ブリキの心臓 | ナノ

2


 貴族の結婚式とは、力の誇示である。より立派な式を催し、家の繁栄を周囲に見せつける、婚姻とは関係のないところに打算のある、ハレの日である。なので、婚姻を結ぶ家の者は、式場や衣裳をふんだんに盛り立て、多くの家にその姿を刮目してもらおうと躍起になる。なので、二人の執り行おうとしている“静かな式”とは、貴族にとっては破格に不名誉な代物なのだ。
「……それを、貴方のお父様や、ブランチェスタのお義母様がお許しになるとは、到底思えないけれど」
 アイジーの言葉に、ジャレッドは「だろうとも」と返した。
「なので、説得しうる妥協案として、後日、結婚披露パーティーを催すことになっている。それこそ盛大に、だ。君に送った招待状はそちらの話だったんだけど、」ジャレッドは不思議そうにした。「式のこと……彼女から聞いてはいないのか?」
 二人の契りのことではあるが、アイジーにとってより身近なのはブランチェスタのほうだ。婚姻の報せが届いた時点で、アイジーがブランチェスタに祝いの言葉を述べていたとしても――それこそ、ついさっきジャレッドがされたように、式のコーディネートに口出しをしても――おかしくはない。その過程がありさえすれば、アイジーが披露宴のことを知るのだって、もっと早かったはずだ。
 アイジーは憂うように吐息した。
「あまり口外していいことではないのだけれど……いま、シフォンドハーゲンはいろいろとたてこんでいるから」
 訝しそうに眉を寄せるジャレッドに、「大したことではないのよ」とアイジーは続けた。
「継承問題で少し揉めているだけ」
「……次期当主はエイーゼだろう?」
「もちろん。けれど、エイーゼ曰く、他の選択肢も存在すると」アイジーは微苦笑した。「だから、ここ最近は《オズ》にも行っていないし、ブランチェスタとも会えてはいないの」
 他家の事情に口出しできないが、シフォンドハーゲンもなにやら問題を抱えこんでいるらしい。ならば、アイジーにとって、二人の婚姻はなによりの吉報であり、それに参加できないかもしれないことはなによりの悲報であったはずだと、ジャレッドは思った。
「……すでに家の要求を充たすので手いっぱいだけど、その披露宴の内訳には、君の意図を反映させるのも吝かではないさ。あくまでパーティーだから、挨拶に回りやすい格好がいいが……レース素材のプリンセスラインだろうと、月桂冠だろうと、彼女が許すのならいかようにも」
 そういうことならと納得するだろうとジャレッドは思ったが、アイジーの表情は芳しくないままだった。眉は顰められたまま、けれど、これまでとは違い、どこか心配そうな表情で「どうして」と呟く。
「なにが?」
「あなたたちらしいといえばらしいのだけれど、なんだか、少し、気になって」
 アイジーは途端、しおらしい表情を浮かべた。完全無欠の美貌に憂愁が浮かぶと、その顔立ちはたちまちあどけなさを生む。淑女として成長したアイジーだが、こういうところは昔と変わらないと、ジャレッドは思った。
「……なにもおかしなことじゃない。ただ、僕が、式には大勢の人を呼びたくないと言ったら、彼女もそうだと答えたから、そのようにしたまでだ。らしいだろう?」
「そう。なら、いいのよ」アイジーは続けた。「ねえ、ジャレッド、私はね、ブランチェスタのことも大事だけれど、ブランチェスタを大事にしてくれる貴方のことも大事なのよ。だから、あなたがそれでいいなら、本当にそれでいいんだと思うの。あなたたちは、そういう二人なんだと思うの」
 それは、どういう二人なのだろうか――ジャレッドはぽつんとそんなことを思った。
 このアイジー=シフォンドハーゲンという人間は、真に自分たちのことを考えてくれている。そんなこと、三年間の交友でとうに気づいているし、ジャレッドもアイジーのことはちゃんと認めている。あくまで二人は兄弟伝いの、友人伝いの関係でしかないけれど、それでも関係はあるのだ。呪われた者同士、彼女の兄以上に共感しあえる感性だってある。ジャレッドとアイジーはきちんとした友人であり、アイジーはジャレッドとブランチェスタのことを祝福していた。
 だから、ジャレッドは言うことができなかった。
 ただ自分には、大勢の目の前で誓う意気地が――彼女を縛る意気地がないだけなのだと、言うことができなかった。





 ジャレッドは《人魚姫の呪い》に脅かされている。恋が成就しなければ泡になってしまう、ざっくばらんに言うなら“失恋すると死ぬ”という、とても奇っ怪な呪いだ。呪解方法は発見されておらず、死なない方法だけが存在している――失恋したとしても、その夜のあいだに愛した人間を殺せば、生き長らえることができるのだ。
 そんな人魚姫の呪いに脅かされていたジャレッドであるから、幼い時分より、恋というものに焦がれることなどなかった。恋などとは大いなる賭けであり、しかも“命賭け”のものだった。特定の誰かに傾倒するなんて危険なことで、もしその思いが破れでもしたら、己は死に、死にたくなければ相手を殺すしかないのだ。幸いなことに剣の腕は立つのだから、殺すことに、そう苦労はしないだろう。しかし、もし本当に剣を向けざるを得なくなったとき、それを振り下ろすことができるのか――そんな差し迫った危機感が、現在に至るまでの彼を形成し、他人と係わりを持ちたがらない、無愛想の人柄を作りあげた。冷え冷えとした容姿は周囲の印象に拍車をかけ、騎士のような洗練された身のこなしがそれを増長させた。おかげと言っても差し支えなかろう、彼は十五のころまで惚れた晴れたの一切も味わったことのない、理想どおりに淡泊な人生を歩むことができた。元より貴族というものは大人から婚約者を宛がわれることのほうが多く、恋愛結婚をする者のほうが少なかった。ならば、たとえ呪われていようと関係ない、結婚した相手を好きになればいいだけ、恋もしないのだから失恋だってしない――彼はずっとそう割り切っていた。それで全ては丸く収まるはずだったのに。
 いつのまにか、彼は、幼い少年が絵本のページをめくるように容易く、焦がれてしまっていた。
 恋をしたいと。
 他の誰でもない彼女と、恋をしたいと。
 恨めしく思うような我が身の有様だ。それこそ、これまでが水の泡になるような、愚かしいことだ。けれど、悔いを抱くこともままならないほど、その時間は静かで、穏やかで、慈しかったのだ。
 彼女を婚約者として迎え入れた夏からずっと、彼は、羊皮紙に埋もれながら微睡んでいるかのようで、生暖かい木肌に背を預けているかのようで、指先を花びらが淡く掠めたかのようだった。その稲妻色の瞳を見るたびに、心が溶けていくような情調を覚えた。これは、危ないものだ。愚かで、死んでしまうようなものだ。そうは思っていても、ジャレッドは、契りを結ぶことで己を納得させ、彼女といることを選んだのだった。そうありたいと願ったのだった。
 けれど、本当にそれでよかろうか。
 己の都合により、彼女を縛りつけてしまうのではないかと、いよいよ婚姻を結ぶというときになって、ジャレッドは臆してしまった。
 彼にとって、彼女はお伽話だった。幼いころに触れた、忘れ形見の女の子。みんなが忘れてしまったから、自分だけは覚えていようと思った。そして、彼女には幸せになってほしいとも。
 婚約という貴族の都合により、彼女を縛りつけてしまうのは忍びない。それでも、ジャレッドには、手放してやる優しさも意気地もない。もしも彼女を手放したら、きっと己は泡になる。ぶくぶくと溶けて消えていく。しかし、本意でない彼女と添い遂げたとして、彼女が他の男と恋に落ちたとして、心のない形だけの契りに、なんの意味があるだろう。やはり己は泡になる。天に昇ったあとどうなるかは知らないが、己にとっての幸福はそこにはない。己の望みはただ一つだけなのだから。考えれば考えるほどたまらない。
 彼は真っ暗闇の中にいた。瞼を閉じていても閉じていなくても、なにも変わらない、果てなしの闇の中だ。
 どうしようかと打ち伏している。どうにかすることができていたら、諦めきれていたら、こんなふうに打ち伏していない。永久の時間をこうしているのかと思ったとき、ジャレッドは気づく。
 比喩でもなんでもなく、己が暗闇の中で、打ち伏していることに。

「――気づきましたのね」

 真上から降り注いだ声にぞっとした。
 そして、その声を聞いた数瞬間のあいだに、己が誰かの膝に頭を乗せ、眠りこけているのだと察した。いわゆる膝枕だ。しかし、頬から味わう感触は、ゆったりとしたシルクの生地でも、ほのかな人肌のそれとも違った。ガラス細工のように繊細な、鱗の波だ。
 彼はその主を見上げる。
「気分はいかがですかしら」
――ああ、これは、夢なのだ。
 真珠光沢のように煌めく人肌と、怪しげな魚の尾を持つその姿を見て、自分は夢の中にいるのだとわかった――そして、彼女の正体も。
 こんなことがあるのかと疑ったけれど、己の感覚は正直だった。なにより、メイリア=バクギガンやアイジーの書いた論文の中に、これに類似した現象を記したものがある。ただの根暗の憂鬱の産物。そういうことかと、ジャレッドはこの夢を受け入れた。その顔は歪んだ。
「……僕は、おまえが、嫌いだ……」
 彼女は痛ましそうにジャレッドを見つめた。ジャレッドの双眸は震えていた。
「おまえがいるから、僕は、きちんと恋に落ちることさえできない……」
 その言葉にはどれだけの想いがこめられているのか、きっと誰も推し量れやしないだろう。彼は大切な友人にすら、己が呪われた身であることを告げなかった。色めき立つ周囲を傍観して、死んでしまうことを恐れて、一人で本を読んだ。誰にも見つからないように黄色い煉瓦の道を辿り、己が解放されるすべを探した。冷めたふりをして、ずっと煮えくり返っていたのだ。今日までもずっと。
 ジャレッドを見つめる呪いの目は変わらない。痛ましそうで、ジャレッドに心底同情している。
「大丈夫ですわ」呪いは続ける。「きっと、全てがうまくゆきますもの」
 彼と彼女がうまくゆかないわけがないのだと、その呪いは信じている。知っていると言い表してもいいだろう。緩やかな時間の狭間、凪いだ二人が座っていて、それはまさに絵に描いたようなのだ。完璧な物語を綴られることが約束されているのだ。
「化鳥の娘も言いましたでしょう。あなたたちは、そういう二人なのだと」
「どういう二人だ」あのとき言えなかったことをジャレッドは強く吐きだした。「僕も彼女も呪われているのだから、呪われた者同士は寄り添って。そういうことか」
 そういう二人――アイジーも、この目の前の呪いも、彼に同じことを言った。なにも、そう言ったのはアイジーたちが初めてというわけではなく、これまでにも幾度か似たようなことを囁かれてきた。そのたびに彼は、どういう二人なのだろうと疑問を抱きながら、その真意を探るのを厭い、おすまし顔で居直った。
 ジャレッドの言葉に、呪いは悲しげに目を細めていた。どうして己を呪う忌まわしい存在が、そのような顔をするのか、ジャレッドにはわからなかった。
「……貴方といることが彼女の幸せだとは思わないのですか?」
 ジャレッドの形相は殊更歪んだ。
 義母を喜ばせる材料にしかならないと、かつては婚約には不本意だった彼女。けれど、これまで彼女との仲が悪いようになったことは一度としてなく、彼らは非常によい関係を築けている――彼女も同じ気持ちであると楽観して、期待して、これでよいのだと看過しつづけた。
 それがこのざま。
 婚姻を公表してしまったのだから、もう後には引けない。彼女の本意を聞かないまま、彼女を自分に縛りつけてしまう。自分を幸せにするのは彼女でも、彼女を幸せにするのは自分ではないかもしれない。どうか彼女も幸せならと、夢見るばかりなのだ――これまでの穏やかな時間を彼女も好いていたならいい、と。確信ではなく、希望的観測だ。
 立派な脚も声もあるのに、彼は己の本心を一度として告げたことがなかった。想いを告げて、万一破れでもしたら、死んでしまうからだ。死なないためには相手を殺すしかなく、けれどそれがどうしてもできないことを、呪いとてよくわかっている。
 結局、恋というのは惚れたほうの負けなのだ。どれだけ想っていても、焦がれていても、偉大なる彼女の前では無力なのだ。
「大丈夫ですわ」呪いはもう一度、言い聞かせるように囁いた。「貴方を阻むものなどきっと、ただ貴方が望みさえすれば、なに一つなくなるでしょう。こんなに素晴らしいことはございませんわ」
 ジャレッドの眼差しは変わらなかった。呪いはもう一つ続ける。
「誓って。賭けてもよいですわ。私の命を」
「……呪いに、命など?」
「化鳥や名もなき英雄にすらございますもの。人魚に持ち合わせない道理がありまして?」
「僕の恋が破れたら、僕と共に死ぬということか?」
「死出の旅路に案内は“憑き物”ですもの。それに……どうせ私はほどなくして消えて無くなるのですからね。ようやっと」


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