01


「どうせなら、空の色が紫色だったらいいのにな。そうしたら実に私好みだし、メルヘンチックでとても素敵だ」
 口虚絵空は、変わった奴だった。
「いや、いっそ水玉模様でも可愛いね。チェック柄はファンシーすぎるが、私としては悪くない。君はどう思うかな? 本真正義」
 不気味なまでにチカチカと光る価値観は、宝石のようにも刃物のようにも見える。奴は首を傾げ、にんまりと笑った。小憎らしいくらいに整った顔立ちだった。
 羽根箒みたいな長い睫毛。
 純真そうに煌めくびいどろの瞳。
 絹糸よりも繊細で艶のある黒髪。
 その華奢な身を包む黒いセーラー服は、この高校の誰よりも似合っているように見えるし、事実奴より着こなしている生徒などいないだろう。どこからどう見たって、妖精のように愛らしい顔をした華奢な少女だった。でも、そんなお伽話よろしくの美貌を有したところで、その言動の奇怪さは紛らわせそうにない。意味不明なことで不可解を宣って、そして愉快げに潤沢に微笑む――本当に変わった奴である。
 変わった≠ネんていう陳腐でチープな言葉じゃ上手く言い表せないくらいだ。目の前の奴は、本当の本当に、奇異たる人間だった。もしかすると、俺の生涯全部を懸けたところで、口虚絵空の本質を言い表すことは不可能なのかもしれない。きっと流れ星に三度自分の願いを唱えることの方が簡単な筈だ。ユニコーンを見つけて来いだとか、人魚の歌声を聞かせてみろだとか、普通に考えても頭がおかしいとしか思えない要求だって、それにくらべれば酷く容易に思えてくる。それこそ、この心臓が息の根を止めるまでの間では、奴を的確に表現出来る言葉なんて見つけられないに違いない。
 無闇な違和と不和を兼ね備えた、形容し難いパーソナリティ。
 酷く不気味な目の前の奴に、吐き気すら催しそうになる。
 俺の沈黙を物ともせず、奴は会話を続ける。
 もし空が虹色なら。
 幾何学模様なら。
 あるいは花柄なら。
 いっそ鏡のようだったら――――と。
 無邪気に無垢に無鉄砲に。
 御伽噺にときめく夢見る少女のような表情で。
 俺は奴の会話に耳を傾けながら、小さく指の腹を擦った。気付かない間に爪は少し伸びている。まるで女みたいだ。
 腰掛けている教室の椅子はまだ若干の冷たさを有している。荷物を撒き散らかした机上の方が、マフラーがある分まだ暖かそうだった。そのまま発熱してストーブになればいいのに、なんて。無機物に期待してるなんてざまあないよな。とうとう寒さで脳みそが腐ったか。俺は自嘲したふうに僅かに目を伏せる。
 すると、閉じかけた視界の僅かな隙間に奴の姿が健気にしがみついてきた。先程の奴の言葉が、凍えきってもげそうな耳から、発酵しだした脳へ浸透する。無為の思考に半永久の刹那ダイブしていた俺は、窓硝子にひりついた白い靄を片隅に、ぞんざいな態度で奴に言い放つ。
「……また意味のわからんことを言うんだな、口虚」
「なんだい、正義。ただ私は理想を述べただけだというのに。君は物事を見抜くときに、まず意味を認識しなければそれを理解出来ないのかな?」
「俺が言いたいのはお前の言葉の突拍子の無さだよ。それに物事を見抜くときには、意味って判断材料は必要不可欠だろ?」
「意味なんてものは必要ないよ。経験と推測が必須なだけさ」
 口虚は楽しげに目を細めて薄い唇を吊り上げた。三日月を横倒しにしたようなそれは夜空とは正反対の白い柔肌の上で、愉快という煌めきを放っている。
「例えば――例えばだよ。辞書で正直≠索引したとしようか。おっと、漢字辞典でも和英辞典でもないよ? 君の私物で言うならば広辞苑、私ならば……忘れたね、スーパー大辞林だった気もするが……まあとにかく辞書だよ。辞書で正直≠ニ調べたら、きっとそこには嘘をつかないこと≠ニ出る筈だ」
 やけに確信的だな。
 まるで試したかのような口ぶりだ。
「実際、昨日私はそう出たよ」
 試したみたいだった。
 学芸の前にはリハーサルを怠らないタイプの人間だな、この似非真面目が。
 そこで一度、口虚は俺に目配せする。小宇宙のような不思議な色をした形の良い瞳が、俺をじっと見つめている。見ているだけでぐるぐると呑まれそうな煌きを放っていた。多分、続けて良いか、と確認しているのだろう。無意味に律儀な奴だな。
 どうでもいい。
 早く終わらせろ。
 俺が溜息混じりに肩を竦めると、口虚は手振りを交えて再開する。
「では次に嘘つき≠ニ調べてみようか。嘘つき=c…うん。実に忌避たる語句だね。身震いしてしまうよ。人類の罪であり罰であり必然でもあるのが小憎らしいわけだけれど…………おっと、話が逸れてしまった。そう、嘘つき≠ニ調べてみてほしい。忌避たる言葉。そして、そこにはきっと正直でないこと≠ニいう意味が含まれるに違いない。他にも人を騙すこと≠竍本意でないことを言うこと≠ネどレパートリーは広いだろうね。けれどその中には必ず、正直でないこと≠ニ出るのさ」
「……………」
「――わかるかい? 例示した正直≠ニ嘘つき≠辞書で意味を調べても、意味なんてものは出てこない。ただあるのは事実だけだ。経験により推測され判断された、意味なき事実だけなんだよ。どんなに調べたって《それと真逆の意味プラス否定》にしか突き当たらない。意味なんてものはない。今まで生きてきて得られたものだけで認識している当たり前に過ぎないんだよ。ほら、どうかな。意味なんてものは、いらないだろう?」
 俺は感心してつむじ風みたいな吐息を漏らす。
 よくもまあ、そんなガラクタ寸前レベルのどうでもいい話を、滔々と、それも微塵の恥ずかしげもなく、俺に語れたものだ。俺だったら羞恥心で身が焦げるね。顔から火が出てたっておかしくない。口から出るかはわからいけどな、俺ドラゴンじゃないし。
「はぁん。なるほどわからんな。わかったことなんて、むしろ口虚絵空という存在こそいらないということぐらいだよ」
「これは手厳しい。君にそんなことを言われると、私は未だかつてなく傷付いてしまうよ」
 君の言葉は、誰よりも強く深く、私の心に響くからね――――そう、口虚は軽やかに苦笑した。
 冬。十二月半ばから下旬に片足突っ込んだくらいの時期の、陽のまばゆさと決別した鉛染みる朝。
家から徒歩二十分。自転車なら十分。ただし、バスを使えば四十分はかかる意味の分からない魔性の通学路を無難に自転車で越え、高校の門を肌寒さからくる重い足取りでえいやとくぐり、俺が自分のクラスに到着したときには――――もう口虚は席についていた。
 一瞬人形と見紛うほどの静寂な精緻を体中に満遍なく貼り付けて、模範生として学校パンフレットに載せられそうな姿勢をしたまま、ただじっとこちらを見つめている。
 正直絶句した。委員長を任されていて、朝一番には日誌を取るため職員室に漕ぎ出さなければならないこの俺よりも先に、あの変人奇人怪人口虚絵空が早く教室に着いていることが、俺は不思議で堪らなかった。
 いつもは遅刻ぎりぎりに来るくせに。
 予測も予知も予告もない人間だな。
 ……ああ、でも……確か去年の冬も、そうだった気がする。いつになく奴は、早めに登校しだしていた。丁度今くらいの時期に。その前も、その前の年も、奴は決まりごとのように、誰よりも先に学校に来ていたような……。
 そんなことを頭の端で考えていると、口虚は「ああ!」と肩を跳ねさた。
「危ない危ない。正義。朝の挨拶がまだだったね。おはよう。今日も一日学生の本分を齷齪しながら頑張ろうではないか」
 どうでもいいことに重きを置く人間だ。今時挨拶し忘れたからって焦るような女子高生、中々いないぞ。そんな折り目正しさに見惚れてしまうという虚言を心中でにょきにょきさせつつ、俺は気だるげに言葉を返す。
「どうもどうもご丁寧に」
「ふふふ。……私もそろそろ例の《期限》が近いからね。学生の本分片手間、《正義の味方》本分にも勤しまなければならないのだよ」
 ――ああ。
 そこで俺は思い出した。何故この時期、口虚が異常なまでに早く登校の義務を全うするのか。



****|next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -