メイデーのお導き(1/5)




 快晴だった。朝日は眩しかった。
 窓からの斜光に部屋は照らされ、真っ白なはずの布団の色も、一部日焼けたクリーム色に変わる。埃はちりちりと光を受けたところだけ綺麗に輝いている。寝返りをうつたびに空気が揺れて、それは鱗粉のように舞う。
 布団に埋もれる彼女の体は細かった。その片足は擽ってくださいと言わんばかりに投げ出されている。覗き出る長い黒髪はまるで犬の尻尾のようで、幾重にも重なりながら撒き散らされていた。寝汚いというほどではないが、もう少し年頃らしくできないのか、とイヴは思う。
 イヴは彼女の肩を布団ごと揺すって、強引に目覚めを促した。
「起きろ、朝だぞ」
「ふ……ん、えぇえ……」もぞりとオズワルドは動いて、イヴを見上げる。「ついさっきまで夜だったのに、いつの間に時間が巻き戻ったの?」
「巻き戻ってない、進んだだけだ。早く起きろ。いま何時だと思ってるんだ」
「え、何時?」
「十二時」
「まだ真夜中じゃない」
「俺が間違ってた。起きろ、昼だぞ」
 イヴは呆れたような小さい溜息をついて、オズワルドから離れていった。
 オズワルドもふわりとあくびをしてからベッドを抜け出る。ペパーミントグリーンのまだ新品らしいパジャマには、寝相による皺が寄っていた。しかし、オズワルドは気にするふうでもなく、顔を洗いに洗面台へと向かう。なんてことのない、二人の一日のはじめだった。
 失楽園計画は見事成功したものの、イヴが“ダストシュート”から生き延びていることが大々的に世間に晒され、ヘルヘイム収容所のアンプロワイエに追われる日々が待ちかまえていた。賞金首として指名手配の貼り紙が国中で見かけられるまでに発展したのだ。
 しかし、経験上、イヴはそうなることを見越していた。収容所に入れられる前から、ある仕掛けを施していたのだ。
 それは、戸籍情報の偽造だった。
 国のデータベースを書き換えることで、彼自身の顔写真を別人に挿げ替えたのだ。データベースに載っている五十代くらいの黒髭の男は、どう見てもイヴには見えないだろう。その写真の男は数十年前に病気で死んでいて、男の消えた戸籍から、顔を拝借している。出回っている指名手配の貼り紙は全部その男の顔であり、イヴは臆することもなく、公衆を闊歩することができた。
 もちろん、こんな小細工だって長くはもたないし、遠くないうちに誰かが気づく。けれど、一度出回ったものは、たとえデマでもなかなか抜けない。うまいこと混乱してくれれは儲け物――それこそがイヴの狙いだった。
 しかし、そんな急拵えの小細工には、思わぬ副産物がついて回った。
 いくら世間を堂々と歩けても金がなければなにもできない。そんな二人に都合のいい利潤を与えたのが、指名手配書に書かれた“目撃情報求む”――脱獄囚・イヴを見かけたものは連絡されたし、真実なら相応の報酬を支払う、という文字だ。これが本当に儲け物だった。
 幸い、まだあの黒髭の写真が脱獄囚・イヴだと思われていたし、イヴ本人は顔が割れていなかった。それらしい黒髭をつけて街を歩き、オズワルドが目撃情報としてタレコミをする。アンプロワイエや警官に追われれば、変装を解いて街に溶けこめばいい。このうってつけのマネーゲームを、イヴが利用しない手はなく、この手法を三度ほど重ねることで、しばらく郊外のホテルに住まえるだけの資金が手に入った。
 失楽園計画から、二週間ほど経ったあたりのころだった。
「オズワルド、見ろ」
「なにを?」
「新聞」
「見たよ」
「読んだか?」
「読んでない」
「じゃあ読め」彼がテーブルの上に置いたのは私営共産党新聞だった。「面白いぞ」
 珍しい笑いかたをするイヴを一瞥して、顔を拭いたタオルを椅子にかけ、オズワルドは言われた通りにその新聞に目を通す。
「王室前でデモ?」
「正当な情報の開示と怒りを訴える、な」
「イヴ、嬉しそうね」
「まあな。あの新聞をばら撒いてから国民の風向きが変わっている。エグラディオ新聞社も可哀想に、警備体制の欠陥だけじゃ追及が済まないぞ」
「イヴが原因?」
「俺たちが原因だ」
 オズワルドはにっと白い歯を見せた。
「暫く混乱が続くかと思ったが、案外国民も馬鹿じゃなかった。何人かはエグラドを逃げ出そうとして捕まったらしいが、俺としては拍手を贈りたいよ」
「贈ってあげたら?」
「留置所の中にまでは届かないからなあ」
「じゃあ無理だね」
「だと思うぞ」
「残念」
 そう言いながら、オズワルドは三度ほど手を打ち鳴らした。しかし、すぐにぺたんこなお腹をぐるぐると撫でて、唸るように呟く。
「お腹すいた」
「我慢しろ」
「我慢したらお腹いっぱいになるの?」
「我慢したらいい子になれる」
「誰にとって?」
「俺にとって」
「お腹すいた」
「悪い子にはなにも恵まない」
 オズワルドは唇を尖らせた。
 国民の風向きが変わった。それはイヴにとっては喜ばしいことだった。しかし、それは表面上の喜びであり、国中はもっと深刻だ。
 度重なるデモに田舎で起きる暴動、様々な要因が重なり、食料の値段が急騰した。元々鎖国していたのだから完全自給自足の体制だったのだ。ある程度の動乱や騒ぎが起これば食量は国の需要に満たなくなる。それだけならこれほどまで高騰しなかっただろうに、おそらく国が手を回しているのだろう、たった一つのパンを買うためだけに金貨や銀貨が何枚も必要になった。
「もう三日なんにも食べてないよー」
「嘘をつくな。昨日の晩は野菜スープを食べただろう」
「ブロッコリーの茎と玉ねぎの芯しかないほぼ水みたいな代物を、あたしは野菜スープだなんて呼ばないわ」
「歯ごたえのあるものがあっただけマシと思え。今日は水しかないかもしれないんだ」
「梨が食べたいな」オズワルドは切なげに言う。「骨みたいなのじゃなくって、ヴィーナスみたいなの」
 イヴも自分の体の真ん中にある満足できない胃袋を思うと、切ない声の一つも出したくなった。




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