ナマコ(2/3)




 登校前の朝は好きではない。落ちそうな瞼が閉じないように踏ん張っていると、自分でも目があくびをしているのがわかる。自力で起きることが苦手な少女が大好きな眠りに手を振らなければならないのはなによりも億劫なことだった。目を覚ましたところで焦げる朝食の匂いもおはようを言う相手もない。一人で住むにはほんの少し広い家は、無機質なドールハウスに痛いほど似ていた。
 容疑も晴れ、普通の女学生に戻った彼女に待っていたのは“無実の罪で囚われていた悲劇の少女”というドレスだった。世の中は冤罪に対して厳しく、被害者に対して優しい。殺人者と言われた過去はどこへやら、冤罪被害者保護の会という縁も所縁もないがどうやら味方してくれるらしい後ろ盾から、彼女は一定額の慰謝料を貰い受けることができた。計画的に冤罪されたこと、二年もの間収容所に囚われたこと、囚われていた間に受けた熾烈な拷問など、その他諸々を含めた慰謝料額は一人暮らしできるには十分すぎるものだった。解放されたときに発見された彼女の背にある真新しい拷問痕が後押しをしてくれたようだ。見事に一般市民と裁判官の同情を勝ち取り、更生を果たすことができた。彼女の親が元々社長を務めていた新聞社も、現社長の厚情から彼女に対して考慮する旨が数々あった。前社長の代から世話になっていた社員などは務めて彼女に優しく接したし、一人暮らしするにあたっての家具も用意してくれた。無事に復学も決まり、通っていた学校側からはそれ相応の配慮がなされている。まだ後ろめたさとネームバリューからくる遠巻きは解消しないが、着々といい方向へ進んでいた。

 彼女をハンザイシャ呼ばわりする人間はもういない――彼女をハンザイシャ呼ばわりしなかった人間がいないように、一人たりとも。

 通っている学校の制服に袖を通す。ワンピース型の制服には白金具が輝かしくあしらってあった。黒いハイソックスを履いてリボンを締める。中途半端な長さに伸びた髪を編みこみ、大きな一本の三つ編みにして胸元へと垂らす。朝食代わりの梨を持って家を出た。
 夢見る尖塔の都市として知られるフォロドクスのメインストリートは大人しやかな活気がある。同色系統の建物が規律正しく並び立っていて、正方形の石畳にはエグラド著名人のサインや記念日の祝い文句などが足跡で擦り切れながら模様を描いている。六角形の広場には四つ辻のように道が、十字を描いて伸びていた。そこを行きかうのは学生や忙しい大人たちだ。犬の散歩をする老紳士が帽子を脱いで彼女に挨拶をする。メインストリートを抜けると一気に人通りが少なくなり、三階建ての長いバスだけがエンジンを噴かせて道路を襲来していた。小さな黄色いデイジーがシルバーの葉と共に揺れる。彼女の前髪も同時に巻かれて風景に溶けていった。
 彼女以外にも同じ制服を着た女子生徒が道を歩いていた。隣には男子生徒がいたりと騒がしい集団が多かったが、彼女の周りだけは少し静かだった。
 だんだん彼女の通う学校が見えてくる。富裕層のティーンエイジャーが通う名門校だ。堅実ながら高級感の溢れる校舎や荘厳な歴史博物館が売りである。中でも彼女はロマネスク様式とゴシック様式が合わさったバシリカの食堂が大のお気に入りで、昼休みはそのテーブルで大好きなメニューを食べ漁っていた。
 朝食代わりに齧っていた梨が芯だけになる。べたべたと生乾きの果汁が滴るそれは持っていても邪魔なだけだ。
 ゴミ箱に捨てようと登校路から少し外れる。

 その瞬間に、腕を引っ張られた。

 穏やかな連中でないのは自分の腕を掴む力の強さからわかる。抵抗を試みたが相手は複数なのかどうにも体の自由が取れない、口も肩も押さえられてしまった。
 暴れれば前髪をぐいっと掴まれる。自然と顔が上がった。
 見知らぬ顔が汚く彼女を見つめる。目や顔立ちが汚いのではない。衛生的に汚かった。思えば匂いも酷い。服には見覚えがある。けれど汚れたり破れたりしているためそれをどこで見たのかがはっきりと思い出せない。思い出そうと没頭できるほど冷静でいられる状況でもない。
 強引に引っ張られて連れていかれる。
 どこに。一体どこに。
 お生憎、十年以上も嗜んでいる得意のライフル射撃も、そのライフル本体がなければ話にならない。彼女は護身術を心得ていないし、抵抗し続けるだけの体力もない。口は押えられているし助けも呼べない。これは危機的状況だった。
 連れてこられた先にあったのは一台の車だ。真っ黒い見た目をしていてラナバウトを基にしたようなボディーだ。所謂ブラックマリアと呼ばれるそれに、彼女は押しこめられようとしているらしい。
 彼女を拘束していたうちの一人がバックドアを開きにかかる。拘束が緩くなったところで更なる抵抗を試みたが、相手のうちの一人が彼女の腹を殴った。酸素と共に一気に力を手放して、彼女はしゃがみこむこともできずに相手に寄りかかる。
 煩わしそうに腕を持ち上げられる。
 ブラックマリアの、バックドアが開いた。

 ――しかし、途端、開けた張本人の体が吹っ飛ばされた。

 彼女は驚きに素っ頓狂な声をあげる。
「んま」
 それはまさしく一瞬だった。
 ブラックマリアのバックドアから、暗い影を纏うようにして大きな腕が伸びる。それは金属でできた腕だった。細身な金色の拳が固く締められて殴りかかったのだ。吹っ飛ばされた相手は気絶する。バックドアを掴んで義手の持ち主は這い出てきた。





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