし、もしかしたら、根本では、二人は全く別の方向を見据えていたのかもしれない。そういうことだと、イヴは結論を出した。
「イヴは、ただ、隣にいてほしいのね」
 オズワルドの囁くような呟きに、イヴは「うまくいかないものだけど」と笑った。
「似たような俺たちならって、そう思ってたんだけど、あてが外れたみたいだ」
「だからさよならすることにしたのね」
「まあ、哀王とは、これからも関わることはあるだろうけどな」
「え、そうなの?」
「おそらくだが、哀王も似たようなことを考えてると思うぞ。こんな状況下だ。情報共有はするべきだし、なにより、利用できるものは利用したい。ならば、利用したいときに利用すればいいんだよ」
「それって、あたしたちとなにが違うの?」
 イヴは押し黙った。オズワルドはなんとも自己評価の高いことを言ったのけたが、イヴはオズワルドを利用するに値するなどと思ったことはない。考えもなしの発言だろうが、妙に間が抜けている。どこをどう突っこむべきか悩んで、フォローするのも馬鹿げていると、結局イヴは口を閉ざした。
 イヴは、オズワルドの問いかけに純粋な答えを用意しようとして、しかし、自分の中でも言語化できていないことに気がついた。
 哀王ではなく、オズワルドを選んだ理由。共に生きると選択した理由。隣にあるのが彼女である理由。
 そもそも自分は、仲間として、オズワルドになにを求めているのだろう。
「……なんだろうな」
 結局、解は見つけられず、イヴは苦笑するに留めた。非難されるかと思ったが、オズワルドは「たしかに、四六時中あのひとと一緒にいるのはつらいかもしれないね」と勝手に納得した。イヴが驚いているのもかまわず、唇を尖らせるようにして「おしゃべりが下手くそだもの」と続ける。どこもかしこもずれた発言に、「お前って本当に清々しいよ」とイヴは呟き、首を吊るようにため息をついた。




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