ブリキの心臓 | ナノ

2


 体の芯はひどく熱いのに、手は凍るように冷たい。激しく脈打つ心臓は、その手を震わせる後押しをする。足もそれに従って、しかし勇ましく、影を落とす階段を下っていった。
 これほどまで一歩一歩が重く感じられたことが未だかつてあっただろうか。
 自分の体が金属になったように硬く重く、夜風に晒され氷のようだ。水沼に沈んでいくかのような悍ましい感覚に身の毛がよだつ。
 けれど、アイジーはそれを咬み殺すように、泡やかな微笑を浮かべていた。
「今度こそ、私は返せるのよ。エイーゼに。十六年間取りあげていたものを、贈ってくれたものを、分かち合えたものを返せるの」
「自分のためだと知ったら、彼はきっと怒るだろうに」
「エイーゼためじゃないわ」
「……僕のためだと言ったら、僕はきっと怒るだろうけど」
 アイジーは振り返る。
 ジャバウォックの、血が凍るほど美しい顔がハッと視界に広がった。漆黒の髪が闇に溶けこみ、その間から獣の血の温かさを思わせる黄金の瞳が、もの問いたげに自分を見つめていた。
 アイジーは真っ白い袖の腕を広げて、誇らしげに言う。
「私のために、逝くのよ」
 ちょうど一年前にも、同じようなことを言ったのを思い出した。あれは十五歳の誕生日だった。涙を流しながら、愛しい彼の腕の中で。
 けれど今日は、今日だけは涙なぞ流さない。自分を抱きしめる優しい腕もいらない。アイジーは自分の手だけで、事の顛末を、結末を迎えるつもりだった。それが《名前のない英雄》の、唯一無二の役目なのだ。
 昔から、エイーゼには黒い服を、アイジーには白い服をと、そう決まっていた。それに倣ってか、いまだってアイジーは白い服を着ている。それはまるで死に装束のようで、だとしたらエイーゼの黒は喪服といったところだろうか。昔から、決まっていた。それをただ自分の意志に変えるだけだ。なにも苦しいことなどない。自分が苦しむ必要など、一つもない。
 アイジーは足を止める。地下牢に着いたのだ。そこはとてつもなく真っ暗で、火もなしには息もできないようなそんな気がした。壁に埋めこまれた燭台から灯りを頂戴し、地下牢一面を照らす。硬質な金属の檻よりも、壁一面にかけられたもののほうが息を呑ませた。トパーズ色の光を浴びてギラギラと光るのは何枚もの刃だ。それは斧であったり劔であったり、はたまた槍や短剣だったりした。
「おっかないわね」
「護衛官のコレクション?」
「知らないわよ。雰囲気作りかも」
「笑えないな」
「笑わせないためにあるんでしょう」
 アイジーはその中の一つである短剣をひどく緩慢な動作で持ち上げた。存外に重い。遠くで見たときよりもずっと重くてずっと太くて、そしてずっと恐ろしいその刃に、アイジーは唾を飲みこんだ。
 苦しむ必要などない。苦しむことなどなに一つないのに、張り裂けそうな心臓が止まらない。震えが収まらない。唇を噛み締めなければ、思わずこぼれ出る感情を抑えきれない。
 わかっているのに、知っているのに、頭のなかでは、心細い胸の奥では、どうして私がと嘆くような責め声が血管を巡ろうと抵抗する。
 長い睫毛が震えた。華奢な肩が沈んでいた。どれだけの強がりを言っても果てしない怯えは止まらない。けれど、それをジャバウォックに悟らせないよう、アイジーは嫣然として見せる。
「貴方は、どうか目を瞑っていてね」
 これからする残酷なことを、彼には見てほしくなかった。
 ジャバウォックは苦痛そうに目を細める。自分を慈しんでくれているようで、それだけでアイジーは救われた。
「……後悔はないのかい?」一秒一秒を噛み締めるような声だった。「君はその生涯を、憎んだりしていないのかい?」
 その言葉にアイジーはびっくりした。震えていたはずの短剣を持つ手がぴたりと止まったほどだ。彼のひたむきな眼差しに一瞬気圧される。自分の決意を確認している眼だと思った。まだ後戻りはできると誘惑する蛇のような優しい眼。けれど、その優しさに、今日だけは縋ってはいけない。もう甘えることは許されない。アイジーはなんでもないように、彼に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「私、この人生が好きだったわ。エイーゼを愛し、シオンに救われ、ユルヒェヨンカと重ね、ブランチェスタに憧れ、そして貴方と共にあった――この人生が、心臓が堪らなく愛おしい。だからこそ、貴方たちへの想いごと持っていくの」
 たしかに、アイジーは呪われていた。親の顔に泥を塗るような、兄に恥をかかせるような、扱いに困る忌々しい娘だった。災厄の子だと言われたし、死ねばいいと囁かれたことさえある。けれど、生まれてこなければよかったと思ってはいない。この人生でどれだけの幸せと出会えたか。この世に生まれなかったもしもを考えるとどれだけ胸を痛めるか。自分の生涯は素晴らしいものだったと、胸を張って言える。
「捧げるならば死と共に」
 これは揺るぎない思いだった。
 アイジーを奮い立たせた奇跡の一つだった。
「……呪われていたのにか?」
「いたのによ」
「君は呪いを肯定するのか?」
「するわ」
 アイジーはきっぱりと断言する。
 次はジャバウォックが目を見開く番だった。
 万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称――呪い。しかし異国ではそれを呪いとは呼ばず、それどころか、害悪を齎すものだとすら認識していないのだという。ある国ではそれを《不治の病》といい、ある国ではそれを《念》という。挙句の果てには《神のご加護》とまで称する地域も存在する。
 実際のところ、《呪い》とはなんなのか、あまりよくわかってはいない。
 時代によって変わるものだろうし、風土によっても大きく異なる。あくまでただの事象に近く、もしかしたら夢や幻の類であるかもしれないのだ。だったらなんでもいいじゃないか。呪いじゃなくてもいいじゃないか。人によって解釈が変わるなら、概念の名称に縛りがないのなら、アイジーはそれを呪いとは呼ばない。
「私が思うにね、呪いって――《才能》なんじゃないかしら」
「才能……?」
 そうよ、とアイジーは強く頷く。
「カカシの呪いに犯されていたユルヒェヨンカは、一度会った人間のことを忘れないという特技を持っていた。灰かぶりの呪いに犯されたブランチェスタは、不幸に塗れているにも関わらず誰よりも強い意思を持っていた。バンダースナッチの呪いに犯されたシオンは、人一倍の自制心と太陽のような優しさを持っていた。そして私は、息の根を止めなければならない心臓を持ちながら、嬉しさも楽しさも悲しさも愛おしさも、もっともっと尊い感情さえも知ることが出来た」
 死ぬはずだった十五歳の誕生日から一年間。本当にたくさんのことを、アイジーは知った。呪われていなければ気づくこともなかったであろう、美しく、優しく、素晴らしいものを。
「私はきっと誰よりも、生きることは素晴らしいのだと知っている」
 きっとそれを知るために、私は生かされ、生きてきたのね。それを知れたから、感じ、思い、触れることができたから、私は今日……。
「今日、死んだとしても、悔いはないほどのものをね、得たと思うの……幸せだった」
「…………」
「貴方が傍にいてくれて本当によかった」
 アイジーの幸せそうな笑顔を見て、ジャバウォックはさっき見せた表情を更に強くする。
 ジャバウォックは呪いだ。ただの呪いであり、アイジーを脅かしていたものの元凶だ。彼さえいなければアイジーは誰よりも幸福な人生を歩めるはずだったし、災厄の子だと言われることもなく、十五年間も邸に引きこもることなく、なによりこんなところで命を落とすことなく、生きていけたはずだった。
 だというのに、当の彼女はこうして自分に対して微笑んでいる。それだけならまだしも、傍にいてくれてよかったと、真実そう思っているような声音で自分に囁きかける。
「僕は、君を脅かす呪いなのに」ジャバウォックは絶望的な無表情で続ける。「僕を殺せば、君は死なずに済むはずだ。君が死ぬ必要などこれっぽっちもないんだ。君だけが背負いこまなくても、いいんだよ、アイジー」
 アイジーは彼のことを気の毒なものを見つめるような目で見る。彼がどれだけ思い詰めていたのかを今改めて知ったのだ。だからこそ、アイジーは彼を否定しようと思った。アイジーはその言葉を容易く紡ぐことができた。
「貴方の心臓に短剣を突き立てるなんてできるわけがないじゃない」
 彼の頬に手を添える。それは夜のように冷たく、けれど星の輝きのように温かい。
「そうでしょう? 思い返せば、貴方はいつも私に対して誠実だった。夜に見守ってくれる星のように、私を真摯に照らしてくれた」頬を撫でていた手を下ろして、彼の手を掴む。「あのね、ジャバウォック」
 バイオレットグレーの瞳とゴールドの瞳が線を描くように重なる。アイジーは穏やかに微笑んで目を瞑る。
「貴方に、言いたいことがあるの」
――それは、シオンには伝えられなかった言葉だった。
 彼に言うにはあまりにも無防備で、暗闇の中だけしか輝けないような言葉は彼の光の中では溶けてしまって、どれだけの想いも彼の前では羽根のように軽く、だからこそ伝えることが出来なかった。
 けれど、自分と同じく真っ暗い中にいる、目の前のこの自分自身になら、はっきりと伝えることが出来る。



「ずっと傍にいてくれてありがとう」



 ジャバウォックは目を見開く。
「慰めてくれてありがとう。背中を押してくれてありがとう。手を貸してくれてありがとう。守ってくれてありがとう。誠実でいてくれてありがとう。たくさんの想い出を、本当にありがとう」
 たとえ伝え切れなくても伝えたい、感情の多さに美しい響きを忘れたとしてもかまわない。喉元で絡まって痛みに変わろうと、伝えられないことを思えば少しも感じない。生まれたときからずっと傍にいてくれた彼に、アイジーが返せるだけの全てだった。
「私は私のために逝くの。エイーゼを死なせたくない、貴方も殺したくない。私の我が儘につきあわせちゃって、本当にごめんなさい」
 月光色に煌めく髪がさらりと肩を滑り落ちる。それを見つめるジャバウォックは、もうなにも言えなかった。ただ名残惜しそうな眼差しと言葉を選んでいるような唇が、彼の誠実さを表していて可愛いと思えた。
 アイジーは短剣を両手で握り締める。真っ暗な天井を仰いで、祈るように目を瞑った。
 お父様、お母様、今まで育ててくれて本当にありとうございました。エイーゼ、愛してるわ、許さないと言ったのに勝手に死んでしまってごめんなさい。ユルヒェヨンカとブランチェスタ、楽しいことを全部一緒にするはずだったのに、愚かな私をどうか許して。リジーとの約束も破ってしまった、きっと貴女は悲しむんだろうな。リラ、貴女とのお手紙は本当に楽しかった、私が死んでもまた手紙を書いてくれると嬉しいわ。シェルハイマーとハルカッタ、貴方たちのことは好きじゃないけど、実は嫌いでもなかったわ。テオとジャレッドはエイーゼをよろしく、ジャレッドは私のお友達もね。ゼノンズも今までごめんなさい、もしかしたらこれからは、少しだけ仲良くなれたかもしれないのに。デッド副指揮官、ペレトワレ教授、お世話になりました、二人の優しさに、私は安らぎを感じていました。バクギガン教授には心からのごめんなさいを、貴女はこんな私に、死なないでと言ってくれたのに。
 一体何人の、いくつの“死なないで”を無下にしてしまうのだろう。どれだけの人の期待と声を、残酷にも引き裂いて死ぬのだろう。考えるだけで闇に沈む。一筋の涙が頬を伝う。
 アイジーは心臓に短剣を突き刺した。
 痛いなんてものじゃない。熱くて冷たくて、そして急激に消えていく。なにがかはわからない。魂か、意識か、それとも希望か。もうなにも見えなくて、なにも聞こえない。絶望の宇宙に取り残されて淘汰されていく哀しみのよう。沈んでいくのはきっと体だけじゃない。暗い感情を抱いたまま、アイジー=シフォンドハーゲンは生涯を終える。

 だから、残しておいたのだ。

 最後に幸せな気持ちになれるように、あの輝きで満ちるように。何故なら、彼を思い出すということは温かい希望の光に包まれたままうたた寝をするようなもので、彼を好きになるのは幸せよりも素敵ななにかを歌って迷うことのない道を進むようなものだったから。貴方は希望の光、暗闇のなかで迷子になってしまった私を、救ってくれる温かな太陽。光なら、ここにある。
――シオン。
 心の中で名前を呼ぶ。それだけで自然と胸のなかが満ちる。もう暗闇も痛みもない、手を伸ばしてくれた少年は、死ぬ間際に来てまで自分を救ってくれる。それだけが全てだ。他にはもうなにもない。これ以上ない想いで、アイジーの心臓は動くのをやめた。
 今まで本当にありがとう。最後にさよならも言えなくてごめんなさい。ただ一つ、一生のお願いを、我が儘を言わせて。


 もしも私が生まれ変わっていつかまた出会えたら、貴方はもう一度私のことを友達と呼んでくれますか。







愛しい死

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