ブリキの心臓 | ナノ

1


(君って、なんで落ち着けないんだ?)
「今回は私が悪いわけじゃないわ。っていうか私が悪かったことなんてほとんどないもの」
 もう慣れたもので。アイジーは《オズ》にいるあいだ、ずっとゼノンズに遭遇しないよう気を張っていた。挙動不審になるのはシェルハイマーやハルカッタから逃げていたとき以来だった。
 ゼノンズと言いあってからアイジーは徹底して彼を拒絶していた。その徹底ぶりといったら、ジャバウォックの力を借りて半径百メートルにすら入ろうとしないほどである。潔癖症と表すとゼノンズには悪いが、そう言っても過言ではない拒絶のしかたにジャバウォックは呆れを感じていた。
(一年中なにかしら暴れまわっているけど、納屋で育ったのか?)
「十五年も私の傍にいてそれを言うの?」
 アイジーは《オズ》から帰るための馬車を、坂の下で待っていた。今日一日は自分を探すゼノンズを磁石のように避け続けていたのですっかり疲れてしまった。馭者に言いつけてある時間までまだ十分ほどあったので、白い息を吐きながらそわそわと待っている。
 冬の夕方は暗く、深い深い藍色の絵の具を塗りたくったように重い。けれど街並みに紛れる暖色の灯りが連なる家の真っ赤な屋根を遠目でもわかるほどくっきりと浮かびあがらせる様は絶句するほどに美しかった。肌寒さは好きになれないがこの景色は心底愛せる。黄色い道から続く薄紅色の石畳の果ては、絵本に出てくるような小さな火に映る幸福だった。
 それに比べてアイソーポスの薄瑠璃色の石畳の風情のなさといったら。ただでさえ寒い空気がいっそう寒く感じられて心も体も冷たくなる。オーザなんかは薄瑠璃色の冷たさを愛していたが、アイジーからしてみれば頭がおかしくなったとしか思えない。
 帰り道はより一層肌寒く感じられるのだろうな、と思いながらコート越しの腕を抱いた。
(夏にブランチェスタ=マッカイアと一悶着あったときといいバンダースナッチのときといい。君のそばにいると本当によく騒動に巻きこまれる)
「今日はイレギュラーよ。それこそ私の知るところじゃあないもの」
 そう、今日は、ゼノンズから逃げ回る一日だったのだ――途中までは。
(まあ一理あるだろうね)
 アイジーは今日あったことに耽るように、小さく吐息した。



 ――事は数時間前に遡る。
 遡るほうが、いいだろう――。



「聞いたよ、君、ヘイルと口論になったんだって?」
 偶然《オズ》ですれ違ったジャレッドにそう言われたとき、アイジーはブランチェスタと一緒にいた。
 思えばこうしてジャレッドと話すのは久しぶりな気がする。もともと彼は話すほうではない。そしてもっと言うならアイジーとジャレッドは話すような仲でもない。けれど双子の兄と仲がいい相手にしてみれば、テオよりも随分影が薄いように感じられた。こんなふうに《オズ》で顔を見合わせることも少なくはないというのに。それもそのはず、ジャレッドが《オズ》にいるときはブランチェスタも《オズ》にいることが少なくはなく――つまりアイジーは婚約者である二人に対して遠慮していたのだ。
 しかしジャレッドはそんなことも気にせずに、今日、アイジーに話しかけてきた。しかもブランチェスタに憚らず。
 自分の気の回しすぎだったかと思いながらアイジーはジャレッドに返す。
「どうしてそんなことを知っているの?」
「ヘイルの態度を見てたらなんとなくわかるよ」
「へえ……」
「あと君のお友達のシェルハイマーとハルカッタたちが噂してた」
「は? あの二人が? なんであの二人がそんなことを知っているの」
「知らないって。大方、盗み聞きかなにかでもしてたんじゃないのか?」
 よりにもよって本当に厄介な相手に聞き耳をたてられたものだとアイジーは眉を顰める。けれど別に、誰に知られようと問題はないのだ。アイジーは完全に、ゼノンズ=ヘイルと決別した。それだけの事実さえあればあとはどうだっていい。
 詮索されるのは、あまり好きではないけれど。
「まあいいわ……で、だからなに?」
「別に」ジャレッドは一つ瞬きをして言った。「ただ可哀想なことをすると思っただけ」
「可哀想?」
 アイジーは今度こそ、強く、眉を顰めた。
 自分のついていけそうにない話だと判断したのか、ブランチェスタは小さく口笛を吹きながらきょろきょろと目遊びをする。それに気づいたジャレッドはすぐさま彼女の手首を握り、自分のほうへ引き寄せた。ブランチェスタはぎょっとしてジャレッドを見遣る。けれど彼はこれといった反応を見せずに視線すら返さない。おそらく、ブランチェスタが自分の視界の外へ行くのを心地よく思わなかったのだろう。桃色の空気は似合わないくせにこういうところでロマンス臭いのがアイジーにとっては微笑ましかった。
「ヘイルも悪いやつじゃないのに。ちょっと押しつけがましいところはあるけど、君に対しても友好的で、おまけにフェミニストだ」
「フェミニストならユルヒェヨンカに鼻血を出させたりしないわ」
「え、ユルヒェヨンカ鼻血だしたの?」
 と、ここでようやっとブランチェスタが身を乗り出す。流石に聞き捨てならなかったようで、彼女の形のいい瞳には怒気が孕まれていた。
「ちょっといろいろあってね」
「ゼノンズ=ヘイルのせいで?」
 庇うこともしたくなかったが、かといって“そうなのよ!”とも言いだし辛い。いまのブランチェスタを見る限り、知ってしまえば彼に殴りこみにでもいきそうだ。アイジーとしてはこのまま彼に関わらず、適当な平穏をすごしていたいのだ。積極的に係わろうだなんて冗談じゃない。
 しかし沈黙は肯定として受け取られることは暫しある。例のごとく、アイジーが舌に乗せぬうちに、ブランチェスタは言わんとしたことを理解した。アイジーは控えめに手を挙げる。
「ブランチェスタ、その、落ち着いてね。もう終わったことだもの」
「そういうのって、ユルヒェヨンカの台詞じゃねえ?」面白おかしそうに揶揄する声音ではあったが、ブランチェスタの顔は未だ険しいままだった。「それに落ち着いてるよ。あたしはな。他人のことにとやかく口を挟むほど野暮でもねえし」
 終わったことなら尚更さ、とブランチェスタは首を傾げる。
 ああ、そういえばそうだった。仲間意識が高く情の厚そうなブランチェスタは、案外ドライで自分は自分他人は他人なところがややあるのだ。
「とは言っても、やってくれるな、ヘイルのやつ。ていうかむしろ意外だ。あいつって口ではこまっしゃくれたことぬかしやがるけど、あんまり行動はしないタイプじゃん?」
「あれ。マッカイアってヘイルと親しかったっけ?」
「全然。でも多分、相手はあたしが大嫌いだ」
 ブランチェスタの言葉は正しいのだが、こうもストレートに聞くと、聞かされてるこっちが言葉に詰まる。しかしジャレッドは特に気にしたふうもなく、むしろ合点がいったとでも言いたげな表情で、その言葉に頷いた。
「まあ、そっちよりも」とブランチェスタはアイジーに目を遣る。「落ち着かなきゃいけないのはアイジーなんじゃねえの?」
「は?」アイジーは思わず声をあげた。「私はちゃんと落ち着いているわ」
「どうだかなあ……アイジーってあのゼノンズ=ヘイルのことになるとむきになる気がする」
 アイジーの形の良い唇がきゅっと歪む。
「やめてよ、その、変にゼノンズを意識してる、みたいな言いかた」
「大方ハズレてもないんじゃない?」
「ジャレッドまでなにを言いだすの?」
 アイジーはジャレッドを眇めた。けれどジャレッドは臆したふうでも失言したふうでもなく、まっすぐに自分を見つめてくる。その青い瞳は直線的に硬質で、まるでボルトで締めつけられているかのよう。動揺もしない彼が不愉快で、アイジーは少しだけ腹が立った。
 ジャレッドは意にも解さない無表情でアイジーに返答する。
「意識してるっていうか。いや、正確に言うと、ゼノンズ=ヘイルに対してむきになるんじゃなくて、ゼノンズ=ヘイルだからむきになるんだ」
「なにそれ、言葉遊び?」
「いや」
 ブランチェスタの問いにジャレッドは首を振った。
「まあ君の気持もわからなくはないよ、アイジー」ジャレッドはアイジーに向き直った。「僕だって君と似たような気持ちをヘイルに抱くときがあるから。でも彼の場合は……」
「今日はいやに饒舌なのね、ジャレッド」
 素直な言葉を与えるとジャレッドは少しだけ間を空ける。それから淡々とした表情で「一応、あれでも、先輩だし」と低く言った。
 この件についてはまるでアイジーが悪者だ。ブランチェスタもジャレッドも、ゼノンズに肩入れ――語意が親しすぎるが――しているように思う。まああいつも悪いやつじゃないんだしわだかまりはとっとと解消したほうがいいんじゃない、と青緑の双眸が二つ、饒舌に語りかけてくる。それはそれは、アイジーがなにもわかっていない赤ん坊であるかのように。
 アイジーにごく親しい者なら薄々感づいているだろうが、アイジーに施された情操教育は世間一般ではありえないほどに穴だらけだ。それもそのはず、アイジーは十年以上もの歳月をシフォンドハーゲン邸のなかだけで過ごし、いずれ死んでしまうからとあまり厳しく躾けられてこなかった。最初は娘などと無関心でいた父親も、それまでの懺悔や引け目もあってか、女の子特有の可愛さに我が子は宝だとでも言いだしそうな溺愛ぶりを発揮している。口や態度ではわかりづらいがアイジーとエイーゼとでは接する態度がまるで違う。どちらも我が子に対する愛情に変わりないのだが、エイーゼには矯正で、アイジーには放任で、つまりその形と質が見事に異なっていたのだ。貴族の娘、という態を気にして礼儀作法の一通りは施したが、ものの考え方までは気が回らなかったようで、アイジーとエイーゼの“出来”の差はそれをありありと物語っている。閉じこめられていた十数年の間にマイナスの感情ばかりを溜めこんで、すぐに憎しみだとか妬みだとか怒りだとかが剥き出される人間になってしまった。思えばはじめてブランチェスタと出会ったときも彼女に劣等感を感じていたし、親切にしてくれたシオンには勝手に嫉妬して逆ギレに近い癇癪を起こしている。感情の部分では、アイジーはひどく不完全で未完成で、そして幼く感傷的だ。
 だからこそ周囲は抱くのだろう。
 次の被害者はゼノンズか――そんな呆れにも似た保護心を。


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