03


 その会話を終えるとほどなく職員室へと着いた。別に廊下が迷路の役割を果たしているわけでもないので、歩けばじきに着くのは普通に考えて通りだろうが。俺は口虚に「ちょっと待ってろ」と言い、職員室のドアを開けた。その瞬間、纏わりつくような生温かさとコーヒーの匂いが存在感を激しく主張してくる。今まで寒い廊下を歩いてきただけに、その暖房の熱はひとときの安らぎも同然だった。鼻腔を突くコーヒーの匂いは、さっきまですぐ傍にいた口虚の、かぐわしくてどこか花のように甘い芳醇な匂いの後では、かなり俺の鼻に緩急をつけたと言えるだろう。つけてどうするつもりだ。
 俺は後ろ手でドアを閉める。礼儀だけの「失礼しまーす」を呟き、いくつかのデスクを抜けて、日誌用のクラスボックス棚に持ってきた日誌を少々乱雑にぶち込む。他のクラスボックスにはとうに日誌が入れられていて、俺の行動ののろまさが見事に露呈している。しなくてもいいのに。
「ああ、本真か。お疲れ様」
 ボックスのすぐ傍にデスクを構えている我がクラスの担任の阿久津先生が、俺に労いの言葉をくれた。俺は小さく頭を下げる為にそちらを見遣る。
「ん! あれ。まだいたんだ、本真くん」
「よー、お疲れ正義」
 そこで俺は薄く目を見開いた。少々焦っていたとも言える。
 もうとっくに帰っていると思っていた足水と住人が、阿久津先生の傍にいた。二人ともビニール傘を持っていて、このゴチャゴチャした職員室をより一層に鬱蒼させる行為に一役買っている。足元は狭苦しそうだった。
 その三人がまとう空気はと言うと、ほんのりとピリピリしている。嫌な場面で出くわしてしまったのではないかという不安に駆られた。しかしそれとは真反対に、この三人は「なんてグッドタイミング!」なんて表情をしている。俺は眉を寄せた。
「どうしたんだよ二人とも………特に住人。お前もう帰ったんじゃなかったのか?」
「あははははっ。俺傘忘れちゃってさ、生徒会室に貸してもらいに行ったんだよ。んでそのまま帰ろうとしたら足水とバッタリ会ったんだ」
「私は先生に用事があったの。これは本真くんに関係のあることだし、ちょっと聞いてもらおうかな」
「そうだな。お前にとってもある意味朗報だろう」
 先生はロバみたいに目を細めて笑った。
 俺は一瞬寒気がした。
 なんだろう、この奇妙な感じ。
 薄ら寒くて、厭らしい。
 俺は少しだけ身構えるように背筋を伸ばした。
「本真は一学期、二学期とも、真面目に委員長を務めてくれたよな」
「はい、まあ」
「それは先生も認めているし、足水だって立派な働きだと思っている」
 一体どういう意味でだろうか。そんなことを思ってる俺は卑屈で疑り深いやつなのかな。けれどこれは疑心暗鬼でもなんでもない。歪な兆しに、俺はなにも言えず硬直する。
 学級委員長である俺、《可哀想》な問題児である口虚絵空のお守りなんていう、あほくさいかつ面倒極まりない仕事を、担任阿久津教師直々に任命されていた。口虚がクラスに馴染めるように、なんとか取り計らうよう、俺と足水――というか大部分は俺が、その義務に粉骨砕身の姿勢で全うしてきた。
 そう。

 ――私ずっと思ってたよ。
 ――よく本真くんは我慢出来るなあ、って。
 ――私には無理だ。

 真面目に、務めた。
「それに関して、なんだ、俺も本真ばっかりに頼りすぎたというかな……《鬱陶しい仕事》を任せちゃったりもしたし、悪いと思っているんだ」
「なんやかんやで私も、本真くんに頼りっきりだったしね。大変だったでしょ?」
「いつも忙しそうだったよな、正義」
「いや、まあ……仕事だし」
 息が、しにくい。
 ゆらゆらと波打つどす黒い海が全身に圧し掛かってきているみたいだった。がぽがぽと泡を吐いて藻に絡みつく。重い。苦しい。寒い。気持ち悪い。
 こんなに温かい部屋にいるのに、体の芯は心底冷たくて。
 こんなに暗い海の中にいるのに、俺の心は恐怖に鮮明で。
「だからな、まあ、学級委員は一年通してやる仕組みになってはいるんだが、今回は特例として、三学期からは本真以外に任せようと思うんだ」
 俺は薄く唇を開ける。熱気の篭った空気が入ってきて、喉が急速に乾いていく。ごくり、と唾を飲み込んでも何の意味もない。乾きは攻め立てるように侵食して、せせら笑うように侵蝕した。
「委員長の後任は足水。直々に俺に言ってくれたんだ。これ以上のお前の責務はきっと身が持たないだろうからって」
「ずっと思ってたんだよね。本真くんにばっかり任せてるの」
 でもお前言っただろうが。
 ――もしかしたら君は怠惰だと思うかもしれないけど、それでも私は、何もしないからね。
「副委員長の後任は海野がやる……足水の後にこいつっていうのもそれはそれで心配だが、まあ立候補してくれたんだしその意思を尊重してやろう」
「大丈夫です先生、いざとなったら私がまとめるんで」
「二人してなんだよそれー」
 でも、お前委員に興味なかっただろうが。なのになんで、急にしゃしゃり出てくるみたいに。
 ――生憎海野くんとは付き合えない、ごめんなさい。
 こんな、変なタイミングに。
「いやあ、本当に今まで悪かったよ本真。あんなこと言って、なのにお前はちゃんと面倒を見てくれて。まあ、あいつがクラスに馴染めなかったのは残念だけど」
「先生。あの子は馴染む気なんてサラサラないですよ」
「そうは言ってもな……」
「口下手で引っ込み思案で上手く人とコミュニケーションを取れない。そんな子なら私だって、上手く馴染ませてあげようと思います。でもあの子は違う。口下手どころかいやに饒舌で、引っ込むことを知らなくて、コミュニケーションを取ろうともせずに変なことばっかり言って押し付けてきて。馴染む気がない子を馴染ませるのがどれだけ大変かわかってるんですか?」
「……すまないな。でも、俺も教師なんだよ」
 俺は思わず吐きそうになる。悟られないように引っ込めるが、胃酸が乾いた喉に更なる迎撃を食らわせた。
 この空気が、ひたすらに嫌だった。
 嫌らしい。
 厭らしい。
 あの《嘘つき》の女の名前を出すことはなく、それでも誰か分かるような狡猾さで、ネットリとした渦を巻いている。そこには捻くれた歪みだとか曲がったうねりだとかがあちらこちらに散漫していて何もかもを絡めとっていた。俺はさっきこの輪のことをどす黒い海だと表現したが、それは違う。そんな広大なものではない。酷く矮小でこれ以上なく小規模で、だからこそあからさまに致命的だった。
 これは、沼だ。ぐちゅぐちゅとした不快感しか抱かない半液体溜まり、手足の自由を奪い飲み込もうと上へ上へ迫ってくる、魔性の沼だ。その底なし沼でもがき続けるけど、そんなものはほとんど無意味だった。ずんずんと身体は飲み込まれて、息をするのもやっとだった。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い言葉が気持ち悪い響きになって。
 響いて。響いて。
「本真、それでいいよな? お前も」
 喧しい。
 俺は拳をギュッと握りしめた。まだ爪を切っていなかったせいで、手の平にそれが食い込んで痛くなる。それでも俺は、拳に力を込めた。込めずには、いられなかった。こんな、獲物を駆る肉食獣みたいな人間に、拳は弛緩を許さなかった。 
 俺は、意識を背中に集中させる。
 背後数メートルには部屋と廊下とを隔てる濁った色の壁がある。こちら側には醜い響きで奴を貶める三人がいて――まるで肉食獣に捕らえられた、なすすべもない小鹿のような哀れな奴が、この部屋の外で俺を待っている。
 皮肉、だよなあ。
 本当。
 世界は皮肉で。
 身勝手で。
 笑っちゃうくらいに。
「はい、そのように、お願いします」
 笑えない。





 人間ってのは、いつだって水の上を歩いている。その水の上にはとりどりの綺麗な花が散らばっていたり、かと思えば、ゴツゴツした石ころや踏めば痛そうな破片なんが、いくつも水面下で息を潜めていたりもする。俺達はその障害物を上手くかわしていきながら、ただただ歩いて行かなきゃいけないのだ。
 目的地なんてわからない。
 本当にあるのかさえも、だ。
 ひたすらに歩き続けることこそが人生らしい。
 でも歩いていると、ビシャビシャバシャリと水は飛沫をあげて、障害物を揺らして波紋を生む。
 歩きにくい。
 前へ進めない。
 でも、歩かなきゃいけない。
 ここは水の上。
 気をつけて歩かなくては、いけない。
 けれど。

「どうせ降ってくるなら、お金だったらいいのになって、そうは思わないかな? 正義」

 口虚絵空は、違う。
 ずっと一時停止をしていて、歩こうとしない。
 ビシャビシャバシャリ。
 キラキラとスパンコールさながら煌めく水を、大理石のようになめらかな肌の脚で掻き鳴らす。まるで踊っているみたいだ。水面に浮いた花を散らして、石や破片で綺麗な裸足が傷つくことも厭わずに。水飛沫をあげるためだけに、懸命に足踏みをする。
「そしたら私は、家の屋上に、いっぱいのバケツと大きなビニールプールを用意しておくだろう。やんだ頃にはお金がいっぱい! 素晴らしい。これ以上ないシンドバッドドリームでないかい?」
「それもものすごいレベルで下賤的な、な」
「言ってみただけじゃないか」
 むすっと唇を尖らせる口虚。未だ奴の足踏みは止まず、ビチャビチャと水を蹴散らしては俺を大胆に濡らしていた。
 校門を出て暫く歩いた通り。ちょっと古い民家やもうすぐで潰れそうなエステサロン、こんな辺鄙なところにと目を瞬かせる小さなハンバーガーショップに高校で使う教科書が売られている書籍店舗。その全てを無視して、俺と口虚はライトグレーの小さな傘に窮屈そうに入って歩き続けていく。
 傘は振ってくるドロップの衝撃で音を立てていて、それは俺たちの控えめな足音やそこかしこに弾けるように落ちる音と合わさって、まさしくカエルの大合唱。耳に小五月蝿いくらいに響いていた。
「そういえばお前、前にも似たようなことを言ってたよな」
俺のふとした呟きに、口虚は首を傾げた。
「似たようなこと?」
「空から金が降ってきたらいいのにーみたいに、俗物的なヤツじゃなかったけどな」
 ――どうせなら、空の色が紫色だったらいいのにな。いっそ水玉模様だったら。チェック柄だったら。もしくは虹色なら。幾何学模様なら。あるいは花柄なら。いっそ鏡のようだったら――。
 まるで夢物語を語る少女のように――いや事実そうなんだけど――本当に恍惚とした表情で、憧憬の鱗粉を撒き散らして、口虚は語っていた。
「でもそんな世界有り得ないだろ」
「何故そんなことを思うのかな」
「何故そう思えないのかが不思議だよ」
「私はこの世界に些か驚いていてね。おかしな妄想や空想を現実と信じこんでいるんだ」
 それはお前だろ。
「それだけにとどまらない。この世界は摩訶不思議なことが当たり前として存在する。私は半魚人に会ったことがある。かと思えば私の身の回りには透明人間がいるし、そして私は」「はいはい、もういいだろ」
 俺は奴の言葉に遮るみたいに低く唸った。これ以上アホくさい妄言に付き合いたくなかったからだ。
 口虚は別段気にすることもなく「つまりはね、正義」と、川のせせらぎみたいな調子で続ける。
「世の中、そんなことになったって不思議じゃないと、私は言いたいんだ」
「空が水玉模様だろうがチェック柄だろうが虹色だろうが幾何学模様だろうが花柄だろうが、いっそ鏡のようだろうが、全然有り得る、と?」
「その通り」
「須らく黙るべきだお前」
 これは手厳しい、と口虚は肩を竦めた。



prevnext

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -