ブリキの心臓 | ナノ

2


 本当によくわからない青年だった。いっそ不気味で悍ましい。夢に出てきた人間にそんな感情を抱くのは無益というものだろうが、されどこの感覚は夢から程遠い。明晰夢だからだろうか――自分の首を絞めた手やその苦しさは、紛れもなく本物だった。アイジーは青年から目を逸らす。これ以上得体の知れない人間から痛い目に合うのは嫌だった。とにかく早く目覚めてしまいたいと思った。夢であろうと夢でなかろうとどうでもいいから、早くこの青年のいない世界に行きたい。眉目の麗しさや優しい声は毒のようで、この暗闇はそれを増長させるものでしかない。俯くアイジーの髪を青年はひらりと弄った。
「さっきまでのお喋りはどうしたんだい? 流石に声帯を潰すまで強く絞めた覚えはないんだけど」
「貴方とお喋りをしたくないだけよ」
「残酷なことを言う」
「茶化さないでちょうだい」
「そう怒るものじゃない。少なくとも僕はこれ以上君を傷つけるようなことはしないよ、アイジー」
「……やっぱりおかしいわ」自分の名を軽々と口にする青年に、アイジーはぽつんと呟いた。「私は貴方を知らないのに、貴方は私を知ってるなんて」
 その呟きに青年は意味ありげに微笑んだ。なんかんやで喋りたくない相手と会話を成立させてしまっているのにアイジーは気づいていない。いや、青年がわざとそうさせている。青年は悟らせることなく「僕はずっと君といたよ」と穏やかに言う。
「けれど君はそれを意識したことなんてないだろう。知らないときには傍にいて、気づいたころには当たり前だった」
「……謎かけかしら? 酸素?」
「はずれ」青年は肩を竦める。「この僕を勝手に気体なんかにしないでくれる?」
 少し眉を寄せる青年はビターの強いチョコレートのようだった。細い黒髪をふっと揺らして彼はアイジーを見遣る。
「正直に言うとね、アイジー。きっと君は僕の正体を知らないほうがいいんだよ」
 そんなことを言う青年に、アイジーは目を瞬かせた。目の前の怪しい青年の存在を本当に不思議に思っているような顔だ。きっと自分は、彼の言うことの半分も理解していないに違いないとさえ思った。なにを言っているのかはわかるのにどこか掴み所がなく曖昧で、まるで雲の上を歩いているような感覚。ここは真っ暗闇だから雲なんて勿論ないのに、アイジーはそんなことをぼんやりと考えていた。
「知ればきっと後悔する、知らなければよかったと後悔する」
「私は――」「無知でいたくない」被せるように繰り出された台詞にアイジーはほんの少し顔を上げる。「――だろう?」わかったような口ぶりは、彼に対する恐怖心をぶり返すには十分だった。アイジーはじわりと顔を歪ませる。その臆病な拒絶をせせら笑うかのように彼はアイジーに続けた。
「君はずっと無知だった。無知で馬鹿で愚かで浅はかで、そしてそんな自分をずっと恥ずかしいと思っていた――それは素晴らしい感情だと思うよ。無知を恥じるのは気高い感情だ。頭の悪い小娘が頭の悪い小娘でないと証明できる唯一の道徳心だろう。君が無知でいるのに怯えにも似た感情を抱くのはよくわかる」
 けれど、と。青年は目を尖らせる。星のようだと称した金色の瞳は針の先端のようにも思えた。整った顔を険しくさせて、叱責するように侮蔑するように、彼はアイジーに続ける。
「思い出してごらん。君は馬鹿で愚かで浅はかだった、馬鹿で愚かで浅はかで――――それでもとても満たされていた」
 アイジーは、遠い昔の七歳の自分を思い出した。自分が災厄の子だと知らなかった、あの愛しい幼少期。大好きなエイーゼとなんの気兼ねもなく遊び呆けることが出来た、自分の存在を怨むことなく微笑むことが出来た、世界の暗いものとは無縁だったあの頃。自分が災厄の子だと知ってからの八年は地獄のようだった。エイーゼとの冷たい関係に胸を痛めながら、ずっと祈っていた。あの頃に戻りたい。自分が災厄の子だと知らなかった、何も知らなかった無邪気なあの頃に戻りたい。己の罪を知る前のあの自分に戻りたい。自分がいるとエイーゼの邪魔になると知って、自分が生きているとエイーゼは生きられないと知って――災厄の子であると生まれ損ないであると呪われた子供であると不吉の子であると知って――。
「君の大好きな双子の兄――彼との仲は回復しても、根本が解決したわけじゃない。君は相変わらず彼のお荷物だし、疫病神以外の何者でもない」
「……やめて……」
「可哀相なアイジー。無知だったらどれだけよかったろう。お互いに気を詰まらせることもなく、冷えきった八年を春のような温かさと花の蜜のような甘さで過ごすことが出来ただろうに」
「言わないで……」
「君は自分が邪魔者であると知ってしまった。あのまま無知でいさえすればよかったものを。いらぬ知恵をつけたせいで不幸な目にあったというのに、それがまだわからないのかい? アイジー」
「もうやめて、なにも言わないで」
 潤んだ声を張らせてアイジーは言った。顔を伏せて肩を震わせている。その様子に青年はなにも返さなかった。暫く思い静寂がピンと糸を張るように続いていた。
「…………しら」
 ふと、衰弱したように緩慢な動作でアイジーは顔を上げる。バイオレットグレーの瞳を失望に潤ませながら消え入りそうな声で呟く。

「いつか――――シオンと出会えたことすらも、不幸だと、知り合わなければよかったと、そう嘆く日が来るのかしら」

 自分を救ってくれた、あの神様のような少年に思いを馳せる。あの日はまるで木漏れ日の夕方のお昼寝のように美しいプラチナ色のベールを纏って、アイジーの脳みそにちっぽけな、けれどとてつもなく幸せだった時間として深く刻まれている。いろんなことを教えてくれた。助けてくれた。手を差し出してくれた。笑わせてくれた。怪我を治してくれた。お菓子をくれた。励ましてくれた。素敵な想い出を、くれたのだ。
 アイジーは――悲壮な目つきで――じわりと首を傾げた。頼りない首の関節。今にも折れてしまいそうで、そしてぞっとするまでに青白い。
「…………アイジー」
 青年はアイジーの頬を撫でる。アイジーは拒絶するように首を振ったが顎を掴まれて無理矢理青年の方へと顔を向かされた。濡れた睫毛にゆっくりと触れ、潤む瞳をじっと見つめる。青年の顔は同情と憤慨に満ちていた。どこか侮蔑するようにアイジーを見つめてはいるが、目元を撫でる指の優しさには間違いなく情があった。青年は苦々しく、痺れを切らしたように言葉を紡いでいく。
「僕らは、腐れ縁のよう関係だ」
 アイジーはなにも答えなかった。青年はアイジーの顎を掴むのを止めて、屈んでいた脚を立ち上がるように伸ばす。
「そして運命であり、命運でもある」
「……どういうこと」
「人生であり運命であり共に付き合っていく腐れ縁のようなものなんだ。けれどあくまで観念であり、そして君自身でしかない」
 アイジーはその言い回しに目を見開いた。さっきよりもいっそう顔を青白くさせて、青年を見つめる。青年は暗闇に紛れるようにアイジーから遠ざかった。アイジーは上体を起こして彼を目で追っていく。灰色のローブが波打って輝く中、彼はようやっと歩みを止めた。無感情な顔で「君が、」と言葉を駆け出していく。
「君が恐怖のあまりにその甘い息を失ってしまわないことを、僕は心から祈っているよ」


|
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -