ブリキの心臓 | ナノ

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 ほんの少し前まで、“ユニコーンの角”のミス・ヤレイといえば、夫ともに店を切り盛りする、妻・ツィエニヤータ=ヤレイそのひとであった。温和で器量よしだったツィエニヤータは、赤子のころに与えられた予言どおり、村一番の正直者である男と結ばれ、ヤレイの姓を得た。そこで授かったのが、ユルヒェヨンカ=ヤレイという赤毛の娘であり、いまの“ユニコーンの角”のミス・ヤレイである。
 アンデルセンの子供が家業を継ぐのは、アイソーポスの子息が家督を継ぐのよりも早い。かといって、成人してすぐに代替わりが行われるわけではなく、徐々に仕事を任されていき、気がついたころには店全体を取り仕切っている、というのが大方の流れだ。
 将来的に自分のものになる店を勉強するためにも、アンデルセンの子供は皆、幼いころから家の手伝いをするものだ。シオノエル=ケッテンクラートは薬屋の、アンダスタン=シーノウは技術屋の、そして、ユルヒェヨンカ=ヤレイはお菓子屋の手伝いを、店番をしていた。“ユニコーンの角”のお菓子は、ミスタ・ヤレイとその妻・ツィエニヤータが作っている。そのお菓子の販売をユルヒェヨンカは任されていたのだが、彼女が十五歳の秋ごろだったか、己のアイディアが創作菓子の一つに取り入れられるようになり、それから次第、お菓子作りにも関わり始めている。ユルヒェヨンカへの仕事の比重が重くなっていったこと、また、“ユニコーンの角”の販売を担当することで、純粋に表に出ることが多くなったことから、ミス・ヤレイといえば、娘であるユルヒェヨンカを指すようになっていった。
「貴女が、この“ユニコーンの角”のミス・ヤレイですね」
 なので、このように、店に来た男に声をかけられたときは、ユルヒェヨンカに対してなのである。
「そうですけど、貴方は?」
「申し遅れました」男は魅力的な笑みを浮かべ、恭しくお辞儀をする。「私はセオドルド=ボーレガード。まだ駆け出しの貿易商です。以後お見知り置きを」
 なので、挨拶に来たのが、たとえアイソーポスきっての“癖”者貴族であるボーレガード家の長男であったとしても、それはユルヒェヨンカに対してなのである。
「“ユニコーンの角”の素晴らしい商品の数々を、世界に売り出してみませんか?」





 アイソーポスきっての“癖”者貴族の次男坊・テオドルス=ボーレガードは憂鬱だった。
 元来の悪人面と名高い彼が、目つきを鋭くさせ、眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をすることはあっても、それはあくまでそういう顔なのであり、決してなにかに憂いたり憤ったりしているわけではなかった。ご自慢の身長から誤解されがちだが、彼は悪人面なだけで、悪人ではない。お淑やかを身につけたクソガキ、遊び足りない紳士と、友人のエイーゼ=シフォンドハーゲンならびにジャレッド=シベラフカは語る。緩急の激しい物言いこそあれど、実際に憂うような心根はしておらず、そういう意味では、逆境に素直ではない性格をしていた。
 現在、彼が憂鬱なのは、目の前にいる、自身の友人の双子の妹・アイジー=シフォンドハーゲンという存在だった。
「それで、いったいどういうつもりなのか、説明してくださるかしら? ミスタ・テオドルス=ボーレガード」
 息を呑むほどに完璧な、美しい容貌を鋭くさせて、アイジーはテオドルスに言うのだった。
 普段は“テオ”と愛称で呼ぶテオドルスに対し、フルファーストで呼ぶどころかファミリーネームまで述べたうえ、“ミスタ”と敬称をつけるあたり、相当の怒りを抱いていると見える。
 ここでアイジーがミスタ・ボーレガードと言わなかったのは、テオドルスが“ミスタ・ボーレガード”ではないからだ。アイソーポスの子息が家督を継ぐのは、アンデルセンの子供が家業を継ぐのよりも遅い。なので、現在の“ミスタ・ボーレガード”は、彼の父であるレオナルド=ボーレガードにあたる。そもそも、テオドルスが、正式な意味で、ミスタ・ボーレガードと呼ばれる日は来ないだろう。ボーレガード家を継ぐのは彼の兄であるセオドルド=ボーレガードであり、彼ではないからだ。
 そう、セオドルド=ボーレガードである。
「……俺に言われてもなあ」恨むぜお兄様、とテオドルスは心中で唸った。「わかるだろ? 俺は仕事のことに関してはそう多くは知らされてない。今回のことだって、セオドルドの独断だろうさ。あのひと、最近は以東との貿易業を任されてるし」
「あら。全く知らされていないというわけではないのでしょう?」アイジーは眇めるように笑った。「私のお父様が将来なにをエイーゼにさせるのか、娘の私には知る由もないけれど……ミスタ・ボーレガードが自分の子息を手ぶらにさせるほど猫可愛がりしているとは到底思えないもの」
「まあ、たしかにアイジーにはシフォンドハーゲンは任せられまい。それがたとえ一端であったとしてもな」
「いいのよ。エイーゼを傀儡にしてしまえばある程度の融通は効くから」
 ここにはいない友人の未来を案じながら、その妹が年々恐ろしくなっていくのを改めて実感するテオドルスなのだった。
 テオドルスにとって、彼女、アイジー=シフォンドハーゲンは、友人の双子の妹である。初めて会ったのは十五歳になる前の春。二度目に会ったのは十五歳になってからの春だ。そのころのアイジーは、箱入り娘と呼ぶにふさわしい、実に儚い少女であった。長いあいだ屋敷で匿われていた娘とだけあって、肌の色は白く、そのシルバーブランドは眩いほど清廉で、双子の兄とお揃いの深いスミレ色の瞳は、恥じるように濡れていた。突然出てきた“シフォンドハーゲンの娘”に深い猜疑を抱くも、ここまで双子の兄に似ていれば、本当にシフォンドハーゲンの娘なのだろうと、テオドルスがアイジーへの抵抗感を拭うのは瞬く間であった。その態度がアイジーの社交界参入を違和感のないものにしたことに、残念ながらテオドルスは気づいていない。アイジーがそれに若干の恩義を感じているのにもだ。アイジーとてその恩義は日常的に忘れている。
 ともかく、互いに、友人の双子の妹であり、双子の兄の友人である、この二人の仲は、良いとも言えず、しかし悪いとも言えない、微妙なものであった。
 だから、そんなアイジーからアフタヌーンティーの誘いを受けたとき、テオドルスの脳はたちまちに嫌な予感を弾きだしていた。仲よくしたいがための誘いなのだとか、そんな愚かな期待などはしない。かつてのアイジーが自分に対し、どちらかといえば恐怖に近い感情を抱いていたのには気づいていた。今でこそ、対等に話せるようになったが、あの苦手意識が根本から抹消される日は来ないと見ている。だからこそ、わざわざこうして自分を呼び出すのは、きっとただごとではないに違いない。主に自分にとって不利益なほうに。そしてそれは大当たりで、シフォンドハーゲン邸の大きな庭、薔薇の花が姦しい、モザイクタイルのガゼボに対面して腰かけている今、テオドルスは非常に面倒くさい状況に陥ってしまっていた。どこの世界にお茶のもてなしもないアフタヌーンティーパーティーが存在するのだ。ここは地獄か。
 そんなテオドルスの心境にもお構いなしに、アイジーはさらに切りこんだ。
「ボーレガードがアンデルセンのものに手を出し、それを国外へ売っ払って利益を得ているのは、私だって知っているわ」
 散々な言いようである。まるでボーレガード家が悪魔であるかのような口ぶりだ。
「けれど、まさか、“ユニコーンの角”にまでその手を伸ばすなんて……いったいなにを考えているの?」
「それなら俺だって聞き返そうか。アイジー、お前、なにを考えてる?」テオドルスはテーブルに片肘をついた。「アンデルセンのお菓子屋である“ユニコーンの角”と、アイソーポスの貴族であるお前に、なんの繋がりがあると? 大嫌いな俺を呼び出してまで聞き出したいとは、ずいぶんとお熱のように見受けられる」
「ただのファンよ」アイジーはおすまし顔で告げた。「あの素晴らしいお菓子をどうこうされるとなっては、私だって黙っちゃいられないわ」
 嘘だな、とテオドルスは思った。全てが嘘のようには感じないし、どこに嘘が混じっているのかはわからないが、アイジーの言うこと全てが真実だとは、どうしても思えなかった。
 アイジーの考えなど全て筒抜けなようで、これでもわかりにくくなったものである。三年前のアイジーであったなら、こうも取り繕えはしなかった。アイジーと、“ユニコーンの角”のミス・ヤレイが友人であるということ――これを辿ると、アイジーにとって不利な、《オズ》に通いつめる呪い持ちであることまでばれる恐れがある。そのため、アイジーは、無闇にユニコーンの角との関係を言い張れない。ユルヒェヨンカ=ヤレイは、ジャレッド=シベラフカと婚約したブランチェスタ=マッカイアのようには扱えない。だから、アイジーは、テオドルスに対して、その底知れぬ友愛を、曝けだすことができなかった。そして、曝けださないためのコミュニケーション能力を、この三年で身につけている。
 面倒だ、とテオドルスは素直に思った。三年前のアイジーなど、いっそ憐れを感じるほどまでにわかりやすい女の子だった。特に悲しみや恐れなど、マイナスの感情面であればあるだけ彼女自身手に余るだろうほどで、一見して薄幸、あわや幽霊かと見紛えるほどだった。
 それがここまで取り繕えるようになったとは。人間としての充実を感じられるとともに、テオドルスは、つまらん、と身勝手なことを思った。
「話を戻しましょう」
「元々話してない」
「なんにせよ、ボーレガードがユニコーンの角と接触したのは事実。しかも、異国へ向けて売り出そう、ですって?」
「いいことじゃねえの」
「ええ、そうね、素敵だわ。それが、ミスタ・ヤレイに対してでなく、その娘のユルヒェヨンカ=ヤレイに対しての申し出でなければね!」
 怒ることで凄みを増した美しさが、テオドルスの視界を占領した。近い。
「レディーが気安く顔を寄せるな。俺でなければどうこうされてるぞ」
「貴方だからいいの」アイジーは続ける。「なんだか狙いすましたようだわ。店主のミスタ・ヤレイでなく、その娘である彼女な声をかけるなんて。ミス・ユルヒェヨンカ=ヤレイが、《カカシの呪い》を受けていたと知っての狼藉かしら」
「知るか。もう一度言うぞ。俺はなにも知らない。それ以外に言うことはない」
「信じがたいわね」
「誓うぞ。俺とエイーゼの仲だ、エイーゼの双子の妹であるお前に対してだって、俺の格別の優しさを分けてやることは吝かではない。もしもなにか知っていたら、微に入り、細に入り、お聞かせしただろう」だがな、とテオドルスは続ける。「まず、じきに家督を継ぐ人間が、じきに家業を継ぐ人間と接触することが、それほど不思議なことか?」
 学生時代の交友関係が、そのまま将来の人脈を形成することは多い。知らぬ家よりも知る家。名前しか聞いたことのないどこぞよりも、苦楽を共にし、信頼に足る友人とこそ、仕事を共にしたいと思うのが人間だ。
 実際、テオドルスがグレイスの姉弟と交友を持ったきっかけは、その打算によるところが大きい。もちろん今では利害を差し引いてよき友だが、グレイスにしたところで、ボーレガードの名を利用しようという思いはあっただろう。グレイスの紅茶は国内のみでの流通となっている。これまでボーレガードは、グレイスと取引をしたことがなかったのだ。そこでテオドルスは、いずれどこかの方面の貿易を任されたとき、手始めにグレイスの紅茶を売ってやろうと考えていた。グレイス姉弟も、自分たちが仕事をするときは、まず外国への輸出だと息巻いている。ギルフォード校の紳士淑女は若くもしたたかであった。
「ビジネスだよ。アイジー。お前には縁遠い話かも知れないけどな」
 アイジーは不服そうな顔をした。しかし、少なくとも、テオドルスがなにも知らされていないことには納得している。
「……それよりも、お前、実はこの状況はとてもやばい」
 テオドルスの言葉に、アイジーは「なにが?」と問い返す。
「忘れてくれるな。俺たちはもう十八の男と女だ。結婚だってできる」
「私、貴方とはしたくない」
「光栄だな、俺もだ。だが、世間はそうは思わない」テオドルスは眉を顰める。「俺を邸に呼びつけるとはなかなかの英断だ。おしゃべりなメイドたちが吹聴したりでもすりゃあ、次の社交場では俺とお前の甘い噂で持ちきりになるだろうよ」
 アイジーは不敵な、かつ美しい笑みを浮かべ、「馬鹿ね。まだ私を無知なだけの娘と思っていて?」と囁く。
「アフタヌーンティーに呼んだのは貴方だけではないわ。ただ、貴方は“時間を間違えたのか、お茶の準備もできていない時間に、シフォンドハーゲン邸に着いてしまった”だけ」
 この程度のことを角砂糖だと思ってつつく人間なんて、そうまでして周りの気を引きたい小さな家の者だけでしょうね。
 そう続けたアイジーは、まさに、貴族の王族・シフォンドハーゲンの人間であった。
 たまにアイジーは、こうして貴族の女の顔をする。それは、見つめる先が貴族の社交場だからなのだろうとテオドルスは思っていた。現に、中流階級であるとはいえ、アンデルセンの庶民の枠を出ない、ブランチェスタ=マッカイアといるときのアイジーは、貴族の社交術など知りもしない、純朴な娘のように見えるのだ。
 外に出ることで、社交場への出席を重ねることで、洗練されていったアイジー。それがいい変化なのかどうかは、テオドルスには計りかねた。
「まあ、いいわ、見逃してあげる。話はおしまいにしましょう、テオ」
 アイジーは表情を崩し、緩やかな笑みを浮かべる。あのころとほとんどかわらない、あどけなく真っ白な笑みだった。
「ボーレガードの決定を、私一人が崩せるわけがないもの。貴方のお兄様やお父様には、どうか黙っていてね。でないと私、お二人に目をつけられてしまうから」
「おいおい。そんなことをするほど、俺は悪いやつに見えるのか?」
「顔はね」
 この双子は兄妹そろって、ひとを悪人面と言う。そうテオドルスが顔を顰めたとき、「けれど」とアイジーは続ける。
「もし貴方のお兄様がなにか怪しい動きをしたときは、貴方も同罪よ。私は、許してあげられる自信がないわ」もう一度、その表情は、天使から悪魔へと変貌する。「テオ。私がシフォンドハーゲンの名を用いるのを嫌う人間であることが、貴方にとって、最大にして唯一の救いであることを、どうぞお忘れなきようにね」
 その発言こそがシフォンドハーゲンの名を使った脅しなのだと、テオドルスは思った。元々、アイジー=シフォンドハーゲンは傲慢ちきな少女であると認めていたテオドルスだが、年々それに拍車がかかっていくように感じられる。
 テオドルスはアイジーの頭をわりと真剣に小突いて「エイーゼに叱られるぞ」と返した。
 アイジーはすぐに仔犬のように激昂し、「エイーゼに言いつけてやるから!」と小突かれた頭を押さえた。全く面倒な女である。
 しかし、何故アイジーは、ユルヒェヨンカ=ヤレイがカカシの呪いを受けたことを知っているのだろう。
 テオドルスは不思議に思い、けれど、すぐにどうでもよくなって、詮索するのをやめた。この心根こそが、交友における長続きの秘訣であった。


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