ブリキの心臓 | ナノ

1


 あのあとどうしたのかははっきりと思い出せなかった。思わず泣き出してしまって、それをジオラマ=デッドが宥めてくれたこと、シフォンドハーゲン邸まで送ってくれたことはなんとなく覚えていた。アイジーはすぐさま部屋に篭り、お気に入りのチェックのスカートが皺になるのにも気にせずに、一目散にベッドに潜り込んでたださめざめと泣き続けた。



 そこは果てしない闇の中だった。真っ黒という表現がぴったりくるくらいに暗いところで、上下左右の感覚を奪われるくらいの闇だ。寝転んではいるが自分が横になるこの下の硬いものが本当に地面なのかもわからなかい。ただ真っ黒で光もなく、なのに何故か自分の身体だけは、発光しているかのように目視することができた。アイジーはどろりとした目だけを動かして上空を見上げる。やはり果てしなく黒い。けれど不思議と不快感や恐怖心はなかった。気付けば自分はベッドで泣き暮れた体勢のままでこの闇の中にいる。振り乱れた髪を構うことなくいたせいか、視界は暗闇以前に悪かった。ぼやぼやと意識は遠くて、でも自分がここにいるということは確信できる、奇妙な感覚。全体が薄い皮膜に覆われたように実感が薄い。温度という温度も無く、寒いとも熱いとも感じない、俗世からばっさりと断絶されたような感覚が今の状況だった。
 夢だった。
 なんとなくわかる。これは夢だ。このぼやぼやとした感覚は間違いなく夢だと思った。明晰夢。今までにない経験だけれど、きっと夢だと認識できるなら今のような感覚だろうとアイジーは思った。深い闇の中に一人きり、ちっともお幸せな状況ではなかったが、不思議とこれは心地よかった。
「――気分はどうだい?」
 ふと、自分の頭を撫でる感触。優しい手つきで自分の頭を撫でるそれの声は、誰よりも優しく艶がある。ベルベットのように滑らかで、けれどしつこさはない。ひんやりと耳障りがよく、不思議と惹きつけられる。アイジーはその声と手に覚えがあった。ゆっくりと頭を上げて、声の主を見る。
「……あなたは、」寝起きたばかりだからか呂律が回らない。「あなたは、だれ?」アイジーはじっと目の前の人物を見つめた。
 それは、世にも麗しい青年だった。精悍で爽やかな見目はいかにも好青年というイメージがぴったりと合い、非の打ち所のない顔のパーツが組み重なったその容貌は見蕩れるほどに整っている。夜よりも暗い黒髪は細く、一本一本が艶を誇るように流れていた。瞳は星のように神々しい黄金色をしていて、その美しさと言ったら思わず身の毛がよだつほどだった。これだけ整った外見をした青年が自分に微笑んでいるのに、アイジーは彼に怯えにも似た感情を抱いた。目が、良くないのかもしれない。彼の目は綺麗な金色をしているけれど、それはまるで怪物のように爛々としていて、瞳の形は凶暴な獣のようだった。シオンの優しい金眼とは程遠い。目の前の彼は優しげに微笑んでいるが、その目だけは苛烈に鋭利でおぞましかった。
 普通は夢の中で見た人間に素性を聞くことなどないだろう。夢の中ではそんな知欲は根こそぎ奪われているし、実際アイジーも今の今までそんなどうでもいいことを問うたことはない。しかしこれは明晰夢で、ならば話は変わってくる。アイジーは微笑を湛える不気味な青年の、その正体を知りたいと思った。
「……さあね。なんだと思う?」
「わからないわ」
「じゃあ、僕も君と同じでいい。わからない」
「どう言った冗談かしら?」
「別に。君と同じなだけだ」
「だったら私は、わかるわ」
「そうか、つまり君は僕の正体をわかっていることになる」
 ――なら、別に教えなくてもいいだろう? 彼はそんなことを言って妖しく目を細める。アイジーはずるりと身体を起こして青年を見据えた。
 ハイティーンの、もう成人と言ってもいいくらいの姿をしている彼が、まるで屁理屈好きの少年のような返答をアイジーに寄越してくる。それもアイジーを昔から知っているみたいに親しげに。親しいけれど、目に見えない確実にある一線を、決して越えない距離感で。
「じゃあヒントをちょうだい」
「ヒント?」
「そうよ」
 アイジーが頷くと、青年はクスクスと愉快そうに笑った。なにがそんなに面白いのかと眉を潜めると、彼は「僕に興味がある?」と言った。
「まあ……そうね。だって私こんなこと初めてなんだもの。夢の中にいるのに、こんなに意識がはっきりしてるなんて」
「ここは夢の中じゃない。眠っている間に体験するものの全てを夢と思うのは、月を大きな金貨だと謳う飲んだくれに等しい行為だ。ここはインナースペースに過ぎない、君の頭の中のどこかの空間に過ぎないんだ、アイジー」
 自分の名前を呼んだ。
 そのことにアイジーは些か驚いた。
「貴方は……私を知っているの?」
 青年は、妖しげに微笑んだままだった。金色の瞳を細めて「僕らははじめましてじゃないんだよ」と呟くように言う。パッと腕を伸ばしてアイジーの頬に触れた。さっきまで存在がぼやぼやしていたのに触れられた瞬間輪郭を帯びた気がした。青年の姿もはっきりと見え、襟の浅い漆黒の服に深い灰色のローブを纏っているのがわかる。頬に添えられた手はひんやりとしているのに、どうしてかアイジーは熱いと感じた。アイジーは息を呑んで「どういうこと?」と尋ねる。
「――君は、あのとき一人だった」
 青年の手がアイジーの頬をさらりと滑る。慈愛と同情を持った手つきだったが、どこか高圧的で、アイジーは思わず息を止める。
「淋しい部屋の中、今みたいに塞ぎこんで、君は独りで泣き続けていたね」
「……………」
「僕はずっと君と共にあった。君のことならなんでも知っているだろう、きっと君自身よりも」
 アイジーはどういう反応をすればいいのかわからなかった。目の前の端整な顔立ちの青年に戸惑いを隠せないでいた。
 あくまでこれは夢だ。所詮夢だ。たかが夢で、されど夢だ。今までにない状況に呆然とする。ふと、彼の手がアイジーの髪に触れた。さらりと一房掬い上げる。
「深いことは考えなくていい。考えるだけ無駄だ。大人しく全てを放棄していればいいんだよ、柔らかい闇はきっと君を包み込むいいブランケットになるだろう」
「……貴方は私を知っているみたいだけど、私、貴方の名前を知らないわ」
 青年は髪を弄る手を止める。未だに収まらぬアイジーの探究心を煩わしく感じているようなそぶりだった。
「名前は――――ないな」
「ないの?」
「おかしいかい」
「いえ、おかしくないわ」アイジーはくすりと笑う。「だってこれは夢なんだもの、なくて当然なのよ」
 青年は暫くなにも言わなかった。ただじっとアイジーを見つめる。そしてふいに柔らかく笑って、髪に触れていた手をアイジーの首元へ持っていく。アイジーは目を見開いて肩を竦めるがそれを青年は許さず、手の平で華奢な首を覆うように回した――少し力を込める。窒息はしないだろうが、息苦しいぐらいの力加減だった。アイジーはか細く呻く。
「聞き分けの悪い子供みたいなことを言うものじゃないね」青年は続けた。「君がどう思おうと勝手だが、ここは夢の中じゃない、それは最初に言った筈だ。アイジー」
 愛しい恋人に永遠の想いを伝えるような優しさで、彼はアイジーの首を締める。アイジーは思わず顔を歪ませて自分の首を犯す冷たい手を握った。その仕種すら可愛がるように、青年は口角を上げる。アイジーは拒絶を喘ぐ。
「や、めて……っ」
「勿論」
 冷たい手は、容易く自分から離れて行った。不快な拘束から解放されたアイジーは青年を睨みつける。青年はその眼差しに満足したように目を細め、言葉を紡ぐ。
「僕は君の嫌がることはしないよ」
「首を、絞めたわ」
「君は嫌だと言ったかい?」青年はなんでもない風に続ける。「それに、少しくらい警戒心を持ってもらわなきゃ困る。僕は君をお姫様扱いする王子様でも、おやすみの前にキスをしてくれる父親でもない」


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