06


「だからね、口虚さんに構ってあげられる本真くんは、本当にすごいと思うの。口虚さんの為に自分を犠牲にして、今回みたいに授業にも遅れちゃって。他にもいっぱいいっぱい、口虚さんの面倒を見てるでしょ? お守りや尻拭いをおんぶに抱っこ。私なら絶対にブチキレてる」
「…………………」
「ねぇ、本真くん」
 疑心暗鬼にも思われるような目つきで俺を見る。じりじり焦がして俺の身体に穴を開けてるみたいだ。
 足水は、言う。さっきよりも僅かにはっきりとした、切り込むような声で。
「君はなんでそんなに献身的になれるのかな」
 そこでチャイムが鳴った。模擬的な鐘の音が、スピーカーを通しノイズを含み、鼓膜を不躾に揺さぶる。美術の先生が軽く礼をとる。俺は紙やすりと木片パズルを抱えて忙しく用意をした。
「悪い…………俺、早く保健室に行かなきゃ」
 その意図を察知したのか、足水は酷く顔を歪めた。
 住人は今頃絵の具が、落ちていたことに気づいたのだろう、オーマイガーッ、と叫びなから木片にティッシュを押し当てている。
 足水も席を立つ。彫刻刀をケースに仕舞い、自分が生んだ木屑を手の平に乗せ、目の前のごみ箱へと落とす。
「……もしかしたら君は怠惰だと思うかもしれないけど、それでも私は、何もしないからね」
 そしてもう一度、心底わからないと訴えるような真摯な目で俺を見た。
「本真くんはさ、ずっと口虚さんの嘘に付き合い続けちゃっていいの?」
 俺は答えることなく美術室を去っていった。



 美術室から直行で保健室に向かう、しかし保健室には見たところでは誰もいなかった。無駄にデカいエアコンが温風を部屋に送り込んでいるだけ。そのくせ乾いたひりひり感がしないのは奥にある加湿器のおかげに違いない。ぽふぽふとピンポン玉みたいな白っぽい気体があたりに散らされていた。
 先生はまた職員室かなにかかな。まあいい。どうせ口虚は公式仮病なわけだし。先生がついている意味は皆無だ。
 俺は肩を竦めたあとベッドを目指す。クリームとペパーミントの間みたいな色のカーテンが三つ、長方形を象りながら規律正しく等間隔に並んでいる。そのカーテンの麓を見遣る。真ん中のカーテンの下にだけ、きっちり揃えられた臙脂色のスリッパがあった。サイズは俺のより小さくて、何より汚れが目立たない。
 俺はそのカーテンを開ける。
 病院にあるようなパイプのベッドの上で、もっこりと膨らんだ布団の中、シーツを乱すことなく、口虚はすやすやと寝息を立てていた。布団からちょびっとだけ出た指と頭。髪は僅かに乱れて、魚の鱗のように透き通った白い肌の上を荒らすように横断している。そこだけ台風が通過したみたいだ。
「おい、口虚、起きろ」
 返事はない。
 ただの屍のようだ。
 なんつって。
「口虚、起きろ…………俺に二時間目まで遅刻させる気か」
 しかし口虚に返答はない。俺の言葉から二、三拍おいて、口虚はゆっくりと寝返りを打っただけだった。小学生のような無邪気さで健やかにぬくぬくと寝ている。
どつき回したくなった。
「おい、口虚、お前本当は起きてるだろ?」
 ……………。
「くーちーこー」
 ……………。
「……仕方ないな」
 こちょこちょこちょ。
「うにゃっふぉい!」
 やっぱ起きてるじゃねぇか。
 布団ごと保健室のベッドから落下する口虚。足の裏を擽っただけだというのに、雷鳴に怯えた猫のような反応をする。ヅルンッと奇妙な音のあと、べチンッと痛そうな音。その瞬間には「ふぐぉうっ」という謎の悲鳴が上がったのだが、正直人間の出す声の類ではなかった。
 なんだ。落ちた衝撃で声帯が潰れたのか。むしろ生体が潰れてくれてもよかったのだけど。
 ベッドの脇で蹲っている口虚がゆっくりと起き上がる。身を捩っている様はまるで幼子だ。布団からむくりと頭を出して、野暮ったく荒れた自分の髪を手櫛で梳かす。寝癖であろうか、前髪まで芸術的なアーチを描いていて、彼女の額がよく見える。演技がかった猫みたいな欠伸のあと、口虚は布団に身を包んだまま、俺に言い放つ。
「おはよう、素敵な朝だね」
「その挨拶は本日二回目だからな。あと嘘をつくな、寝てなかったくせに」
「いやいや寝ていたよ」
「寝ている人間がちょっと擽られたくらいで起きるか」
「少しばかり敏感症でね。ところで正義。今は一体何時なのかな。君は二時間目の授業に遅刻することに淡い期待を抱いているようだけど、そうもいかないよ。一体君はこの学び舎に何をしにきたのかな。ほらほら。さっさと教室に戻るよ」
 ……やばい。
 どうしよう、俺。
 生まれて初めて女の子を殴りたくなってる。
 しかし、そう思ったのも束の間。瑣末たる時間の中での話へ変貌を遂げた。何故なら、俺の脳みそがそう愚痴るよりも先に、身体の方が勝手に動いていたからだ。
 俺は口虚の頬をびにょーんと引っ張った。
 おお、痛そうな顔をしているぞ。
 手を離してやりたくなるような目で睨んでくるが、悪いな、俺の手は理性に正直みたいだ……理性から加虐を求めるなんて、人間終わったよな……。
 なんとも言えない面持ちで手を離すと、口虚は悔しそうに頬を摩った。悪戯を見抜かれたときの小学生のような表情。ざまあみろと思って俺は鼻で笑う。
「ほら、行くぞ」
 未だ布団に包まったままの口虚にそう言うと、奴は「わかってる」と短く返し、立ち上がった。
 布団をいそいそと畳むようにベッドに戻す。自分のスリッパを探すような動作をしていたので、俺の足元にあった奴のスリッパを渡す。意地悪として顔面に投げつければよかったと思うのは、「ありがとう」という奴の笑顔を見た後だった。
 俺が踵を返し歩き出すと、シャーッとカーテンの開けられる音。後ろから聞こえるスリッパが織り成すパタパタという響きから、犬のように奴が追い掛けて来ているイメージが浮かんだ。
 保健室を出てそのまま教室に戻ろうと思っていたら、俺の後ろに健気にくっついていた筈の奴の足音が消えていた。白けたくらいに無闇な静けさなものだから、一つ物音がしなくなっただけでもすぐわかってしまう。目に見えた、ならぬ、耳に聞こえた、はっきりとした欠如だった。タン、と俺はスリッパを反響させて、その場で振り返る。
「おい口虚」
 口虚はガラガラと保健室のドアを閉めていた、そして背筋を伸ばして。
「ありがとうございました」
 折り鶴の首のような美しい角度で、誰もいるはずのない保健室に向かってお辞儀をした。流麗な髪は肩から滑り落ち、前へと垂れる。僅かに白いうなじがあらわになった。数瞬後、口虚は頭をあげて、俺の方へと向かってくる。
 ……ふむ。
「口虚、どういうつもりだ?」
「何がかな」
「今の礼だよ。中に誰もいないってのに。サボらせてもらったことへの感謝と謝罪のつもりか?」
「ふふふ、正義。何を言うかと思えば。私がそうするのが信じられないとでも皮肉るように……心外にも程があると言うものだよ。一つ教えてあげるよ、正義。人間は、誰も見ていないところでどれだけ正しくいられるかが大事なんだ」
 誰かが見てたって正しくなんかないくせに。俺は肩を竦めて吐息する。
「はいはい」
「むぅ、何かな。その返事は」
「別に」
 そう言うと奴は不機嫌そうに嘆息して、腰に手を宛がった。
「気になるじゃないか、気になりすぎて変になりそうだ」
「もうなってるよ」変人・口虚絵空サマ。「まず俺はだな……お前が善行をしている想像を、全く出来ないんだよ」
「見くびってくれるなよ正義。私は、道に迷った児童に出会ったら、ちゃんと交番まで送ってあげられる」
 そこは家まで送ってやれよ。
 中途半端なことをするな。
「ふふふ、こんな善行をこのご時世に見たことはあるかな? 正義。最近になっては、自動販売機に残っていたお金をネコババするのは当たり前だし、信号機を見ずに道路を渡る者もいる。ポイ捨て厳禁!≠フ看板はいつまで経っても無くならないし、それに比例でもしてるみたいに植木の上にはポリ袋やら空き缶やらが花のように咲いている。公園の滑り台落書きがあるのは常のことだし、路上にガムや唾や犬の糞が落ちていても誰も気にも留めない。最早――ああ、またか――の領域にまで達している。世知辛いね。塩辛い。きっとそれは誰かの涙の辛さに違いないよ。そして、そんな世でただ一人正しく生きているのがこの私、《正義の味方》、口虚絵空というわけさ」
 またそのガキ臭い嘘を。
 子供じみたレッテルを。
 お前は楽しげに言うんだな。
 逆上がりの出来た子供みたいな無邪気さで、褒めて褒めてー、と言わんばかりの無邪気な顔で、両手を宙に広げたまま俺をひしと見つめている。その瞳の色は、今まで見たことの無いような虹彩で、まさしく虹の彩り≠ニ呼ぶに相応しい色合いをしていた。俺は口虚のその色を美しいと思っていた。宇宙のような色をしているのにも関わらず、光の加減で薔薇色の煌きを帯び、叡智を湛えた深い海色を孕ませ、かと思うと金銀宝石を散りばめたように輝いて、今にも蕩けそうに潤んだ瞳はどの人類の色にも当てはまらないほど稀有だった。
 その色を見るとなんとなく、あの隕石落下事件を思い出す。
 今でも謎の多いあの事件。
 口虚の家に激突した隕石は、それはそれは美しい光を帯びていた。神々しく星屑をばら撒きながらとてつもないスピードで落下してくる。その光の周りには、シアンやゼニスブルーやマゼンダを混ぜ込んだ絵の具のようなにじみが生まれて、真っ暗な空を幻想的な絵画に仕上げていた。目に焼き付けたくなるほど綺麗で荘厳なのに、どこか哀愁すら窺える――そんな光は、まさしく口虚の瞳と同じ色をしていたのだ。
 口虚が元々、こんな目をしていたのかと聞かれれば、それは間違いなくノーだ。胸を張っていえる。こんな虹彩は有り得ない。
 あの隕石落下事件を調べている専門家の話では、隕石が直撃したことにより身体に妙な異常を来たした、というのが一番有力な見解らしい。身体だけでなく精神にも異常を来たしているというのなら、口虚の挙動にも頷ける。あの嘘つきが始まったのは、ちょうど事件後のことだった。
 しかし、あの事件についてはわかっていないことのほうが多いのだという。歴史上一番の天変地異で、その謎は言い迷うほど深まるばかり。
 そして何より、あの隕石落下の瞬間を、半分以上の人間が朧にしか覚えていない。まるでそこだけ記憶がくりぬかれたようで、隕石が落下したこともあの壮麗な光の尾も見たはずなのに、落下した衝撃だけは曖昧糢糊で、それ以前の記憶すらヴェールに包まれたかのようにぼんやりとしている。
 あの異常な事件が未だ不可解とされている理由はそこにあった。そして何より不可解な分子が今俺の目の前にいて、嬉々とした顔に埋め込まれた隕石のような瞳で俺を見つめている。あの事件を思い出すような、瞳で。
「もう、いいか?」
 無限大の刹那を黙考していた俺は、呆れ顔で口虚に呟く。
 もうそろそろ休み時間が終わる。次の授業は数学だ。あの意地の悪い先生のことだから、遅刻したとなれば解く問題全て解答させるに違いない。そしてもし間違えば、あの小憎らしい嫌味な溜息を一つも二つもお見舞いされるのは目に見えている。流石にそれは御免したい。
「もういいか、とはなんだ。せっかくこの私が話しているというのに」
「何様だよ」
「神様さ」
「嘘つくな」
 クツクツと小鳩のように口虚は笑う。
「神様になるのは簡単だよ、正義。人を救うか、人を殺すか、両極端まで行き果てれば、誰だって神になれるのさ」
「救うか殺すか。ね」
「救う≠アとは巣食う≠アとにも繋がってしまうがね。よく言うじゃないか――人の言うことは、信じなさい」
 信じる者は、巣食われる。
「でも何を信じるかで、救われる≠ゥ巣食われる≠ゥが大きく左右される。そしてこの世界中約七十億人ほとんどの人間は間違いなく後者だ。完全に巣食われている。そしてそれに気付きもしない。皆がみんな信じきって、少しも疑うことを知らない」口虚は強く区切って言う。「私一人を、除いてね」
 俺は歩みはじめた。
 もう構ってられない。
 口虚を視界に入れないような速さで、俺は教室へと戻ろうとする。
 しかし口虚もめげない。
 いつものように無垢に無邪気に、俺の隣で肩を並べる。いつもより速いせいか、無理して歩幅を合わせているようで、呼吸が僅かに乱れている。髪だってゆらゆらと暴れて奴の肩を縦横無尽していた。
「私が君たちを救ってあげるんだ。だから、そういう意味合いにおいては、私は神様と言えるだろう?」
 口虚は言葉の停滞を許さない。馬鹿馬鹿しい詭弁方便を舌に乗せて、声を孕ませながら俺へと投げかける。その言葉は否が応でも鼓膜を揺らし、俺の脳へと刻み付けてくる。そしてそれは脳内でビブラートするようにリピートされ、消える術を持たなかった。
 鬱陶しくてたまらない。俺は静かに目を伏せる。
「神様、とは――すこうし言い回しが違うのかもしれないね。《正義の味方》らしくない。私は創造主とは違うからね。七日間で世界を作る技量は残念ながら私にはないのだよ。うん……そうだね。創造主になれないのなら――――救世主はどうだろう」
 クライスト。
 キリスト。
 十二月二十五日に生誕したイエス・キリスト。
 十二月二十五日――聖夜。
 まさにその日、《正義の味方》として産声をあげた、口虚絵空。
「わかったわかった。お前は救世主だクライストだ。もういいだろ、それで」
「適当に返してくれるな正義。私は君にそんな風にあしらわれると、どうも悲しくてしょうがないんだ」
 そんな言葉を奴は平然として俺に言う。またか、と思った。お前のその言葉に俺がどんな思いをしているかも知らないで、お前のその言葉に俺がどれだけ耐えきれないでいるか知らないで、まるで赤子にでも囁くように、奴は慈愛の声をその舌で歌った。
「言った筈だよ、君は私にとって、何よりも誰よりも愛しい存在だ。私だって心が無いわけじゃない。愛しい君にあしらわれただけで、心は張り裂けそうに傷んでいる」
 そんな言葉を、奴は超然として俺に言う。
「君に嫌われてしまえば、私はきっと、息をするだけで傷つくことが出来るだろうね」
 そんな言葉を、奴は黙然として俺に言う。


 言う。
 言えてしまうのだ。
 ミエミエの嘘を。


 無益で無意味で無差別な嘘を、奴は毎日毎日俺に言う。
 好きだと、愛していると、甘く蕩けるような褒舌で。
 清らかな笑顔を浮かべて、絡めとろうとする。
 足水は言った――ずっと口虚さんの嘘に付き合い続けちゃっていいの?
 俺はその答えを未だに見つけ出せずにいる。嘘も本当も何もかもが取り巻いて、わけがわらなくなって倒錯する。
「だから、せめて私を信じてほしい。私は君を裏切らない。愛しい君を、誰よりも何よりも優先する。君の不利になるようなことも、君の不義になるようなこともなに一つせず、敵になることもなく居続けると約束しよう。巣食われた君を救うため、私は一肌も人肌も脱いでみせるから。正義」
 ああ。そうそう。一つ、言わなきゃいけないことを忘れていた。
 口虚は静かに微笑んで。
「何故なら私は、《正義の味方》だからね」



 俺は、口虚絵空が嫌いだ。



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