ナマコ(1/3)




 シックな雰囲気のある喫茶店で、彼は新聞紙を開いていた。
 エグラディオ社の新聞だ。半年前よりも随分と印刷が変わっている。一面の見出し記事は“ヘルヘイム収容所強制解体”、“内閣政府逃亡相次ぐ。王家も亡命か?”という内容のものだった。
 エグラドにOperation the Paradise Lostと呼ばれるテロ行為が行われてから、新聞に載る記事はどれも毛色が変わり、国民の不安や一抹の期待を煽る類のものが増えていった。
 史上二度目の紙吹雪の舞い降りた朝、エグラド国民誰もが意識しなかった“外国”という概念が、エグラド国土に登場した。その日から全ては変わり始め、蒸気の国・エグラドの面影は今やほとんどない。全てを知ってしまった国民は戸惑いながらも、一部の学者の意見や訴えにより意志を固め、女王政府に反旗を翻している。
 暗黙のうちに掲げていた海外交通禁止令はもう機能していない。政府上層部のみが独占していた技術は国中に広まり、エグラドは着々と姿を変えていっている。
「隣、空いてますか?」
 カウンター席だった彼の隣に強面の男が立つ。他にも席が空いているだろうに、どういうわけか彼の隣を選んだ。彼は流麗な手つきで「どうぞ」と言った。男は彼の隣に座る。なにを頼むわけでもなく、カウンターに両肘をついた。
「お前のカリギュラは?」
「小さな鍵の小部屋にだけは絶対に入ってはいけない」
 合言葉に答えた男に、新聞から視線を剥がした彼はにんまりと笑み崩す。
「久しぶりだねえ? “ジル・ド・レ”」
「生きてたんですね、“ジャンヌ・ダルク”」
 ジャンヌ・ダルクと呼ばれた彼は肩を竦めた。曖昧そうな表情で「おかげさまで」と言った。
「“ダストシュート”に乗りこんだって聞いたときは、ああ死んだのか、と思いましたよ」
「俺自身もまさか生き残れるとは思わなかった」
「神の御加護でも?」
「むしろその逆」
「逆?」
「神に追放された人間からの置き土産」
 けらけらとおかしそうに笑う彼を、男は訝しげな目つきで見た。数秒後諦めたような表情をして「フラネクが」と口を開く。
「貴方を探してる」
「フラネクの国民戦線?」
「そうです。官僚天国の豚共は、半年前に起きたOperation the Paradise Lostの首謀者は貴方じゃないかと睨んでる。エグラド王室と長きに渡って結んでいた秘密同盟に、結果的に終止符を打ったんですよ。捕まればヘルヘイムどころじゃ済まされない」
 脅すような男の声音に彼は気丈を貫いて返す。
「新聞、読んでねえの? ヘルヘイム収容所は解体され、共産党も司法も女王もおっ潰れた。一度攻略したフラネクなんて子供のころに見たトロールの幻みたいなものさ」一拍置いて。「まあ俺は首謀者じゃないけど」
 男は、首謀者が誰かなど興味はなかった。目の前にいる彼だろうと、神に追放された人間だろうと、そんなことはどうでもいい。問題は、その延長線上にあることだった。
「亡命したエグラド王族とフラネク国民戦線が結託すれば、面倒なことになる。最悪なのはヘルヘイム収容所のアンプロワイエ……それもラム・アルムを持った精鋭班が揃いも揃って姿をくらましてるってことですよ。開国した勢いと他国の干渉統治のおかげでなんとか回っていますが、翻した反旗に更に反旗を掲げられることだってあるでしょう」
「そりゃ愉快だ」
 彼はカウンターの上に乗っていたラジオを徐に持ち上げる。そして小慣れたような憎らしい手つきでキーやアンテナを弄り始めた。
「まるで他人事だ」
「他人事だよ。今日をもって、エグラドのこともフラネクのことも俺にとっちゃ他人事に変わる」
「は? なにを言ってるんですか?」
 聞く耳持たずと言ったように、弄り終わったラジオを男に押しつけた。彼は席を立つ。
「それよりも、お前さんこそどうするんだ。いまどういう状況かわかってる?」
 渡したラジオを指差しながら、彼は喫茶店を出た。雲雀色をしたベルが鈍く鳴り響く。冬の街に塗れていく彼の後ろ姿を窓越しに見つめながら、男はラジオへと耳を近づけた。
 それはノイズというには美しすぎる、音楽というには乱れすぎる、緻密に狂った音の塊だった。おそらく歌であることが伺えるがどうにもリズムは掴めない。しばらく耳をそばだてていると、それが二つの曲を同時に流すことで生まれる不協なのだと知る。聴き分けてみるのは思ったよりも容易かった。二曲は言語が違うのだ。一つは女王陛下に対する忠義の歌であり、一つは革命歌だった。同一のフレーズがずっと流れ続けている。まるで腐り落ちる前の呪文のように。

 絶えず理想を与え給え、声無きも声高きも謳う。
 下劣なる暴君どもが、我らの運命の支配者になるなどありえない!





 エグラドの二月の朝は寒い。気温はそれほど低くはないが雨や雪が年がら年中降るため、体感温度は実際の温度を大きく下回る。今日もそうだった。昨日真夜中に降った雨が見事に功を奏して厳しい寒さを実現している。窓ガラスが白くなっているのがそのなによりの証拠だった。
 少女の睫毛が震える。寒さからではない。冷めていくのではなく覚めていく。彼女にしては浅い、微睡みのような眠りから。
 真っ黒い目が白い肌の上で開かれた。寝癖であちこちに跳ねた髪が蠢きによりシーツを流れる。少女は小さく伸びをしたあとベッドからするりと抜け出した。時計を見れば朝の八時を指している。まずまずの時間だった。




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