ブリキの心臓 | ナノ

3


「……いいや」テオドルスはカウンターの近くにあった、一つの小さな台に座りこんだ。「俺は今日、ミス・ヤレイではなく、ユルヒェヨンカ=ヤレイに会いに来たんだ」
 ユルヒェヨンカは目を見開かせる。そして姿勢を崩し「よかったあ」と呟いた。
「私、もう馬鹿じゃあないけど、難しい話なんてわからないから、困ってたんだ。本当は、お金のお話よりも、昨日みた夢のお話とかがしたかったの」
「そうだな。成人した男が年下のレディーに吹っかけるには、あまりにくそめんどい話だぜ。ユルヒェヨンカ嬢、俺の身内が失礼をした。その非礼を詫びよう」
「えっ、だめだよ、謝らなくていいよ」
 ユルヒェヨンカは両手を前に出して言った。緩やかな声だったにもかかわらず、そのときばかりは、どこか焦るような、小走りの調子だった。
「だって、あのひとね、きっとあんなにえらいはずのに、小さな私に笑いかけて、頭を下げてくれたんだよ?」ユルヒェヨンカは照れくさそうに言った。「ふふふ……きっと優しくて素敵なひとなんだね」
 自分の身内がこうも容易く褒められるのは、なかなかどうして気恥ずかしい。社交場での世辞になど、とうの昔に慣れ果てていたはずなのに、この娘から紡ぎだされる言葉は、砂糖菓子のように甘く、耳に届く。害意や斜に構えた心を抱けない、抱かせない、おそろしいすべを、彼女は生来持っているのだろう。穏やかな心地になりながら、テオドルスは冷静に分析していた。
「よく言われる。誰も彼も、セオドルドを魅力的だと」
 実際にセオドルドは魅力的だし、セオドルド自身、そう見えるように振る舞っている。商売をする者に必要なのは、物腰と、愛想と、よい見目だ。現実的に見えてくる結果の数字として、彼はそれを理解していた。
 ユルヒェヨンカもウンウンと頷いている。
「そうだね。昔、アイジーが言ってたの。女の子はみんなあのひとが好きなんだって。本当に王子様みたいで、それを思い出しちゃった」
「それは、アイジー=シフォンドハーゲンのことか?」
「そうだよ」ユルヒェヨンカはぱっと顔を綻ばせた。「なあんだ。貴方もアイジーのお友達? だったら、うんとサービスしなくちゃね。グミの触感がするチョコはいかが?」
 やっぱりアイジーとは顔見知りだった、と思いながら、テオドルスは「一つ頂けるか」と呟く。
 ユルヒェヨンカは背後にあった箱を漁りながら続ける。
「それでね、昔、アイジーにあのひとのことを聞いたのを思い出して……ああ、でも、貴方を見ても思い出したよ。これって幸運なことだよね」
 ユルヒェヨンカは、テオドルスにお菓子を私は。
 カウンター越しに受け取ったそれを、テオドルスは眺める。かわいらしい、子供受けのする包装紙だ。キラキラと光沢していて、見ているだけで楽しい。甘い匂いもする。
「幸運とは嬉しいお言葉だ。なにがそれほどにまで幸運で?」
「えー、んーと、そういえばなんだろ、わかんないや」
 わからないか、そうか。
 テオドルスは何度も頷いた。彼女の暢気な言葉に、不思議と、不快感は抱かなかった。だが、エイーゼやゼノンズあたりは嫌いそうだな。そう見当をつけてみる。
 お菓子を口に含めば、愉快な触感。そしてたしかなチョコレート味。なるほど、これは奇妙で、悪くない。
「いいな、これ、気に入った」
「うふふ。そうでしょうとも」ユルヒェヨンカはえっへんと、小さな子供のように胸を張った。「ミスタ・ボーレガードもおっしゃってくれたの。このお菓子が一番好きだって」
 貴方も一緒。やっぱり似ているのね。テオドルスが目を見開かせているのを見て、ユルヒェヨンカは楽しそうにそう続けた。
 テオドルスはもう一度、包装紙を見遣る。そのあいだにユルヒェヨンカは「今日は来てくれてるありがとう」と告げる。
「あのね、ミスタ・ボーレガードにお伝えしてほしいの。お引き受けします。近々お手紙を送りますので、こちらに出向いていただく必要はありません。こちらからお伺いします。そう、伝えてほしいの。よろしいかしら」
 テオドルスは、包装紙からユルヒェヨンカへと、視線を移した。ユルヒェヨンカは柔らかく目を瞑っていた。
「私はまだ未熟だから、きっと上手くいかないこともあるだろうけど、乗り越えていくよ。できる気がする。私はもう、そこそこに立派な脳みそをしているし、隣人はとても誠実なんだもの」
「いいのか、ユルヒェヨンカ=ヤレイ、相手は貿易商とはいえ、貴族だぞ。俺が言うのもなんだが、いろいろと不安だろう。まだ完全に店を継いだわけでもないのに。あんたのことを、心配しているやつらを、何人か知っている」
「それを聞いて、もっと確信しちゃった。貴方がここに来てくれたから、きっといいの」
 自信満々に言ったユルヒェヨンカだが、テオドルスにはよくわからない理論だった。セオドルドやゼノンズなら、わかっただろうか。それとも、アイジーになら、わかっただろうか。テオドルスが理解するには、ユルヒェヨンカのことを知らなさすぎて、けれど、ユルヒェヨンカは、一を聞き、一を見て、三を得るのだ。不可思議な一の存在は、自分だったのかもしれない。
 これだから、“ミスタ”や“ミス”が頭につくことが決まった人間は。
 そう、テオドルスは肩を落とす。
「今日ここに来て、あんたを見て、あんんたとしゃべって、わかったよ……あんた、意外と聡いやつなんだな」
「ありがとう」
「このお菓子以外にもいいものを食わせてもらった」テオドルスは気を抜いたように足を組んだ。「きっとお前は大成するよ。大変だろうが、精々、がんばってくれ。それを願っているやつもいる」
「ありがとう」ユルヒェヨンカは頬を染めつつも、にんまりと、悪戯っぽく笑った。「そう言ってくれたひとにも、そう伝えて」
「誓って」
 いい土産話ができた。そう思いながら、テオドルスが包装紙で手遊びをしていると、ユルヒェヨンカは「あ」と呟いた。
「そう言えば、私、まだ貴方の名前を聞いてなかったな。アイジーの友達なら、私の友達だよね」
 それはどうだろう、と思ったが、悪い気はしなかったので、テオドルスは答えることにした。
「テオドルス=ボーレガード。いつどこで会うかもわからないが、そのときはよろしく頼む」
 こうして、テオドルス=ボーレガードとユルヒェヨンカ=ヤレイのささやかな邂逅は、幕を閉じたのである。後日、ユニコーンの角とボーレガードが正式に契約を結んだと発表された。それは、貴族の社交界を激震させるようなことでも、ボーレガードに華を添えるようなことでもなかったけれど、本当になんでもない、ボーレガードにとってはよくある契約の一つだったけれど、それでも、一人の少女が、自らの家のために、新たな一歩を踏みだした暁なのだと、テオドルスはひっそりと知っていた。
 しかし、テオドルスは知っているだろうか。
 ユニコーンの角とボーレガードとの契約を聞きつけた、親愛なる友人の麗しき双子の妹が、またもやお茶のないアフタヌーンティーに招待してくることを。
 意外にも面白い、年上の貴族の子息が、ユルヒェヨンカからの伝言を聞いた途端、表情を強く歪めることを。
 お節介をしてもいいことなどない。そう、テオドルスは頷いたけれど、もう一人の親愛なる友人の朗報を聞きつけ、至極どうでもよくなった。この心根こそが、たとえ彼が悪人面であっても、悪人ではありはしない、確固たる証拠なのであった。





毒を食らわば君まで



| ×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -