ブリキの心臓 | ナノ

2


 アイジーの部屋には明かり一つ灯っていなかった。空気は鬱屈としていて、部屋の主の心情を正確に表しているかのよう。けれど、煌々とした満月は、彼女の華奢な姿を映し出していた。
 真珠のように淡く発光する真っ白い肌。月の色と同じシルバーブロンドに、くすんだスミレ色の瞳。表情は悍ましいほど冷たいものだ。ベッドの上に膝を立てて、アイジーはうずくまるように座っていた。
「レディの部屋に入るときにはノックをするものではなくて?」放たれた言葉はエイーゼを責めているようで、果てしなく虚無的だった。「いくら貴方の大嫌いな死刑囚相手でも、マナーは守るべきだわ」
 冷徹で硬質で、畏怖するほど気高いのに、何故か酷く凄惨な姿に見えた。今の彼女よりも孤独で可哀相な人間はきっとどこにもいないだろうとさえ思った。
 エイーゼは口を開く。
「お前は、死刑囚じゃ、ないだろう」
「私を殺しにきたんでしょう?」
 会話をする気はないらしく、エイーゼの言葉を咀嚼する間も開けず、アイジーは言い放った。畳み掛けるように言葉を続ける。
「なるほど。被害者が加害者を殺すという論理ね。素晴らしいわ。拍手でも贈ったほうがいいの? そうでないなら、時間の無駄だわ。さっさと済ませてしまってちょうだい」
 そうやって吐き捨てるアイジーに、エイーゼは口を開かなかった。
 噛み合わない。二人は互いに互いを向き合っているのに、見据えるものは哀しいくらいに違っていた。表情こそ変えなかったが、自分たちはここまで来てしまったのか、とエイーゼは思った。
 本当に、とんでもないところまでいき果ててしまった。縺れこんで冷えきって、溶けることのないまま、こんなにもすれ違ってしまった。初めは、そうではなかったはずだ。それこそ、共に木登りをするような、仲のいい二人だったはずで。
「……僕が庭の木から落ちたときのことを、覚えているか?」
 ぽつんとエイーゼは言葉を落とす。
 その突然の言葉にアイジーは反応した。ゆるゆると頭を下げて膝に顔を埋める。責めたいわけじゃないという意味を込めて、エイーゼは続ける。
「あのときのお前は、僕に早く上に来いと、楽しそうに誘っていた。生まれつきろくに遊べない僕に、お父様やお母様に見つかれば大目玉を食らう僕に、お前は無邪気に遊びに誘った。なんて我が儘な妹だろうと思った。それでも、僕はそんなお前に救われていたんだ。お前があんまり楽しそうに僕の名を呼ぶものだから。お前があんまり幸せそうに、僕を連れ立ってくれるものだから、だから、僕はそれでよかったんだ」
 楽しそうに幸せそうに笑うアイジーよりも、もっともっと、きっとたとえきれないほどもっと、自分のほうが楽しくて、そして幸せだった。めいっぱい遊ぶことの出来ない自分。その殻を突き破って手を差し伸べてくれるのは、いつだってアイジーだった。
「それで僕が落ちて死のうが、そんなのは自業自得だ。なにも……なにも気にすることなんかなかったのに、そんなの、なんでもなかったのに……お前は勝手に振り回したくせに、勝手に一人で落ちこんで、それで、僕がお前を恨んでいるとか、お前を嫌いだとか……お前は、本当に馬鹿だ」
 本当に、馬鹿だ。
 大馬鹿者だ。

「本当にお前を嫌いなら、今こうして僕が泣いているわけがないだろうに」

 アイジーはほんの少し顔を上げて、そして目を見開いた。エイーゼはアイジーがそうしたように、涙を拭うことなくアイジーに言い放つ。
「お前はすぐ卑屈になるし、機嫌を伺うように僕を見るし、昔のあの頃が、嘘のように……」
 言おうとしたことが上手くまとまらなくて声として出てきてくれない。八年間溜まったものが口からどんどん溢れ出て、それがあんまり烈しいものだから、ちゃんとした言葉にならなかった。
 それでもアイジーはなにも言わず、耳を傾けたままだった。まだ死にそうな目をしている。けれどちゃんと、エイーゼを見ていた。
「僕は……お前が災厄の子でもよかったんだ」
 エイーゼにとっては、そんなのは瑣末なことだった。どうでもよかった。災厄の子であろうとなかろうと、アイジーの傍に居続けただろう。
 二人がずっと笑い合うためには、アイジーが、イズやオズの――お前は死ななければならないのだという――言葉を否定すればよかったのだ。私は死なない、死にたくない。ただ、そう言いさえすればよかったのだ。けれど、そうしないがために、その言葉はアイジーのものになった。その瞬間から、死ななければならないのはエイーゼではなく、アイジーになってしまったのだ。分からず屋だったアイジーは、エイーゼだって背負おうと思えば背負えるものを、勝手に自分のものにした。アイジーができることを、エイーゼができないわけがないのに。アイジーがしようとしたように――大事な半身のために死ぬことを、半身であるエイーゼが、できないわけがないのに。
 その独断がどれだけエイーゼを傷つけたか、アイジーにはきっとわからないだろう。わかるはずもなかった。アイジーはエイーゼのことを理解せずに、死を選んだのだ。それがエイーゼは赦せなかった。馬鹿で無知で愚かにも、自分のために死ぬだなんて言うアイジーのことが、エイーゼは切ないほどに赦せなかった。


 だって、アイジーが死刑囚でないことなんて――自分の双子の妹であることなんて、アイジーよりも、他の誰よりも、エイーゼは知っていた。


「お前が災厄の子だろうと、生まれ損ないだろうと、呪われた子だろうと、不吉の子だろうと、そんなの、これっぽっちも関係なかったのに――なのに、お前は、勝手に決めつけて、重荷だとか、疫病神だとか、僕は、でも、どちらか一人がなんて、僕の知らないうちに、そしたらお前は、急に閉じこもって、それでも、無理して、馬鹿で、それがどんなに、お前は、僕のために死ぬだとか、そんなことを、機嫌でも伺うみたいに、安心させるみたいに、望んでなかったのに、お前だって、死にたくないだろうに、生きたいだろうに、僕のためにって、そんな、寂しいことを、僕のために死ねだなんて……僕がいつ、そんなことを」
 声が震えた。己の頬をつうっと生温かいものが伝っていく。その滴と一緒に、エイーゼの心はじんわりと空気に拡がっていった。今まで押さえつけていた感情が悉く溢れでた。悲しみだとか、怒りだとか、後悔だとか、八年も押し殺してきたその全てをぶちまけて、自分の身体ごと震動する。
 もぞり、とアイジーが動いたと思えば、おもむろにその細い腕は開かれた。アイジーはその腕でエイーゼを抱きしめる。懐かしい温かさだった。今までの溝を埋めるように、自分を抱きしめている。そのことを、エイーゼはただ感じていた。
「……ごめんなさい」アイジーは言う。「ごめんなさい……エイーゼ。私、死にたくないわ」
 死にたくないのよ。そう紡ぐアイジーの声も、指先同様に震えていた。けれど、エイーゼはそれでかまわなかった。口を開けば死を差しだす最愛が、ようやっと生への渇望を吐きだした。
「私、きっと行くわ。《オズ》へ」
 幾星霜、エイーゼが待ちわびた言葉だった。


「私のために、行くのよ」


 アイジーの肩に、エイーゼは顔を埋める。
 やっとだ。やっと伝わった。
 八年もかかった。八年も、こんなにも馬鹿な争いを続けてしまった。
 滑稽な意地の張り合いで冷たく凍えるような今までを過ごしてきて、それでもやっと、それを終わらせることができた。
 どれだけそれを望んだだろう。どれだけ切に願っただろう。あの頃のように無知ではなくて、それでもやはりなにもわからなかった二人。八年かけてようやくわかりあえた。
 エイーゼのために死ぬつもりだったアイジーと、アイジーのために死にたかったエイーゼ。
 冷たいすれ違いを繋いでいた全ては、まるで風船を束ねた糸を断つように、素早く切り離され解けていく。
 エイーゼ。今まで哀しい思いをさせてしまってごめんなさい。私、生きるわ。きっと私たち、何事もなかったようにやり直せるわ。やり直すのよ。八年前の続きを。二人で。
「……お前は、本当に、馬鹿だ」
 優しい響きだった。
 温かい言葉だった。
 僕だって、ずっと前からそうだったよ。

 僕の中の亡霊は、ずっとお前を愛してた。





氷解



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