ブリキの心臓 | ナノ

3


 暗転。
 バッと視界が黒一色で埋め尽くされる。なにも見えない。一面の闇。けれどそれも一瞬の出来事だ。暗闇がもぎ取られるように視界から消え去って――変わりに現れた真珠のように煌めく闇にアイジーは顔を凄惨に歪ませる。
 それは、化け物だった。
 自分の身の丈よりよっぽど大きく、その頭はまるで魚のようでありながら獅子さながらの鋭い牙を持っている。首はとにかく細長くて、その巨体は不思議な光を放つ漆黒の鱗で覆われていた。まるで直立歩行する恐竜のように腕と脚を二本ずつ持ち、手足にそれぞれ鋭い鉤爪を持っている。薙ぎ払うのに長けた太く長い尾やコウモリのような翼を持つは悪魔の象徴のよう。爛々とした金色の眼は冴え冴えとしていて――人殺しきその姿はそれだけで心臓を止めるほどに悍ましい。

 ジャバウォック。

 アイジーは悲鳴のような呟きを吐いた。いや、実際はそれは声にならずに掠れた吐息としてアイジーの狭く閉じた咽喉を鳴らしただけだ。恐怖のあまり叫ぶことすら出来ない。心臓が高鳴って、生きていることが奇跡のようだった。なにも出来ずにただじっと見つめて――目を逸らすことすら死を意味するような絶望にも似た拷問のひと時をアイジーは全身全霊で体感する。自分を射貫く鋭い黄金の眼差しが途徹もなく痛かった。脅威に耐え切れず心臓は上手く機能しなくなる、酸欠したように息は荒くなる、泣きたくなる悍ましさにアイジーはぎゅっと目をつぶった。がくがくと恐怖に打ちのめされた身体はぶわりと氷の花を咲かせたあと熱くなっていった。それは燃えるような温かさではなく冷酷な熱。アイジーが肩を震わせていると、いなくなった彼の声が鼓膜を揺らす。
「アイジー」
 優しく魅惑的な声が自分の名前を耳元で呼んでいる。彼の息遣いには温かさがあり、それはだんだんと身体中に広がっていった。心地好い冷たさの手がアイジーの顔を覆っていた手を剥がす。それでもまだ目を固く閉ざしたままのアイジーに、「もう大丈夫」と囁いた。
「もう、怖くないよ」
 じんわりと目を開けると、青年が目と鼻の先にまで近づいてきていた。倒れたままのアイジーと距離を詰めて細い黒髪がアイジーの額に触れるまで密に覗き込んでいる。けれど、押し倒されたような体勢を恥じる気力なんてものはもう少しも残っていない。
「よくできました」
 その瞳はさきほど見た化け物のものと瓜二つ――いや、まさしくそのものだった。凄味の効いた瞳なんて陳腐な言い回しは及びでないくらいの鋭さ。そうか。そうなのか。これは、この金色は、道理で。
「大丈夫? まだ震えているようだけど」
 銀のピンセットを持つ丁寧な指先が言葉を並べていくように、青年は慎重にアイジーに言った。アイジーは未だ急かす心臓を震わせながら憐れな涙声で呟く。
「ジャバウォック……っ、あれは、貴方は、ジャバウォック……!」
「ご名答」青年は皮肉るように返す。「僕に名前はない。そしてずっと君の傍にいた。けれど君はそれを意識したことなんてなくて、知らないときには傍にいたし、気づいたころには当たり前だった。僕らの関係はまさしく運命であり、命運でもある。人生であり運命であり共に付き合っていく腐れ縁のようなものだ。けれどあくまで観念であり、そして君自身である」
 青年は――《ジャバウォック》は、鼻と鼻が触れる距離にまでその身を屈める。

「僕は君を犯す死の呪い――《ジャバウォックの呪い》そのものだ」

 アイジーが死ぬその由縁が、原因であり禍が、今目の前にいる。ぞっとするほど端整な顔を持つ青年として、文字通り目と鼻の先にいる。恐怖と驚嘆と悲壮が入り乱れた表情で、青年を睨みつけた。
「ど、して」声が震える。「どうして貴方は、ここに、この、私は、私の、私の目の前の、どうして、今、私、だって、それに、私、なんで……どうして」
 しどろもどろになって感情は鋳型に収まろうとしない。
 なんで私を呪ったの。
 なんで人の姿をしているの。
 さっきの姿が本当の姿なの。
 私の前に現れた理由は。
 こうして話をしているわけは。
 私を虐げて楽しいの。
 貴方は。
 私は。
 なんで貴方は私の目の前にいるの。
 聞きたいことはたくさんあった。知りたいことは山ほどあった。けれどどれ一つ言葉に出来ない。ジャバウォックはアイジーの震えるを撫でた。鳥肌が立つのを感じる。ぶわりとした感触がアイジーを包み込んで、そしてそれはジャバウォックを拒絶するためのアクションには結び付くこともないくらいの絶望だった。
「アイジー」
「いや……やめて……」
「アイジー」
「も……なにも、なにも言わないで」
 ふるふると首を降ることしか出来ないアイジーに、ジャバウォックは冷淡に言い放つ。

「君が求めるのは生きることだけなのだから、それが贈られたらとても素敵だろうね」

 視界が、滲んだ。抗いようがない。無数の冷たい針がアイジーの心臓を突き刺すようだった。彼が、ジャバウォックが今どんな顔をしているのかもわからない。嘲笑しているのか、侮蔑しているのか、皮肉しているのか、憤慨しているのか。けれどその麻酔のように危うい響きはアイジーの心を嬲るには十分過ぎた。傷ついて、そして同時に怒りを抱く。今すぐにでも突き飛ばしてやりたい。勿論、それが出来ることなら。アイジーは非力で、彼を自分から遠ざけるすべも知らない。知っていたところでなんの意味もない。彼は自分と共にある。ここで抗おうがなにも変わらない。
「こうしてヒトとして君に干渉するのはこれが最後ではないだろう」
 ベルベットの声で甘く囁くその台詞は絶望的悲劇の台本のよう。アイジーはじっとしたままそのストーリーを荒む心に響かせた。
「忘れるな。僕はずっと君の傍にいるし離れることはないだろう。そして運命であり、命運で、それと同時に君自身なんだ」
 アイジーの左胸を――心臓を、彼は優しく愛撫する。そして冷酷な声で、抱きしめるようにもう一度強く言い放つ。

「ゆめゆめ忘れるな」





夢の中



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