ブリキの心臓 | ナノ

1


 ストーブの上でサモワールがコトコトと微動している。石炭や薪を使うのが主流なのだろう、海の流木を使った温かな火は鮮やかな青色だった。ランプのガラスの油容器はその色を映し、オーロラの輪を生んでいる。微睡みそうな温度が心地よくて、三人の睫毛はふんわりと伏せていた。
 アイジーとブランチェスタはユルヒェヨンカの家にいた。ただ女の子同士でおしゃべりをしようというのが今回集まったきっかけだった。ただ、外の冷たい冷気と家の中の温かい空気の狭間を体感した三人は、この場でお昼寝をするのがこの世の幸せだろうという表情のまま、ほろほろと目を彷徨わせている。
 白樺の木材にチェリーと象牙色の柔らかな布で作り上げられた家具たちは、まるで極上のベッドのよう。ふわふわの糸で織られたコーデュロイのクッションは、綿菓子によく似た枕だった。数刻前までは、初めて訪れる友達の家に目を輝かせていたアイジーとブランチェスタだが、その居心地の良さに緊張感を抜かれ、すっかりくつろいでいる。黒地に貝殻色で描かれた写実的なミニアチュールが戸棚に飾られていて、可愛らしい陶磁器のカップのなかのミロの湯気がふわふわとその絵に靄をかける。
「……お菓子、いる?」
 ユルヒェヨンカが眠そうな声で言った。彼女の言うお菓子とはきっとユニコーンの角のものだろう。口寂しくなってきたところだし、甘さを堪能するにはもってこいのタイミングだった。
「ビスケット食べたい」ソファーに凭れるブランチェスタが言った。「出来ればチョコチップのやつがいいな」
「アイジーは?」
「ラスクがいいわ。コンソメの」
 ちょっと待っててね、と言ってユルヒェヨンカはソファーから降りる。薄藍色のブランケットがするりとカーペットの上に落ちた。ブランチェスタはそれをソファーの上へと戻す。そのついでに壁にかかった皿の時計に目を遣ると、時刻は夕方の四時だった。ブランチェスタはソファーのレースを手遊びながらぼんやりとした声で言う。
「居心地が良すぎる」
 どちらかといえば不機嫌なほうに入る調子。まるでなにかを責めるみたいに、ブランチェスタはソファーのクッションに顔を埋めた。
「ヤレイ家の、こう、ふわっふわした空気が溢れてる……」
「帰りたくなくなるわね」
「まるで蟻地獄だぜ」ブランチェスタは少しだけ顔を上げた。「そして今から餌付けされるときてる」
「どうしたのブランチェスタ、なんだかとってもおかしいわ」
「この貸してもらったショールにしろ、チョコレートみたいな甘い匂いが空腹を呼び覚ますんだ……」
「本当にどうしたのブランチェスタ」
「ここの家の子になりたい」
「私、貴女がそんなこと言うの初めて聞いたわ」
 あまり洒落にならないことを言うブランチェスタに苦い顔をしながらアイジーはソファーに凭れかかった。
 しかし、ブランチェスタの言うことも頷ける。この妙に落ち着く空間は自分を虜にする麻薬のようだ。この場にストロベリークーヘンなどかあったら、アイジーはまず間違いなく心を挫かれただろう。それほどまでに魅力的なこの空間にアイジーは感嘆の溜息をつく。もうこのまま深く眠りたい。
「それにしても、こうやって三人で寛いだりするのは久しぶりだな」
「そうねえ……《オズ》では会うけど、私は大概紙とペンを持って睨めっこしてる状態だものね」
「今はなにを調べてるの?」
「調べているというか、組み立ててるの。仮説をね」
 アイジーはソファーの背もたれに頭を乗せて天井を仰ぐように言う。
「それってジャバウォックの呪いの?」
「……ええ、そうよ」
 アイジーは隠すように目を閉じる。
 本当は、《ジャバウォックの呪い》自体は片がついているのだ。名前のない英雄に殺される呪い。ならば、その名前のない英雄に注意していればいい。そういうふうに完結させていて、アイジーの中では古い悩みとなっていた。問題は、《災厄の子》のほうだ。誰かに危害を及ぼすことのない呪いを与えられたアイジーが、どうして災厄の子たり得るのか。そして、災厄の子である自分の災厄が、どうしてエイーゼだけに作用するのか。一方が生きていれば一方は死ななければならない。これはアイジーとエイーゼのことを言っている。エイーゼに危害が加わるのに、どうして他の人間には無効なのか。ずっと思考を続けているのはその件についてだ。
 しかしアイジーはまだ、自分が災厄子であることを、ブランチェスタやユルヒェヨンカには話していない。どうにかこうにか話を濁して、それらしい返答をするしかなかったのだ。
「未だにピンとこないんだよなあ、アイジーが死の呪いに憑かれてるなんて」
「まあ、そうよね、いきなり生死に関わる問題を聞かされてもね……」
「いやいや、そういう意味じゃなくてだな」
 ブランチェスタは唸るような声を出す。なにか言うのを躊躇っているようだった。それから「不謹慎なこと言うぞ」と前置きしてから、とんでもないことをアイジーに言い放つ。
「本当は呪いになんてかかってないんじゃないかって、思うことがある」
 それはアイジーを硬直させるには十分だった。閉じていた目を見開かせたままなにも言えないでいる。その反応を見たブランチェスタは弁明でもするように「いや、おかしなことを言ってるのはわかってるんだ」と話を続ける。
「でも、それくらい違和感のあることなんだ。アイジーが死ぬかもしれない、っていうのは。ほら。前のユルヒェヨンカなんかは、いかにもカカシの呪いにかかってそうだった。いかにも、な。でも今はそんなことはない、一目見ただけで呪い持ちじゃないってわかるだろ?」
「それって思いこみじゃない? 呪いに憑かれていた彼女と呪いの解けた彼女、両方とも知ってるから自己暗示してるだけなのかも」
「それを言われればだんまりするしかねえけど、アイジーの場合はちょっと特別で……アイジーよりもむしろ、シフォンドハーゲンのほうが……お前の兄貴のほうが、あたしからしてみれば死にそうに見える」
 アイジーは強く息を止める。まるで自分が災厄の子であるのを知っているかのような、核心をついた恐ろしい勘繰りに、とてつもない寒気を感じたのだ。
「ブランチェスタ……」動揺を悟られないように諌める。「怒るわよ」
「ごめんな」本当に詫びているような声だった。「でも、それくらい、信じられないことなんだ、アイジーがいなくなるなんて」
 微妙な空気になってしまって、なんとなく気まずい。ブランチェスタが自分の死を悲しんでいるかと思うと言葉を選ぶようになって、そして結局はなにも思い浮かばない。
「……双子だからかも」
 ブランチェスタはぽつんと言った。アイジーは背を浮かせて首を傾げる。
「呪いに取り憑かれてるアイジーの双子だから、そんなふうに思うだけかも」
「それじゃあまるでグレイス姉弟じゃない」
 アイジーはくすっと笑って言った。
「あの二人みたいな呪いっぽい呪いじゃなくて、ほら、双子だとなにか繋がりがあったりするかもだろ?」
「言っておくけど、私もエイーゼも双子の神秘は信じてないわよ」
「双子の神秘ってあれだよな? 喋らせたら息ぴったりだったり、お互いに考えてることがわかったりするんだ。あたしはあると思うな」
「うーん」
 アイジーは答えを考えこむふりをして、双子の神秘の可能性について頭を捻ってみた。
 もし双子の神秘なんてものがあったとして、アイジーの死とエイーゼの死がどこかしら繋がっていたとする。アイジーが死の呪いに犯されているから、エイーゼにも命の危険が及ぶ。なるほど、納得できる。所謂、呪いの平行線上の垂れ流し、のような現象が起きているわけだ。しかしこの仮定には矛盾が生じる。もし双子の神秘があるとすれば、エイーゼが死ぬ理由は名前のない英雄ということになる。これではアイジーがエイーゼの災厄の子たる事実にはならない。アイジーも《ジャバウォック》も、エイーゼの生を犯さない。アイジーは災厄の子ではなくなってしまう。
 あとはエイーゼが呪われている、という仮定だが、それも話に食い違いが生まれる。それ以前にもしエイーゼが呪い持ちなのだとしたら預言者にそう告げられているはずだ。やはりブランチェスタの勘繰りには無理がある。
「やっぱりないと思うわ」
 第一、お互いの考えていることがわかるのなら、あの何年にも及んだ冷戦が始まるわけがなかったのだ。エイーゼも言っていた。双子の神秘は叶わない。


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