ブリキの心臓 | ナノ

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 これを誰かが読んでいるときには、私はもうこの世にはいないでしょう。
 まさか自分がこんな言葉を綴る日が来るなんて思ってもみなかった。いえ、自分がこの世からいなくなることはきっと強く覚悟していたことなのですが、まさかこんな遺書を残すだなんて考えたこともなかったのです。遺書というよりはこれは論文であり、私が推察する私を取り巻く呪いの全てです。教授として、これだけはしなければならないことだと思うから。
 私は《ジャバウォックの呪い》に犯されていて、そしてそれ以上に《災厄の子》でした。災厄の子であることを知っていたのはごく少数の人間で、私と私の家族、ジオラマ=デッド副指揮官とミス・メイリア=バクギガン、そして他でもない私の呪いである《ジャバウォック》だけでした。
 黙っていた人には申し訳ないけれど、言うに言えなかった私を理解してください。こんな地獄みたいなこと、本当は誰一人にも知られたくなかったのです。
 赤ん坊のころに私に与えられた予言は“どちらか一方が死ななければ、もう一方が死んでしまう”という災厄なものでした。私と双子の兄であるエイーゼを並べて預言者に希ったものだから、これは私かエイーゼかどちらかが死ななければならないという予言だと勘違いしましたが、実はそうではなかったのです。私はジャバウォックの呪いに犯されていながら《名前のない英雄》でした。本来ジャバウォックの呪いに犯された人間を殺す役目を、私自身が担っていたのです。おわかりでしょうか。これは、英雄かジャバウォックか、二つに一つという予言のはずだったのです。けれど予言は捻じ曲がり、結果最悪な方向へ転がってしまったとジャバウォックは言います。
 ジャバウォックの呪いに犯されていたアイジー=シフォンドハーゲンは名前のない英雄だった。そしてそれ故に死ぬ必要もなかったし、しかしそれ故に災厄の子だった。
 双子の神秘に絆されたせいで蝕まれたエイーゼは今や死にそうになっている。私はそれをどうしても止めたい。
 エイーゼが死ねば英雄と怪物は助かり。
 怪物が死ねば英雄とエイーゼは助かり。
 英雄が死ねばエイーゼは助かり、けれど怪物はどうなるかわからない。
 ここまで書き記しておけば、あとは聡明なバクギガン教授が補足をしてくれることでしょう。私はそろそろしなければならないことがあるので。
 きっと私にはわかる。
 明日なのです。
 今日を逃せば、きっと明日にはエイーゼは死んでしまう。
 時計の針が十二時を指してしまえば、今までかかっていた偶然の魔法は解き放たれて、待っているのは不幸だけ。私は大いなる剣を抱いて、それまでに決着をつけなければならない。私は“選択”をしなければならない。誤ってはいけない。後戻りができなくなる前に、決断をしなければならない。
 長居をしてもいられない――我々はひとまず別れを告げることとしよう。





「まるで白鳥の歌のようだね」
 いつもよりも彼の声が鮮明に聞こえる。そのベルベットのように艶のある落ち着いた声は、深い暗闇を器用に縫って、アイジーの心に沁みていく気がした。
「いや、むしろ猫の類かな。誰にも死体を見せない、見せたくない。律儀にあんなものまで書いて、次はどこへ向かっているんだい?」
「地下牢よ。護衛官が悪いことをした人間を閉じこめる部屋」
 アイジーは真夜中の《オズ》の階段を亡霊のように降りていた。論文用の羊皮紙に文字を綴り、提出申請を済ませ、誰もいない空気を肌で感じながら、自らの足で寂しい世界へと進んでいく。自分とジャバウォックの声だけがやけに響くのを美しい月明かりのもとで聞いた。足音すら神聖で、自分がこれからなにをするのかを思い知らされているようなそんな気がした。
 いつもよりも雄々しく鼓動する心臓、バタバタともがく小鳥のように飛び跳ねて、今にも胸を突き破りそうだった。もしかしたら最期の時が来る前に一生分の鼓動を打ち終えておこうとしているのかもしれない。生きるために脈を打っているはずなのに、アイジーは限りなく死に近づいていた。
「自分のことを、罪人だとでも?」
「さあ、どうかしら。もう今の私には、自分のことを責める力も残ってないの」アイジーは切なげに微笑んで続ける。「ただね、あの厄介な二人から昔聞いたことがあるのよ。あそこの部屋は、おっかないって」
「どういう意味で?」
「今の私にとっては、とても都合がいい意味で」
 ジャバウォックは笑わなかった。ただアイジーの意志を尊重するように、アイジーの三歩後ろを保つように歩いている。アイジーの貴金属のようなシルバーブロンドが靡くのをなんとも言えない眼差しで見つめていた。華奢な肩が愁いていた、ここからの角度では見えないスミレ色の瞳が臥せっていた、桃のように青く甘い形の良い唇が泣きそうになるのを堪えているのをただただ悟りながら黙っていた。きっと生きたいだろうに、死にたくないだろうに、彼女は今から愛おしい世界に別れを告げに行く。それも、あの半身からしてみれば死んでも許せないような、半身を救うためという、愚かしく誠実な理由で。
「君は本当にそれでいいの?」
「私に選択権があるんでしょう? だったら私の自由じゃない」
「僕はそれでいいのかと聞いたんだ」
「愚問ね」アイジーは努めてきっぱりと、強い口調で言い放つ。「それでいいから、今私はここにいるんじゃない」
 言いたい言葉は決して言ってはいけない。怖いだなんて、そんなこと、考えてはいけない。
 泣いてしまいたい。
 縋ってしまいたい。
 けれど、最愛の兄が決してしなかったことを、妹の自分がしていいわけがない。
 アイジーは心臓のあたりをぐっと握り締める。


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