ブリキの心臓 | ナノ

2


 アイジーは彼らにさよならをして時刻を確認する。帰れと言われた時間の三十分前。アイソ―パスに戻ったころには少し門限を過ぎるくらいか。それなら大丈夫だろう。明日はパーティーがあるのだからイズの説教も時間がかからない筈だ。もし長引きそうになったらパーティーを理由に逃げおおせればいいだけの話だし、最悪エイーゼも庇ってくれるだろう。きっと上手くイズを宥めてちらりとアイジーを見て“次は気をつけろ”とアイコンタクトをくれる筈だ。そんな兄を想像してアイジーは顔を綻ばせた。
 しかしそこで、はたと、妙な感覚に取りつかれた。
 気づいたのだ。そういえば最近、エイーゼの顔を見ていないな、と。勿論朝食を取っているところも見たりするし学校へ行くところも見ているのだが、どういうわけか時間のリズムが変わってあまりエイーゼと話せなくなった。自分も《オズ》へ行っているためひとのことは言えないのだが、にしても話す機会は減る一方だった。
――まあいいや。
 アイジーは気にせずに歩く。どうせ帰ったら会えるのだし、明日はパーティーもあるのだ。一々そんなことを気にしていたらよぼよぼのおばあちゃんになってしまう。それこそガチョウ婆さんのように。
 廊下を抜け、階段を降り、人気のないホールへ差し掛かったあたりで真っ黒い妙な気配を感じた。それはスンとアイジーの真後ろに立ち、特別な存在感を放っている。アイジーはハッとして振り向いた。それはまさしく久しい、ジャバウォックの姿だった。
 アイジーは目を眇めた。彼は冷たい表情のままなにも言わなかった。
「ご挨拶ね」
 アイジーは自嘲するように笑った。
  多分僕は、君にしてみればとても多くのことを知っている。君の知りたいことの全てを、知っていると思う――あの日からアイジーはジャバウォックと一言も話していない。話せる日がいったいいつなのかもわからないまま。アイジーはただなにも知らない恐怖に打ちひしがれていた。それがいま、こうして自分の目の前に不気味に立って無表情に、けれど冷えたように自分を見下ろしている彼がいる。アイジーは気構えるように口を開いた。
「どうしたの? ようやっと、私に話す気になった?」
(そうだね)
 ギョッとした。流石のアイジーも強く息を止める。
 あれだけ頑なに拒絶していたのにこの手の平の返しようはなんだと思った。それもかなりいきなりの話で、アイジーは混乱してしまう。
「本当にいきなりね」
(無駄話をしている時間は、もうないかもしれない)
 アイジーは眉間に皺を寄せる。
「どういうことなの?」
(言っただろう、僕はギリギリのギリギリまで君に重要な選択をさせたくないと)
「言っていたわ」
(それが今だ)
 ジャバウォックの声はあくまで落ち着いていた。性急な空気も焦った調子も持ち合わせない、いつも通りの艶。けれどそれには冷えたなにかが孕んでいて、だからだろうか――彼の星のような瞳が、絶望しているように見えたのは。
(おそらく、もう、限界だ)
「限界って……随分と突飛ね」
(そう突飛でもない。本当はずっと前から決まっていたことだから)
「どういうことなの?」
(君を冷静にさせている時間はない。君が知りたいことの全てを、多分僕は知っている)ジャバウォックは一度瞬きをした。(まず君に隠していたことの一つを明かそう)
 どんな爆弾が放りこまれるのかとアイジーは唇を引き締めた。ジャバウォックの呪い、運命の日、名前のない英雄、災厄の子。アイジーが聞きたいことはたくさんあったし、知らないだろうこともたくさんあった。アイジーは彼の目をじっと見つめ、その唇が開かれるのを待った。
(僕はエイーゼ=シフォンドハーゲンとある約束をしている)
 けれどそれは――アイジーが気構えていたこととおよそ違うものだった。もっと別の意味で、もっと突飛な意味で、アイジーは目を見開く。
(だから僕は君に秘密を持っていたと言ってもいい。君の愛しい兄に言われたから、僕はそれに従うことにした)
「待って」アイジーはゆるゆると首を振る。「意味がわからないわ」
(説明している時間はない)
「いいえ、説明してもらうわ。だって、そうでしょう? どうして私の《呪い》である貴方がエイーゼと話ができるのよ」
 “呪い”とは、万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称である。運命であり、命運で、それと同時に自分自身なのだ。《呪い》の姿を見れるのは呪われた人間だけ。何故なら呪いとは自身の中に存在するからだ。
「冗談のつもりなの? それとも真実?」
 アイジーは挑発的に言った。ジャバウォックは表情を変えなかった。
(――君は、双子の神秘を信じるか?)
 アイジーは「はあ?」と気の抜けた返事をしてしまった。顔も随分と間抜けだった。
「それって、あれよね? 双子の強い繋がりのこと」
(そうだ)
「えっと、そうね……私は信じてないわ」
(君の兄は、君の信じていないものを信じている)
 バイオレットグレーの目が見開かれる。
(正しくは、信じざるを得なくなった、だ。元は君と同じで信じていなかった。けれど、信じるしかないだろうな)一拍置いて。(夢の中で、実の妹を蝕む呪いの姿を目にしたのなら)
 今度こそ、アイジーは自分の口から心臓が飛び出るかと思った。覇気のない声で「えっ」と緊張気味の音色を吐き出す。
(君と僕は《呪い》と《呪われた者》いう糸で繋がっている。だから姿を認識できるしインナースペースにも表れる。そしてその《呪われた者》であるアイジー=シフォンドハーゲンという存在には一際強く絆されている糸がある。糸というよりもそれは骨だ。骨であり、血肉であり、なによりも強い絆)
「…………」
(それこそが、《双子の神秘》だよ)
 アイジーはごくりと唾を飲みこむ。
「エイーゼとの絆である《双子の神秘》を仲介して、貴方と彼が巡り逢わさったということ?」
(そうだ。最初は敵意を向けられたが、話せばわかる少年だった。だから僕は真実を話し、彼に委ねることにした)
「……なにを?」
(タイミングを)
 ジャバウォックは言った。重い声音だった。
(君たちの双子の神秘というのは実に深く強い。君は《ジャバウォックの呪い》であるはずなのに、どうして自分は災厄の子なのか、それもどうして双子の兄限定なのか、ずっと疑問に思っていたね)
「ええ……」
(それも双子の神秘で説明がつく)
「どういうこと?」
(片方が生きているからこそ片方は蝕まれ、二十歳の成人を迎えるまで、どちらか一方が死ななければ、もう一方が死んでしまう。どちらかを、選ばなければならない――君が赤ん坊のときに与えられた予言だよ。アイジーかエイーゼか、二人に一人。双子のうちのどちらかを殺さなければならない)
「…………」
(けれど、それは間違いだ)
 アイジーは眉を曇らせる。
(予言自体は外れではないが、解釈が違う。君か双子の兄か、どちらか一人という意味ではない。正しく言い替えれば――“アイジー=シフォンドハーゲン”か“ジャバウォック”か、そういう意味合いを含んでいたんだ)
「私か、貴方か?」
(そう)ジャバウォックは頷く。(本来なら、君は《ジャバウォックの呪い》という死の呪いに犯されながらも、決して死ぬことのない運命にあった。ちょっとした偶然で、君は九死に一生を得る運命にあった。実はね、アイジー、皮肉にも……君と君の双子の兄は、別に命の後悔をしなければならないほどの宿命なんて、最初からなかった筈なんだ)
「…………」
(けれど君が僕と“向き合った”ことで運命は狂いだした。それを含んで予言していたのなら、あの預言者は少しイカれた宇宙のようだと思うよ。君は《ジャバウォック》と出会い、歯車が狂いだした。本来なら十五年も邸に引きこもることなんてなかったのに、やっと出られて生きることを許されたのに、僕と出遭ったばっかりに、君は重い宿命を背負わされた)
「……もっと具体的に言って」
(君は生まれたときから死ななくてもよかったし、双子の兄を庇う必要もなかった、それはある偶然のおかげであり、けれどそれは僕と向き合うことで意味を為さなくなり、むしろ最悪な方向に進んでいった。その最悪のタイムリミットが二十歳なのであり、君の兄の運命がそこで止まるわけではない。君たちは大いなる勘違いをしていたんだよ)
 アイジーは茫然とした。目の前の真っ黒い青年がなにを言っているのかわからなかった。頭が働かなくて、理解しようとしているのに、上手く咀嚼できない。それでもぼんやりと影は掴んでいて、脳みそのなかは不気味なまでに鮮明だった。
(きっと予言を貰ったときに君とエイーゼが隣り合わせでいたのがいけなかったんだろう。あれで予言は混乱し、解釈は捻じ曲げられた。そして君は僕と出会い、運命が狂った。ここでだ。ここで双子の神秘と繋がる――狂った運命は双子の神秘により、エイーゼ=シフォンドハーゲンを蝕む形で現実となった)
「それって、エイーゼの体が弱いこと?」
(……話を続けよう。双子の神秘で《呪い》による影響が君の双子の兄に流出した、これが君が《災厄の子》である理由だよ。エイーゼ=シフォンドハーゲン限定に起こり得る災厄、その原因だよ。ある偶然のおかげで君は救われもして、けれどやはり脅かされた。僕がいなければこうならなかったことには変わりなく、やはり君は《災厄の子》だった)
「――ある偶然ってなに?」アイジーは弱々しく呟いた。「さっきから、ある偶然って……何度も何度も言っているけれど、それってなんなの?」
 双子の神秘に絆されたアイジーとエイーゼ、ある偶然が引き起こした余波によって災厄の子となったアイジー、そしてある偶然のおかげで死の呪いに犯されていながらも死を迎えることなどなかったアイジー。ここまでは概ね理解できた。しかしその“ある偶然”とやらがなんなのかはまだ理解できていない。アイジーは混乱の色を瞳に映していた。
(……アイジー、君の名前の意味を、君は知っているかい?)
 ジャバウォックは目を伏せた。
「えっと、知らないわ」
(思いつくことはある?)
「ないわ。どういう意味なの? “アイジー”って」
 ジャバウォックは押し黙るように息を吸った。それから何度か口を開いては閉ざして、重苦しいドアを押すように、その一言を漏らす。
「“エイーゼ”」
 アイジーは言葉を失った。それから暫くして「は?」と素っ頓狂な声を漏らす。
「なに、それ」
(君の父親が怠惰につけた名だ。君の双子の兄には、並一通りでない素晴らしい名前をと言って、“エイーゼ”と名付けた。けれどいざ娘の君となると、どうやら名付けることに飽きたのか、“エイーゼ”の異国読みである“アイジー”を君の名前とした)
「お父様ったら……」
 アイジーはふうっと呆れの声を漏らして肩を落とした。
 その様子を見つめるジャバウォックは言葉を続ける。
(だからアイジー、君の名は、正確にはエイーゼのものだ。君の名には“エイーゼ”しか存在していない。君の名前は名前というにはひどく絆が脆すぎる。それは軽薄で、虚無で、皆無で――つまるところ、ないんだよ)
 ない、無い。
 その言葉もその言葉の意味も、ひどく聞き覚えがあった。それはずっと自分が囁いてきた音で、自分がずっと恐れていた音だ。
 彼の言わんとしたことをわからないアイジーではなかった。アイジーのバイオレットグレーの目は見開かれ、緊張に瞳孔が煌めいている。心臓の音が険しかった。まるで氷のつぶてでも無理矢理詰めこまれたかのような寒さにいっそ気を失いたかった。
 ない。無い。意味はなく、自分のものでなく、それは軽薄で虚無で皆無で、だから自分にはない。そして、歪でおかしな、ある偶然。



「――私が、《名前のない英雄》なの?」



 それは突然だった。階段を忙しく降りて行く音。きっと女性なのだろう。その靴の音はヒールとわかるくらい甲高かった。足音の主はアイジーの姿を見つけると、すぐさま「シフォンドハーゲン!」と声を荒げた。
 それはバクギガンだった。
 彼女にしては珍しくアイジーを呼び捨てにしたが、彼女の顔はそれどころではなかった。いかにも走ってきましたと息を詰まらせる肩はさっき会ったときよりもずっと激しい。彼女はアイジーに詰め寄った。それから肩をやんわりと掴み、「落ち着いて聞いてくれ」とにじり寄る。
 まだ混乱気味のアイジーにまるで追い打ちのような言葉が彼女の口から紡ぎ出される。
「伝達鸚鵡で連絡が入った」目を細める。「エイーゼが、君の双子の兄が、瀕死の状態らしい」
 目を見開く。なにもわからない。体が動かない。心臓は苦しい。真っ黒な怪鳥はなにも話さない。
 いま、なんて、彼女は、なんて、わからない、わからない、わか、らない。

「……はあ?」






名も無き哀れな英雄へ

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