05


 塗装も若干剥がれてボロくなったスライド式のドアには気をつけて、虫歯は風の子元気の子≠ニか書かれた突っ込みどころ満載の歯医者の広告や、なんでそんなことになるまで放っておいたんだと苦渋の顔を浮かべざるを得ない水虫のポスターなんかが貼られたりしている。そしてそのドアの小さな窓には、大きく御用の際は二階職員室まで≠ニ癖のある達筆で貼り紙されていた。
 ふむ。こうして見ると、やはり文字というのはある種の芸術なのだなと感嘆してしまう。ちなみに、俺の悪筆は奇術である。たかが奇術であり、ただの記述だ。
「先生を呼んでくるからちょっと待ってろ」
 俺がそう言うと、口虚は有るか無きかの曖昧な苦笑を浮かべる。
 小さく「んー」と呟いてから、奴は俺に言う。
「正義になされるがまま着いてきたのだが、まさかこんなところへ誘われるとは思ってもみなかったよ」
「じゃあどこに行くつもりだったんだ」
「そんなのはどこだっていい」
 どっちだよ。
「私が言いたいのはね、正義。私は今どこも悪くないと言うことだよ」
 奴は腕を広げる。葉も全て落ちてしまい真っ白な雪で肉付けされた程度の痩せっぽっちのか細い木枝のような腕だった。
「頭痛もなければ吐き気もない。至って良好。健康体そのものだ。つまり私は、保健室にお世話になるようなことは何もないと言っているんだ。まあ、君に叩かれたこの頬はまだ少しぴりぴりするけど、そんなことは気にしてほしくない」
「大丈夫だ。全然気にしてないぞ」
「……それはそれで悲しいな……まあいいが。とにかくだ、正義。何故君は私をここに連れてきたのかな?」
 首を傾げて問いかけてきた。
 俺は視線を彷徨わせる。でも行き場がなくて今にも窒息寸前。苦しみは苦汁となって口の中にめいっぱい広がった。何を返せば良いのか迷いに迷って、結局はただの沈黙を返答へと昇華させる。
 口虚はそれ以上を求めない。ただ少しだけ困ったように笑い、その真珠みたいな歯を薄く煌かせた。
「じゃあ呼んでくる。ここにいろよ」
 俺がそういうと、奴は「うん」と言いながら手を振った。
 俺は何も返さなかった。
 保健室について先生を呼ぶと、事の成り行きを察したかのような声と表情で「いつもお疲れ様」と俺に言う。
 同情するならどうにかしろ。
 俺の訴えは舌に飛び乗ることなく溜息として空気中へ流れた。





「お疲れさん、委員長様」
 それが、美術室に来て住人が俺へと託宣した第一声だった。俺は片手を上げて宥めるように振ってみせる。
 先生を連れて保健室へ戻り、そのまま口虚にベッドを貸すように頼み込んだのだが、口虚は最後まで「解せない」と言いながら唇を尖らせていた。そこからなんとか説き伏せるのにそれなりの時間を要してしまったわけだが。
 正直、今口虚をクラスメイトに送り出すのは危険のほかならなかった。妙な刺激剤にも起爆剤にもなるし、これ以上皆を動揺させたくない。口虚と足水の、豆乳を撒き散らしたような居心地の悪い言い合いを聞くのも真っ平だった。だからここはひとまずお互いの為に、口虚を保健室へ留めさせることを選んだのだ。
 今、美術の授業では木片パズルを作っている。あらかじめ用意された木板を切断してピースやら土台やらを作っていくなんてことのない作業。
 美術室は立地条件の悪さからか、温度計に表示された数字よりも体感温度が少しだけ低い。三つストーブが用意されているとはいえ、職権乱用も甚だしく先生が一つを独占してしまっていて、実質その温風にありつける面積はかなり少ない。俺は木片を紙やすりで均しながら、住人の近くにあるストーブに凍えきった足を投げ出し、ブリキ色をしたゴミ箱に木屑を落としながら住人の言葉を聞いた。
 住人はというともう既に塗装作業にまで行き着いていて、ありとあらゆる魚の形のピースに極彩色での着色に従事している。奴の栄養価の高そうな大きな瞳は俺を貫きぽってりした唇は厭らしく下弦の月を描いている。
「言ってくれるよな、ほんと、どうせなら助けてくれよ」
「はははっ、そうは言っても正義。口虚だって結構可愛らしい顔してんだし、実は役得だったりするんじゃねえの?」
「馬鹿言わないで」
 住人の隣で、木片に彫刻刀を突き立てて綿密な作業をしていた足水が、今にも噛み付きそうな声音で呟いた。アイスキャンディーをがりがり齧る子供のような表情だ。教室での自分の行いを反省するような、それでも、自分の意思を譲れないような、そんな様々な感情がごった返しになった表情。
 住人は肩を竦める。
 学級委員長である本真正義と副委員長である足水日踏は、《可哀想》な問題児である口虚絵空のお守りなんていう、気が遠くなるどころか失くなって消えてしまいそうな面倒極まりないことを、担任教師直々に命令されていた。口虚がクラスに馴染めるように、なんとか取り計らえとお達し。俺と足水――というか大部分は俺が、その義務に粉骨砕身の姿勢で全うしてきた。
 いくら学級の為とは言え、そんな行為を俺と足水は忌諱したし、足水に至っては放棄しているといっても過言ではない独自の体勢で口虚に挑んでいる。馬が合わないなんてものじゃない。口虚の異常性を、足水は嫌っていた。だから今のような反応は当たり前といえば当たり前かもしれない。足水はごく当たり前の拒絶反応を奴にしているのだ。
「あの口虚さんの面倒を見なきゃいけないんだよ? それがどんなに大変なことか海野くんはわかってる?」
「悪かった悪かった、失言だった」
 若干焦り気味に住人は言う。おどけた風にも見えた。
 足水はと言うと、その住人をちらりと横目で見て、唇をきつく縛って作業に向き直る。
「……ほんと、ごめんね、本真くん」
「あ?」
 あまりに小さく低くて最初は誰の声かがわからなかった。でも振り返ることなくそれは私だ≠ニ、足水は女子らしい背中で逞しく語っている。
「さっきの教室のことか?」
「うん。カッとなってムキになっちゃって……私、自分が恥ずかしい」
 顔を俯かせて声だって弱々しい。副委員長の面影など皆無だ。多分、相当気にしてたんだろうな。こいつはそういう人間だし。責任感が強く、だけどかなりの頑固者で、自分の信念を曲げず、その為に努力も反省も出来るよく出来た人間。惰性でやってる俺なんかよりも、よっぽど学級委員長に相応しい。
 こいつはこいつなりに、クラスメイトの意見を尊重して、異議申し立てるための第一線に立ったのだ。女子だというのに、という言葉は差別的だから使わないが、本当に誇るべき精神だと思う。
「だから気にすんなって、足水。あれはちょっと言い過ぎただけで、お前がクラスメイトを庇ったのは誇らしい行動だよ。お前だってお前なりに正しかったんだ」
 そこまで言って、やっと足水は振り返る。真綿のように柔和なはにかみを見せた。
 ちょっとは気を軽くしてやれたようだ。
「それに、どう考えたって今回は口虚に原因があるからな」
 その名前を出すと、また足水の顔は曇る。ああ、タイミングが悪かったかもしれないな。俺は心中で肩を落とす。
「私はね、本真くん」硬質で堅実で、ダイヤモンドみたいなトーンだ、その煌めきの下では、轟々と火炎が渦巻いている。「口虚さんの、ああいうところが許せないんだよね」
 俺は口を噤む。
 ――――口虚絵空は《可哀相》だ。
 親を亡くし。
 家も失くし。
 テレビなんかでよくある不幸な被害者。
 寂しくて。
 構ってほしくて。
 嘘を吐き毒を吐き。
 簡単に人間を傷付けることが出来て、そしてそれを悪いとも思っていない態度をする。
 でも、誰もが思うのだ。
 しょうがない
 そんな《可哀相》な子なんだから、しょうがない
「《可哀相》っていうだけで、全てを許すようなことはしたくないし、していいわけがない。そうでしょ?」
 でも――足水は、そうじゃない、と。
 そんなことは許さないし、許していいわけがない、と。
「だから、先生が口虚さんを特別扱いするのもおかしいと思う。あの子に馴染んでほしいなら、あの子が努力をすべきなんだよ。少なくとも、私はそう思ってる」
 足水は正論だった。
 クラスメイトを傷付けておいて、《可哀相》だから、と片付けるのは間違っている、と。
 そんなの嘘だ、と。
 足水は彫刻刀をガッチリと握り直す。白鳥みたいに優美で細い手がギリリと圧で赤くなる。俺はその赤い指を見つめたままやすりがけに勤しんだ。木屑が鬱陶しく学ランの図星にかかる。真っ黒な生地にフケみたいな粉がびっちりと着いていた。パンパンと払い落として、ついでに手についたやつも拭い取る。
「本真くんはすごいね」
「は?」
 いきなりの足水の言葉に俺は本気で眉を寄せた。それは住人も同じなようで、絵筆を持ったまま足水を見つめている。でもその視線は俺の感情とは少しだけ違い、足水の言い分に賛成の一票を投じそうな気迫が見られた。
 俺だけがハブられている状態だ。
 それはそうと住人。
 お前が塗装の際避けていたであろう箇所に、絵筆から滴った絵の具が落ちてるんだが。
「私ずっと思ってたよ。よく本真くんは我慢出来るなあ、って」目線を彫刻作業から外すことは無い。「私には無理だ」足水は目を伏せて、続ける。「私は……口虚さんが嫌らしくて仕方ない」
 足水は率直に言う。
 率直で実直で硬直で。
 驚くほど素直で着飾ることを知らない。
 正しくて糾しい。
 それはときに残酷で、ときに魅力であるけれど、ある種の崇高観念を抱く真っ直ぐさだった。



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