ブリキの心臓 | ナノ

2


「私、誰がなんと言おうと意思を曲げるつもりはないわ。私はもうこれから先、あのひととは関わらないのよ」
 第一、今回のことや、それ以前のこと、全部ゼノンズが悪いのだというのがアイジーのスタンスであり主張だ。彼が自分に向ける優越感だか支配欲だかは本当に不愉快で、それを向けられたことのない周りになにを言われたところで意思を曲げるつもりなどさらさらない。
「まあ……アイジー自身のことだしな。別にいいけど」
 ようやっとブランチェスタが自分にとって好ましい返事をしてくれたので、アイジーは満足げに顎を引いた。
 丁度そのとき、開いていた窓からひゅるりと風が吹いた。いっそう激しく周りの木立を揺らして寒さを強調させる。まるで氷河から直接吹いてきたみたいだ。アイジーが両腕を摩ると、ブランチェスタは窓を閉めようと一歩縁に近づく。しかし手をかけたとき、その緑の目は窓の外に意識を飛ばした。
「護衛官だ」
 護衛官? それはどっちのだろうと思ったのがアイジーで、口に出したのがジャレッドだった。
「えーっと、サーベルを持ってる」
「アルフェッカ=ハイネか」護衛官が二人いる、ということ以外詳細を覚えていなさそうなブランチェスタに、ジャレッドは淡泊に返す。「そういえばここに来るときも護衛官に会った」
「どっちの?」
「アリス=ヘルコニー。誰か探してるみたい」
 大方、あの厄介な二人か、ファルコやロイスあたりに手を焼いているのだろう。ブランチェスタはそれ以降特に気にもせずに、バタンと窓を閉めた。
「探してるって言やあ、バクギガン教授とグランフェルト教授も誰かを探しているふうだったな」
 ブランチェスタの言葉にアイジーは薄く笑う。
 まさか教授位である二人にも目をつけられようとは、どっちの二人組かはわからないがとんでもないことをしたものだ。これにジオラマ=デッドが加わればいよいよまずい。そんなたいそうなことをしでかすなんて本当に子供だ。
 そう思っていると、ふと、隣に人がいることに気づく。さっきまではいなかった気配、ブランチェスタやジャレッドとも違うものだ。
 アイジーは数歩下がってその人物の全体像を掴む。どこか浮世離れした青年だった。カソックにも似た革製のフロックコートを着崩すように纏い、強いコントラポストで佇みながら、隣の窓から高そうなオペラスコープで外を見下ろしている。いかにも品の良い顔立ちは愉悦する哲学者のような笑みを浮かべており、華やかな金髪はその輪郭を縁取って隙間風に揺れていた。
 見慣れない青年ではあるが場馴れしているような雰囲気もある。
 何者だろうと構わないがじろじろ見ているのも不躾だろうとアイジーは目を逸らした。
 しかしそのとき、その青年の手がにゅっと伸びて、自分の肩にかかる。振り向くとその青年は自分を見つめていて、悪戯っぽくにまっと笑った。明確な年齢の掴みにくい童顔とも取れる顔の唇から素直そうな声で「実はね」と切り出されるのを、アイジーはただびっくりとした目で見つめていた。
「君たちの言っていた四人が探してるの、多分僕のことなんだ」
「えっ」
 いきなり言われたことに訳がわからなくなりアイジーは声をあげる。しかし目の前の彼は「しーっ」と口元に指を当ててその声の音を消す。
「四人だけじゃないんだ。多分この《オズ》中のみんながみんな僕のことを探してるんだ。だからバラさないでね。こうやってあの子たちが慌ててるのを見るのが大好きなんだ」
 オペラスコープの向こうに映っているのはきっと護衛官に違いない。アイジーもちらりと窓の外を見ると、護衛官のもとにペレトワレが合流したのが見える。それを確認した途端、青年は「げっ」と嫌そうな顔をした。
「物知り屋のキーナを出してくるとは小癪だな」
 青年はオペラスコープを持っていないほうの指をパチンと鳴らす。するとたちまち外にいる護衛官とペレトワレの真上に大きな毛布が一枚現れて、二人に覆いかぶさるように崩れ落ちる。
「えぇええ!?」
 アイジーは思わず叫び声をあげる。叫び声を上げたのはアイジーだけでなくブランチェスタもだった。ジャレッドはぽかんとしてただ窓の外を眺めている。
「はっはっはー、実に愉快愉快!」
「ちょっ、あ、ねえ、あの、貴方! いったいいまなにを!?」
「うわああえ? なんだアイジー!? なに一人で叫んでんだ!?」
 ブランチェスタがアイジーのほうを振り向く。アイジーは自分の隣でケタケタと笑う青年を指さして訴える。
「こ、このひとがなにかやったのよ! 指を鳴らしたら何故かペレトワレ教授たちのところに毛布が!」
 あたふたと言葉を並べるも、ブランチェスタはぼんやりとした顔をする。ジャレッドも緩慢な動きでアイジーのほうを振り向き、それから首を傾げて尋ねた。
「このひとって?」
「だから、この男の人!」
「え……」ジャレッドは更に無理解そうな表情をして続ける。「このって、誰もいないけど?」

 アイジーは血が逆流するような心地を覚えた。

 目の前の二人は訝しげな眼を自分に向けているが、嘘をついているようには見えない。アイジーは振り向く。あの浮世離れした青年が、にっこりと自分に向かって微笑んでいた。さっと顔から血の気が失せるのを感じる。
「あ、ゴメンゴメン。今は君にしか見えないようにしてるんだった。ほら」
 また青年はパチンと指を鳴らす。するとブランチェスタとジャレッドは驚きに満ちた表情をした。ブランチェスタなど小刻みに眉をひくつかせて「え、え? いきなり、え? ひとが、え?」ともだもだ声を漏らす。
 その様子をひどく楽しそうに笑う青年は、一人余裕の雰囲気を醸し出していた。
 なんだ。この目の前の男は、いったい何者なんだ。全身に緊張が走る。まるで金縛りにでもあったかのようだった。浮世離れした――それどころか安全か危険かもわからない青年に、アイジーは言葉を失くす。
「ああ、悪かった。そんなに怖がらないで。これ、お近づきの印ね」
 これってどれだ、と思っている間に、彼はまたパチンと指を鳴らす。次はなにが出てくるのかと怯えていると、こつんと頭でなにかが跳ねた。痛みと痒みの混ざったような小さな衝撃にびっくりしていると、それはぼろぼろと雨のように膨らんで降ってくる。ブランチェスタたちも声をあげた。足元にバチバチと音を立てて散らばっていくそれは、金色の包み紙をした甘い匂いのするお菓子たちだった。
「どれでも好きなのをどうぞ。あ、マシュマロとかのほうが好きかい?」
 何度かパチンパチンと連続して指を鳴らすと、なにもない空間にぴょこんとうさぎのお尻のようなマシュマロが三つほど浮かびあがる。暫く魅入っているとそれは急激に大きくなり、次の瞬間には廊下を埋め尽くすだけの大きさにまで膨らんでいった。泳ぐようにもがいているとマシュマロの奥でケタケタと楽しそうな笑い声が聞こえる。混乱してなにも考えられなくなっているが、あの青年に対するイライラははっきりしていた。しかしこうも手足を塞ぐマシュマロがあっては掴みかかることも出来ない。縮こまるように埋もれるしかないアイジーたちの耳に、女物の凛々しい声が突き抜けた。

「“鎮まれ”」

 ふしゅるるるる、とまるで風船から空気が抜けていくみたいに、廊下を埋め尽くしていたマシュマロは萎んでいく。真っ白だった視界は剥げ落ちて、リアルな世界と再会する。目の前には不機嫌そうな顔をしたあの青年――そしてもう反対、ジャレッドのいるほうの奥に、外したばかりの錠前を左手に持つメイリア=バクギガンが、対面の青年を睨みつけていた。
「なにを、しているんだ、貴方は」
「あーあ、見つかっちゃった。しかもあのメイリア嬢とは」
 もう逃げおおせないな。そう言って肩を竦める青年を、バクギガンは凄むように諌めた。
「おふざけはやめていただきたい。しかも、第五期生たちにいらぬちょっかいまで……」
「いらぬちょっかいじゃない。お近づきの印さ」
 また青年はパチンと指を鳴らす。今度はバクギガンの周囲に先ほどと同じようなマシュマロが、十も百も溢れかえる。それは次第に膨らんでいって、一瞬で彼女の姿を見えなくした。
「“持ち主の元へ帰れ”」
 しかしその言葉と同時に――彼女の周りで蔓延っていたマシュマロたちは、まるで弾丸のように青年のほうへと向かう。青年は笑顔を消して、手をすっとあげて宙のどこかを掴む。まるでジッパーを下げるかのような音が鳴ったかと思うと、そのマシュマロたちは青年の作ったジッパーホールの中に吸いこまれていった。傍目から見ればマシュマロが消えたとしか思えない。小説の中にしかないような想像を絶するやりとりに、ただただ圧倒される。
「いたな! 動くな!」
 やりとりに夢中になっているうちに、廊下の両端からぞろぞろと人がやってくる。ジオラマ=デッド、キーナ=ペレトワレ、護衛官二人にその他の教授位の人間。異様な空気が生まれて、アイジーたち三人は呆気にとられる。
 青年は溜息をついて集まってきた人間を眺めまわした。
「こりゃあまあ、ぞろぞろと」
「もう観念しろ。というよりもさっさとこの書類に判を押せ! 今日が締切だと一か月前からずっと言っていただろうに」
「言ってただけで僕は了解してないよ」
「ふざけるな!!」
 書類。締切。今日。その単語にアイジーはどこか既知感を覚える。けれどその正体まではわからなくて、ただ首を傾げるだけだった。
「だいたい論文を読むのって堅苦しいから嫌いなんだよ。みーんな小難しい単語ばっかり選んで使うんだから。それに大体はキーナから聞いてるからわかってるよ。メイリアが僕みたいなことして噂のアイジー=シフォンドハーゲン嬢が狼少年の呪いについてのあれこれやジャバウォックの呪いについてのあれこれがどうのって」
 自分の名前が出てきたことにアイジーはびっくりした。
「適当に僕の机から判を借りて押せばよかったのに、みんな律儀で嫌になるな」
「お前なあ……!」
 ここでガヤガヤと外野は騒ぎ立てる。アイジーもブランチェスタもジャレッドも、ただただ固まるしかなかった。そこはかとない場違い感に、三人は顔を見合わせてそろそろと静かに足を動かす。
 この騒ぎに乗じて逃げてしまおうという作戦だ。もう時間も時間だし、このわけのわからない空気に呑まれるのも嫌だった。さあて帰ろうと壁に背を這わせた途端――青年がパンパンと手を撃ち鳴らす。
 それは世紀末にしか訪れない宇宙現象のような一瞬だった。
 オーロラ色の風が吹いて周囲の顔を覆うように色とりどりのリボンがしゅるりと現れる。それは蛇のようにまとわりついて口元を塞ぐような動きをした。ぽんぽぽんと頭のあちこちから花々が溢れだし、爆竹のようなクラッカー音が轟いた。金銀宝石の紙吹雪と火薬の匂い。荒々しく静まり返った一面に、青年の声が雷鳴する。
「この私をなにと心得るか! 私はステュアート朝皇位第六位、国家機関《オズ》を仕切る頭取・ソルノア=ステュアートだ! ここにいる限り、私が法、私が規律、私が国家だ! 頭に生えた花に根を這わせたくなければ静粛に!」
 アイジーは目を見開く。
 非難がましい周囲の目が、一点に向けられるのを茫然と見ていた。
 この国の第六王子。国家機関《オズ》の頭取。
 《魔法使いの呪い》に犯されると聞く、今まで姿かたちすら知らなかった――《オズ》のトップ。
「判は押す。でも読むのは面倒だから、メイリアとアイジー=シフォンドハーゲンは後日僕のところまで口頭説明しに来ること。解散」





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