04


 信号機の前で俺達は一時停止をする。生憎の赤信号に俺は少々げんなりとした。ジャバジャバと行き交う車が大粒のドロップを弾く。まるで地雷みたいだ。雲はまだどんよりとしていて、まだまだ降り続けそうだった。天気予報でも今日は夜までの傘マークを示していたし、冗談でもないかぎりきっと晴れることはないだろう。あのお天気おねーさんが口虚だったらどんなによかったか。
「……もしそんな世界が存在するなら、きっと相当薄気味悪いんだろうな」
 さっきの口虚の言う空想を思い描きながら、俺は吐き捨てるようにそう呟いた。それに口虚は苦笑して、そこからどんどん枝を伸ばすように語る。
「情景の点だけをあげれば天国に近いよね。ピンクや山吹にグラデーションする空だとかはさ」
「お前の言う話は一々根も葉も無い」
「なんの。花も実もあるじゃないか」
「でも、それは天国≠ネんだろ?」
 死んで花実が咲くものか。
「ふふふ、そうだね。死んでしまったら元も子もないからね。君の言うとおりだ」
 口虚は暖色を帯びた笑みを浮かべる。でもその笑みは苦笑に近くて、まるでしゅわしゅわしてない炭酸水みたいだった。少しだけ覗かせた歯が真珠みたいに光る。俺はその光をぼんやりと見つめながら口虚の言葉を反復させた。
 死んでしまったら、元も子もない。
 そう。でも。
 死んでしまった。
 口虚の両親は。
 十二月、世界を震撼させた、あの隕石落下事件の日に。
 エナメルみたいに優雅な艶を滲ませ、空に極彩色で一筆書きし、真鍮の煌きで尾を引いた――あの隕石は、跡形もなく口虚の両親の身体を滅ぼした。だから、あの二人に正規の意味での墓はない。葬式を開いたのに遺体はなかった。家も、親も、真の意味で跡形もなく失っている。
 今さっきの俺の言い回しは、もしかしたら辛辣の域に片足ほど突っ込んでいたのではないだろうか。急に背筋が凍った。もしかしたら、有り得ない空を妄想しながら、口虚は両親のことを考えていたのかもしれない。天国に近いと称した、笑っちゃうくらいおかしな空模様。
 水玉模様だったら。チェック柄だったら。もしくは虹色なら。幾何学模様なら。あるいは花柄なら。鏡のようだったら――――いいのに。
 天国なら。
 二人に、会えるのに。
「悪かったな」
「えへ?」
 口虚は何とも言えぬ芸術的な間抜け顔をした。ちょっとばかりの茶目っけにかまけてアホっぽく顔を歪ませている。その美貌がなければよほどの不細工と認定したであろう、そんな間抜け面だった。
「君は何か、私に謝らなければならないようなことをしたのかい?」
「え、あ、いや」
 俺はしどろもどろになる。口虚は遠慮なしに、顔をずいっと近づけてきた。
 ぞっとするほど可憐なその顔が目と鼻の先にある。熱っぽい吐息や息遣いまで肌で感じられる。ふと、口虚の、あの甘酸っぱくて芳醇な匂いが鼻腔を突いた。居心地が悪くなった俺は、フイと視線を合わせないよう移す。
「なんだね、本真正義。君はこの私、口虚絵空に後ろめたいことでもあるというのか」
「いや、それは」
「昨日、保健室で寝ている間に私の初ちゅーを奪ったことについては、私も満更じゃなかったから気にしなくていいよ」
「いや、奪ってない、てゆうか世界一いらないお前の初ちゅーなんか。しかも何事実っぽく頬を赤らめてるんだ嘘だろ変な事実を捏造するな」
「嘘をつかないでくれよ。確かに私は聞いたんだよ。うふふっ……思い出しても照れくさくなるなあ!」
「しかもなにときめいてるんだよ。どうせお前の夢だとか言うオチだろ」
「夢を夢のままで終わらせないで!」
「気持ち悪い顔して近づいてくるなその手を離せ!」
 俺の腰に腕を回してきた口虚に勢いよくチョップする。奴はカエルが潰れたときみたいな「ふぐしゅぅ!」という呻き声をあげて沈没した。些か言動が荒くなったが仕方あるまい。俺は深く溜息をついてその場に栞を挟んだ。二度と開けられことがないと祈っておく。
 しかし口虚は空気が読めない。無邪気な眼差しで「で。何を謝ったのかな」と再度尋ねてくる。その声は質素淡白で、哀愁を孕んだ潤みも、憎悪を孕んだ棘もない。純粋な疑問として、裏の感情なく俺に尋ねていることだった。
 口虚はどうにもずるい。
 自分は淡々と嘘をつくくせに。
 悪意なく。
 悪気なく。
 疚しさもなにもなく。
 誑かすように騙るくせに。
 その星屑みたいな無邪気な目で、相手に嘘をつけなくする。
 哀しい宇宙の目で、俺を絡め取る。真実を零さない。探究心を打ち捨てない。無邪気に無垢に、俺を見つめている。
 俺は傘をギュッと握った。まるで防衛本能を剥き出しにしている赤ん坊のようだ。鎖国的だった唇を薄く開いて、自分でも驚くくらいの弱々しい声で、口虚に呟く。
「お前の両親が死んだって言うのに、不謹慎な話をしたと思って」
 口虚は打ち震えるように肩を震わせて目を見開いた。その見開いた顔はまるで心臓を撃ち抜かれた天使のようだった。眉尻は下り、薄い唇はキュッと縛られ、目元はかすかに潤んでいた。世界一の凄惨を一身に背負いだような表情で、口虚はふるふると首を振り「死んでないもん」と言う。
「皆して、なんなの。私の両親は死んでいないよ。何度も何度も言っているじゃないか。君まで一体何なんだ。ずっとずっと、私は言ってるのに。死んでないって。皆には、見えてないだけだって」
 足水に言ったような壊れた弁明を、切なげな声で響かせた。
 その姿は痛々しくらいまっすぐで。
 そしてまっすぐに痛々しい。
 口虚はまた嘘をつく。誰かを傷つけるためじゃない、自分を守るための《可哀想》な嘘だった。
 かける言葉も見つからなかった俺は「そうか、悪いな」と嘘をつく。さっきの謝罪とは違う、空っぽの謝罪だった。その中にはすまないと思うような感情は露ほどもなくで、ただ同情と憐憫でいっぱいになったケーキみたいなものだった。
 でも奴はその甘味に「いいんだよ、わかってくれたなら」と返した。
 わかってくれたなら。
 そう言って、淡い泡沫のように微笑んだ《嘘つき》――口虚絵空。
「でも、そろそろ行動を起こさなきゃね」
 大好きな飴を噛み砕いたような顔をして、口虚は口元に手をやった。その手つきは鮮やかで、でも、台本に書いてあるそのままを演じているみたいなあざとさがあった。奴はゆっくりと、人差し指の横をはむりと甘噛みして考え込む仕草をする。
 俺は目を細めた。
「行動を起こすってなんだよ」
「君みたいに理解してくれる人ならいいんだけど、他の皆はちゃんとわかってないからね……自分たちが巣食われている≠ニいうのに、それに気付かないから。そろそろちゃんとそれを伝えなきゃいけないんだ」まるで吟遊詩人のような大仰な動作をして滑らかに続ける。「もう、時間が無いんだよ。本当。孤立奮闘とはよく言ったものさ。これほど一人が辛いものだとはね。でも頑張るしかない。頑張るしかないんだ。皆を救う≠スめには」
 その思惑ありげな目に俺は肩を強張らせた。
 そういえば、昨日の朝の教室でも言っていた気がする。
 ――私もそろそろ例の《期限》が近いからね。
 ――学生の本分片手間、《正義の味方》本分にも勤しまなければならないのだよ。
 口虚は、言う。自分のことを、《正義の味方》だと。それは、公園で戦隊モノのごっこ遊びをする少年少女の拙い思考と似ているようで全くの別物だった。そんな可愛らしいレベルじゃない。病的で奇怪で不気味の極みで。そしてそれは、一般常識では見事に悪性と判断されがちな無邪気。
 今までの俺なら、何かしらの静止を促したのかもしれない。
 だけど。

 三学期からは本真以外に委員長を任せようと思うんだ

 俺はそれを咥内に留めて、代用品に、茶化した文句を取り出した。
「ヒーロー気取りかよ」
「何度も言わせないでくれ。私は、《正義の味方》だ」
 何処の王女さながらの典麗な容姿が、微笑により輝きを増した。
 信号機がとっくに色を交代させて、ただ今が三周目の赤だと知ったのは、青信号になり歩みを始めた数秒後のことだった。



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