ブリキの心臓 | ナノ

2


「んーそっかあ」
「にしても、私が呪われてないように見えるって言ったのは貴女が初めてだわ」
「そうなんだ」
「どうやら私は薄幸そうに見えるらしいからね。見た目って、こういうとき大事だなって、本当に思うわ」
「今となってはアイジーに薄幸だとかか細いだとかのイメージは抱かないけどな」
「正直に言うと、私、ユルヒェヨンカに初めて会ったときから頭が弱そうな子だって思ってたわ……貴女のいう呪いの勘ってこういうことかしら」
「失礼しちゃうよ」お皿にたくさんのお菓子を乗せたユルヒェヨンカがソファーの真後ろで心外そうに言う。「そんなこと言う意地悪なアイジーには一口だってあげないんだから」
 お帰り、という暇も与えず告げられた言葉にアイジーはがばっと振り向いた。頬っぺたを膨らませたユルヒェヨンカが自分を見下ろしている。びっくりしたアイジーはユルヒェヨンカの目を強く見据えて弁解する。
「ち、違うのよ、別に貴女を悪く言っていたんじゃないの」
「知らない。私もう知らない。ブランチェスタにしかこのお菓子はあげません」
「ああ、ごめんなさい。許して、ユルヒェヨンカ」
 神に祈るように両手を丸く握って大仰な反応をするアイジーにユルヒェヨンカはくすりと笑って「許してあげる」と囁いた。
 ユルヒェヨンカはソファの前の低いテーブルに持ってきたお菓子を置く。見ているだけでサクサクとした音が聞こえてきそうなビスケットに美味しそうな匂いを漂わせるラスク。アイジーは迷わずにラスクのほうへと手を伸ばしてそれを一口で食べる。ブランチェスタもひょいと身を乗り出してチョコのたっぷり入ったビスケットを選んで啄んだ。
「私だってもう呪いが解けたんだから、そんな悲しくなるようなことを言わないでほしいな」ユルヒェヨンカもテーブルに肘を置いて座りこむ。「呪いの解けた私って、アイジーからしたらそれはそれはお利口さんになったんでしょうね」
「もう許して」アイジーは苦笑しながら言った。「お利口さんになったっていうより、知らない貴女が出てきたって感じかしら。でも、眠そうな目も声も、相変わらずなのよね」
 アイジーが笑うとブランチェスタも笑った。それからミロを一口飲もうとして、思い出したように唇を放す。
「そういえばユルヒェヨンカ。呪いに憑かれていたときと解けた今、なにか違うことってある?」
「違うこと?」
 ユルヒェヨンカはきょとんとして首を傾げる。
 アイジーはふと寒そうだな、と思って元々彼女が使っていた薄藍色のブランケットをふんわりと肩にかけてあげた。ユルヒェヨンカは嬉しそうに微笑む。彼女のこういう甘そうな笑みがアイジーは大好きだった。
「そう。違うこと。ずっと前から気になってて。呪い持ちの人間が呪いから解放されたら、どんなふうに世界が変わるんだろうって」
 それと逆のことを、アイジーは護衛官のアリス=ヘルコニーから聞かれたことがある。呪い持ちとはどういうものなのか。どんな気持ちなのか。アイジーはそれに対してわからないと答え、そして多分ブランチェスタにしろ似たような答えを返したに違いない。生まれつき呪い持ちの人間には呪いを持ったときそのままの気持ちしかわからない。そうであるときとそうでないときの差異などは想像でしか図ることが出来ない。しかしユルヒェヨンカはどうだろうか。彼女は生まれつき呪い持ちの人間であり、そしてその呪いから解放された人間でもある。云わば彼女は、両方の心地を味わった稀有な人間なのだ。
 ブランチェスタの質問に、アイジーはすこしだけ関心を覚えた。
「やっぱり、劇的に変わったりしたのか? 体が軽くなったりとか、世界が薔薇色に見えたりしたのか?」
 アイジーはソファーから身を乗り出して膝の上に肘をつく。そこに顔をすんと乗せて、ユルヒェヨンカの答えを待った。
「うーん……実を言うと、私にもよくわからなかったりするのね」
 ユルヒェヨンカの答えは期待に反したものだった。彼女の性格や気性が、このような曖昧な答えを捻り出したのかもしれない。
 しかし実際はそうでなく。彼女はどちらかといえば神妙な面持ちと声で、言葉を選ぶように紡いでいく。
「呪いが解けたってわかったときにまず思ったのは、本当なのかな、ってことだったの。ずっと呪われ続けてて、ぼんやりと、きっと一生なおることはないんだろうな、私はずっと《能なし》のままなんだろうなって、そんなふうに思っていたから」ユルヒェヨンカはカップを撫でながら微笑みを浮かべて続ける。「でも頭のなかの白い靄みたいなのがぱって晴れて、いつもなら通せんぼされてた答えがぽんぽんと頭に浮かんできて、“ああ、やっぱり解けたんだな”って、思ってたはず」一拍置いて。「だったの」
 その区切るような物言いにアイジーは眉を寄せた。ブランチェスタも濁った顔をしてユルヒェヨンカの言葉を待っている。
「なんだか、今となってはすごく不思議。なんで私、こんなこともわからなかったんだろうって、こんなことも思いつかなかったんだろうって、頭のなかでいろんな答えやアイデアがぽんぽん浮かんで、まるで昔の私が夢だったように感じられて……そう、まるで幻かお伽話みたいなの」
「お伽話?」
「そう。私たちはただガチョウ婆さんから聞かされたお伽話を真に受けて、子供みたいに無邪気に演じ続けてた、ただのお遊び。そんなふうに、思っちゃうんだ」ユルヒェヨンカは目をつぶる。「だから、なにが違うかって聞かれても、よくわからないの。なんとなくぼやけちゃうっていうか。ブランチェスタだって、一昨日見た夢のことを聞かれても答えられないでしょう?」
 夢、幻、お伽話。少なくともユルヒェヨンカは《カカシの呪い》のことをそんなふうに思っている。自分を能なしたらしめた忌々しい呪いを、懐かしむように語っている。それがなんとなく薄気味悪くて、けれど悪い気分にはならない、不思議な感覚だった。
「……結局、呪いってなんなのかしらね」
 アイジーはぽつんと呟いた。
 ブランチェスタは唸るだけで、なにも返さなかった。
 万代不易森羅万象にも属さない、リアルからもイデアからも脱却したと言える、人の精神や身体及びエートスに先天的な害悪を齎す、神話と言っても過言でない、未だ解明不可能な概念の通称――呪い。しかし異国ではそれを呪いとは呼ばず、それどころか、害悪を齎すものだとすら認識していないのだという。ある国ではそれを《不治の病》といい、ある国ではそれを《念》という。挙句の果てには《神のご加護》とまで称する地域も存在する。
 神のご加護。アイジーの死の呪いが神のご加護だとでも言うのなら、そんなもの小憎らしいとアイジーは一蹴するだろう。しかし異国では確かに、神のご加護と呼ばれている。これはとても不思議なことだった。とても不思議で、怪しくおかしい。
「うん、いいね。私、こういう哲学的なこと大好きだよ」
 ユルヒェヨンカは空気を読まない発言をした。その言葉があんまりおかしいものだから、アイジーもブランチェスタも噴き出してしまった。
「ふふふふっ、本当にユルヒェヨンカって面白い子ね」
「なあに、私ってば本気なんだからね。将来は哲学者にでもなろうかな」
「え、ユニコーンの角を継ぐんじゃねえの?」
「それはきっと旦那さんの仕事だもん」ユルヒェヨンカは歌うように言った。「結婚するかどうかもまだまだ先のことでよくわかんないけどね」
「最近は女性だって働いたり継いだりすることが多いわ。私の友達にエーレブルー家の人間がいるのだけど、確かあそこは女流貴族で代々当主が女なのよ」
「お菓子を作ったり売ったりするのは楽しそうだけど、でも私苦手なの、材料をきっちりして作らなきゃいけないのって」
 甘い匂いとは対照的な苦々しい表情を浮かべる。ブランチェスタはラスクを啄んで「ふーん」と相槌を打った。
「そうか、そういえばうちだって、親愛なるお母様がミレディとして仕切ってるわけだし」
「マッカイアはどう転んでも“ミレディ”でしょうね。アニシナもデルゾラも女なんだもの」
「あたしが乗っ取っちゃうってのもありだよな?」にやりと笑う。「もしかしたら隠れた商才が開花しちゃったりして」
「ならテオにでも教わりなさいな。ああ見えて彼って貿易商の次男坊なんだから」
 アイジーが両手を振って返すとブランチェスタはお腹を抱えて笑った。テオが貴族であるということ自体に笑いが止まらないのかもしれない。それはアイジーとて同感で、頬の緩みを抑えられなかった。
「アイジーは?」ユルヒェヨンカが尋ねる。「アイジーは家を継いだりしないの?」
「有り得ないわ!」アイジーは一オクターブも声を跳ね上げる。「シフォンドハーゲンの次期当主はエイーゼで決まりだもの。それに、土地の所有とか政とか、私なんかに出来っこないわ! きっと無様すぎて笑われてしまうのよ!」
 あまりの言いようにユルヒェヨンカもくすくすと笑った。一口ミロを飲んでから「そっかあ」と告げる。
「シオンは家の薬屋を継ぐだろうし、スタンもそうだろうね。ハレルヤはどうなんだろう……デッド副指揮官と一緒に傭兵をしていたりするのかな」
「副指揮官がそれを許すとは思えねえな。案外コッペリア座で働いてたりして」
 咄嗟に三人が思いついたのは鞭を持ってライオンを宥めようとしながら逆に追い掛け回されているハレルヤの姿だった。三人は同時に吹き出して、窓を割りそうなくらいの大きな声で明るく笑い転げた。





カターサリットサーガラ



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