03


 視界でざわざわしているクラスメイトの姿がやけにチラついて鬱陶しい。豆乳を一気に飲み干したときみたいなぼやぼやした後味が、感情となって沈殿する。そのときの俺の表情に、住人は苦笑した。
「大変だね。委員長様も」
「も=H 何を言うかと思えば、は≠フ間違いだろ? 尻拭いも後始末も、何から何まで俺に押し付けやがるんだから」
「違ぇねえ………おっと、そろそろくるんじゃねえか?」
 住人は眼の照準を口虚に合わせたまま、口元に手を当てて俺に擦り寄ってくる。その目の先は口虚絵空その人。さっきまでの弱々しい態度は、完璧に払拭されていた。
 口虚はいきなりガタッと音を立てて席を立つ。
 嫌な予感しかしなかった。
 クラスメイトはびくっと肩を震わせる。眠っていた恐竜が起き上がったときのような、そんな眼差しを口虚に向けていた。奴はあたりを一度ぐるっと見回した。肩の下のあたりで黒い毛先は踊って、飴玉の眼球は爛々と、虹彩を強調させるように輝いている。この瞳に、俺は酷く見覚えがあった。見覚えなんて可愛らしく生易しいものじゃない。俺はこのアクションにより、毎度毎度身震いするような目に合ってきたのだ。今は鳥肌しか立たない。まあ、腹なら立つけど。
 思いっきり息を吸う動作。
 奴は肩を揺らした。
 星屑を飛ばすような、幼気溢れる動作だった。
 呼吸により、華奢な体は一瞬浮いて。
 そして。
 はち切れるくらいに甲高い無邪気な声で、その言葉を教室中に轟かせる。

「君達の頭はおかしいよ!」

 鼓膜と意識に、牙を突き立てられたような感覚。
 俺の目は熱を帯びて、口虚だけに注がれる。
 ――――あいつ、またやりやがった。
 奥歯をギリリと擦り鳴らして、ギュッと強く拳を握った。
 俺は奴を見つめるも、奴は俺を見つめない。奇怪ゆえの清々しい無垢さで、クラス中を相手にしていた。全神経を開けっ放しにして、数多の矢印を一人で受け止める。
 クラス中は、奴を見つめていた。
 陰険で獰猛で、今にも噛み付きそうな目つき。
 いや――――きっと、噛み付くわけがない。
 陰険さよりも。
 獰猛さよりも。
 それを傲慢に押し退けている畏怖の念。
 邪魔者を見るような、鋭い目つき。
 心底、奴を危険視して――――気違い者を見るように、遠巻いている。
「そう。おかしいんだ、君達は!」
 また、口虚は言い放った。さっきよりも落ち着いた声音だった。鈴みたいに澄んでいて、たとえどこの誰が誰と話していても、無関係に無節操に手繰り寄せられてしまう。そんな優雅にも毒素の強い声が、教室中にじりじりと広がっていく。
「私は《正義の味方》として、君達にそれを教える義務がある」
「………口虚、さん?」
 クラスの女子が、力無さげに呟いた。今にも悲鳴をあげそうな頼りなさ。小さく震える手を、胸の前で握りしめている。
 ギュンッ、と口虚はその彼女に向き直った。女子は肩を揺らす。向き直った対象でない俺ですら、奴の動作に反応してしまった。あまりにも無闇に早くて暴力的で、そして技巧的な動作だったから。しかし、口虚はその女子を指差して、凄まじい言葉を投擲する。微塵の悪意の砂塵の悪性もない、それでも最高級の皮肉を込めたような、そんな厭らしい言葉を。

「君は、雌豚だ」

 女子は、顔を歪めた。
 当然の反応だった。
「よくそんな顔で表を歩けるね、私なら絶対に無理だよ」
「なっ………」
「ああ、鼻息を荒くしないでくれ。見た目がグロいよ。ちょっと気持ち悪い」
 うっ、と手を引っ込めるような動作をした口虚に、クラス中が目を尖らせた。嫌悪という嫌悪が、ありありと浮かんでいる。
「それに、そこの君の足は大根みたいだ。自分で嫌にならないのかい? 今舌打ちした君だってそんなにぼったくなって……ああ、今教室を出ようとしている君。君は酷い臭いがする。蝿だって尻尾を巻いて逃げそうだ、尻尾があればの話だけどね……君達は、君達の身のそれを平然と受け入れ疑問を抱かない。私にはそれが信じられない」
 無邪気な冷罵は停滞しそうにない。踊るように軽やかな手振りで口虚は言う。
「そんな自身の醜さを、君達は不思議には思わないのかい?」
 口虚の無慈悲な言葉に、副委員長の足水日踏は黙っちゃいなかった。
 この表現は多少正確さを欠くかもしれない。黙っちゃいなかったのは彼女自身ではなく彼女が座っていた席の机だった。彼女の硬質そうな細っこい手で真上からビンタされたのだ。彼女の席は只今住人により絶賛レンタル中なわけで、つまりあの机は別の誰かのものである。
 最有力候補は一番始めに口虚に詰られた女子生徒かな。眉の引き攣りを隠しきれていなかったし。
 足水は正義感と義務感でコーティングされた嫌悪感を、出し惜しむことなく剥き出しにする。
「いい加減にしてよ口虚さん」
 張り詰めた糸みたいに、その気になれば、切断することだって出来そうな鋭利が。
 責めるように。
 攻めるように。
 口虚へと向かっていく。
「それはあの子達に対する冒涜でしかないよ。三人に謝って」
「何故謝らなければならないのかな? 私は《本当》のことを言ったまでだよ」
 清涼感たっぷりに、余裕の態度を崩さない口虚。
 しかし、足水は口虚の言葉を鼻で笑う。
 言葉というか、単語だった。
 明らかに、あからさま、本当≠ニいう単語に反応していた。
 そして、肩を落とすようにして、奴を小さく嘲ける。
「《嘘つき》のくせに」
 口虚は唇を薄く歪めた。
「口虚さん、いくら貴女が《可哀相な子》だからって、そんなことが許されると思ってるの?」
「許し? なんのことかな。私はただ君達に教えてあげただけだよ」
「人の悪口を言っておいて、よくそんなことが言えるね」足水は続ける。「確かに口虚さんは、……色々大変だと思う。数年前の隕石落下で、いっぱい大変な目に合ったんだと思う。だけどね、こういう形で私たちに不満をぶつけられても迷惑なだけなの。構って貰いたくて、駄々をこねる子供みたい。ねえ、知ってた? 《可哀相》に甘えてる口虚さんは、本当は全然可哀相なんかじゃくって……少なくともこの教室じゃ、一番の加害者なんだよ」
 足水のその言葉に相乗しようと、クラス中が口虚を睨んだ。
 嫌な一致団結の仕方だった。
 しかも過去最高硬度。
 まさしくアイロニーだよ畜生。
 それでも、やはりアイロニーなくらい、口虚は怯まない。怯える様子は全くない。ぱちぱちと、旋風を起こしそうな長い睫毛を瞬かせている。実際起きなくてよかった。現在進行形で教室には大荒れ模様。これ以上災害を投下させる必要はない。
 口虚は首を傾げて、足水に言い返す。
「私は別に、自分を《可哀相》だとは思ってないよ。確かに隕石が直撃して、家も服も教科書もなくなってしまったけれど、親戚の家に引き取られたし、私はちっとも………」
「どうだか」
 心底口虚を軽蔑するかのような冷徹な声。目に喧しいくらいのそれは、あからさまに牙を剥いている。意味が分からない、というふうに、軽く首を傾げる口虚に対し、足水は「嘘つきのくせに」と低く言った。呆れすら含んだ声音だ。
 俺は何かを察知して「待てよ」と呟くが、それは反響するだけで浸透はしなかった。波紋にすらならずに、クラスメイトという静寂の雑踏により消されていく。いくら俺の呟きが小さくたって、こんな閑静な場で聞こえないわけがない。でも、今立ち込めている空気が、状況の停滞を許さなかった。教室が、俺の言葉を拒んだのだ。
「嘘つきで、構ってちゃんで、ほんっとヒドい人」
 その言葉は、現実よりも残酷に凄惨に思われた。
 そう言われている口虚も。
 そして言っている足水も。
「……何を言っているのかな?」
「だって口虚さん。オカシーんだもん」くすくすくすくす。「家とか教科書よりも、もっと嫌なコトあったくせに」
 確実にえぐってやろうと、足水は目を細める。
「――口虚さん、ご両親が亡くなったんじゃないの」
 俺は唇をきつく噛み締める。
 ドドドドッ、と、小刻みに高くなる血潮の熱。
 今までよりずっと強く、拳を握った。
 ――――やりすぎだ、足水。
 足水は勝ち誇ったときみたいな、自尊心と加虐心に溢れた顔をしていた。目はじわりと熱を帯びて、我を失っているようにも見える。
 いつもの足水らしくない足水だった。
 正義感が強く、高潔で気高く、触れるのも忍ばれるような足水日踏は、今や見る影も無い。口虚絵空の汚染≠フ餌食になったようにも見えた。クラスメイトも不安げに、それでもさっきよりは清涼感溢れる表情を浮かべている。不満だらけだった空気を押し戻したみたいな、今の状況を気に入ったみたいな、そんな身勝手な表情だった。



prevnext

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -