ブリキの心臓 | ナノ

2


「え、ええぇえぇ……エイーゼ……? お父様ぁ……?」
 声を上げても二人の反応はない。アイジーは人波に塗れて今さっきいた場所からも引き離される。よくわからない通りに入ってしまった。屋台がたくさん並んでいてみんな忙しそうだ。見慣れないものに胸をときめかせたが、見馴れないものに泣きそうになった。
 迷子になってしまったのだ。
「……お父様……お父様ぁ……」
 アイジーは外の世界を知らない。赤ん坊の頃に預言者の元へ行ったのをノーカウントにしたら、今日が初めての外出した日だった。街を一人で練り歩けるだけの知識も体力も度胸もない。アイジーは実質、見も知らぬ世界で一人ぼっちになってしまった。
 どれだけ歩いてもさっきの道に戻れない。それどころか、さっきの道すら記憶に薄い。初めての街並などアイジーにとっては全て同じものだった。せめて誰かに仕立て屋の場所を聞こうと思ったが、内気で人見知りなアイジーに出来るはずもない。経験値。まずアイジーに足りないと言えるものだ。経験値が無さすぎてマイナスの域にまで突入しているアイジーが、一人でこの状況を打開出来るわけがなかった。
 アイジーの目の奥に熱いものが走った。それは僅かに視界を歪ませて涙袋を濡らす。
 このまま二人に会えなかったらどうしよう。
 このまま一人ぼっちだったらどうしよう。
 このまま二人が帰ってしまったらどうしよう。
 このまま一人で死んでしまったらどうしよう。
 怖くて怖くて仕方がなかった。泣き出したい気持ちでいっぱいになった。十五歳にもなって恥ずかしい、という感情がなんとかそれを阻止したがその強がりもいつまでもつかわからない。初めて迷子を経験した。まさかこんなに心細くて寂しいものだとは思わなかった。永遠に家に帰れないような気がしたし、一瞬で世界が寒々と冷えた気がした。アイジーはぎゅっと裾を握り締める。
「…………う」
 気弱な声を漏らす。
 見知らぬ人間の群れが恐ろしくて仕方がなかった。
 とにかく弱気になっている暇などない、早くエイーゼとオーザを見つけ出さなくては。
 少し広い道に出る。道というよりは広場に近かった。相変わらず見慣れなくて心細いのには変わらないが、人口密度が低いという点においてはアイジーを安心させるポイントとなった。アイジーは肩を下ろして歩き出す。天気はまだ悪いが陽も少し出てきた。ずっと歩いていれば二人を見つけられるような、そんな気がしてくる。
「お嬢ちゃん可愛いね、葡萄を一ついかがかい?」
「えっ」
 声のあったほうを振り返ると気前の良さそうな男が顔をしわくちゃにして微笑んでいた。屋台の中にいて、シートの影が灰色に染まっている。果物屋のようだった。気さくな言葉にアイジーは頬を緩めたが、すぐに申し訳なさそうに首を振る。
「いけませんわ。私、今お金を持ってないんです」
「アハハハッ、気にすんなって。サービスサービス! こんな可愛いお嬢ちゃんは初めてだよ、そら、一つ持ってきな!」
 男は小さな蔓についた十粒ほどの葡萄をアイジーへと投げる。アイジーは震えながらキャッチして「ありがとうございます」と笑った。その葡萄は今までに見たことのない見た目をしていた。深い青紫色の粒はまるで宝石のようだ、透けるように光っていて、中の蜂蜜に似た果肉がきらきらと反射している。日に当てると薄いピンクを帯びて、影に近づけると果肉が黄金色に煌めいた。なんて綺麗なの。食べるのを悔やまれるような美しさにアイジーは感嘆した。
「とっても綺麗……ここの果物は全部こんなに綺麗なんです?」
「あ? ああ、そうだけど?」
 当たり前のことを尋ねられたような微妙な反応をするアイジー。これがオーザたちが“野蛮人の知恵”といって馬鹿にしたものの美しさだ。
「素晴らしいですわ!」
「そりゃまあ、宝石商のマッカイアとのコラボブランドだしねぇ」
 聞き慣れない名前に首を傾げたが、アイジーにとってはそれどころではなかった。その美しい葡萄は一口食べた途端、楽園のような味を咥内で羽を伸ばす。果汁が染み渡り、上品な甘さは喉をするりと抜けて、胃に落ちた瞬間淡い快感を湛えた。こんなに美味しいものを初めて食べた。なんにも言えない。今まで生きていてよかった。オーザとイズに心底感謝したい気持ちになった。
「おいしい……」
「そうだろうそうだろう」
 頬を緩めるアイジーに男はうんうんと頷いた。アイジーはもう一口葡萄を啄む。さっきと全く同じ感動が舌で転がった。
「本当に素晴らしいわ……こんな美味しいもの、生まれて初めて食べましたわ」
「この辺りじゃ普通に売ってるんだがねぇ」
「ああ、だったらしょうがないわ。実は私、この辺りに来たのが今日初めてなんですのよ!」
 今日一番の幸福を自慢する子供みたいに、アイジーは声を強めた。迷子になってさっきまでぴーぴー言っていた人間とは思えない反応だ。勿論当の本人は自分が迷子だったことなど葡萄の感動により忘れているし、果物屋の男にしてみたところで初対面の相手の内情を知っている筈もない。
「なるほど。そうかそうか、見慣れない顔だと思ったら……お嬢ちゃんはどこから来たんだい?」
「アイソーポスから」
 ――――その瞬間。
 世界が切り替わったかのように、沈静した。
 果物屋の男は表情という表情を殺ぎ落として「アイソーポス……?」と反芻している。周りに屋台を出していた人間も眉を曇らせては厭そうにアイジーを窺っていた。気付けば回りはアイジーを取り囲むように――避けるように、ばらばらと蠢いている。アイジーはわけがわからなかった。急に態度を悪くする目の前の男も、それに便乗するような周りの反応も、なにもかも理解できなかった。ただ自分を見る目の鋭さだけは確かで、思わず上擦った声を上げてしまう。
「……へぇん。道理で。ご立派な服を着ていると思ったぜ、貴族様ぁ?」
「え……っ?」
「何が金を持ってないだこの泥棒……とっとと金を払いやがれ」
「な、にを」
 急変したその態度にアイジーは肩を震わせた。怖かった。まるで異世界に飛ばされたかのようなひやりとした心地がした。どうしてこうなってしまったのかがわからなくて、頭を必死に回転させる。
「私、なにか……」
「なにが素晴らしいだ、からかうのもいい加減にしろよ、所詮野蛮人の知恵だとでも思って笑ってたんだろ!?」
「ち、」違いますと、言いたかった。それでも急に怒鳴られたものだから怖くて声が出ない。他人からこんなふうに怒号を浴びせられるのは初めてのことだった。
 辺りを見回す。誰も彼も目が冷たくて凍えそうだ。だんだんと顔を俯かせる。声が聞こえた――アイソーポスから来た貴族様だってさ。小汚い庶民の街になんの御用かしら。嫌味よねぇ、あんな子供が着飾っちゃって。うぜってんだよなあ、本当――今までアイジーが耳にしたこともないような罵倒だった。こんなむごい言葉を並べられるものなのかと絶句したくらいだ。ぼそぼそと紡がれる自分への冷罵にアイジーは戦慄する。
 瞬間。脚になにか熱が走った。熱くて熱くて、その熱のあったところを押さえ込む。足元にころころと硬そうな石が転がった。押さえた手を退けてみる。ぱっくりと割れて、真っ赤な血が出ていた。
「……っ」
 クスクスと意地の悪そうな声が聞こえた。誰が投げたのかと問い詰めたかったけれど、怖くて怖くて顔を上げられない。
 怪我をしているのに誰も手を貸そうとしない。石を投げた人間を責めようともしない。ただじっと冷ややかにアイジーを見つめて、ぺっと地べたに唾を吐き捨てた。
「帰れ」
 どこからか声が上がった。それに溶け合いまぐわうように、「帰れ」「帰れ!」と次々に声が増えていく。ビブラートするみたいに重なって。帰れ。帰れ。とっとと帰れ。アイジーは目尻から涙を零す。怖くて怖くて仕方がない。体は震えっぱなしで情けない状態だった。
 今日は素敵な一日になると思っていたのに。きっと素晴らしい日になると思っていたのに。言われたとおり早く帰りたかった。こんな扱いを受けるくらいなら、ずっと家に閉じ篭もっていたかった。それでもアイジーは現在進行形で迷子の身の上だし、馬車を置いてある通りの名前すら知らない。誰かに頼るしかない。そして、ここにはアイジーが頼るのを笑って許してくれるような、親切な人間はいないようだった。

「“原始の石頭”様は早く帰れ!」

 そんな言葉が鼓膜を揺らしたあと、背中に重い衝撃が走った。途端なにかが弾ける音。周りからはドッと笑いが爆発して、心底愉快そうに手を叩いている。アイジーは背中をやんわりと撫でた。コートの心地よい肌触りがするはずだった。しかし、そんなものはなく、ただべったりと――トマトだったものが背筋を汚していた。どろりと溶け出して手から滴る。
 見ず知らずの人間からトマトを投げつけられたのだ。
 そして、それを――周りは嗤っている。
 胸から込みあがってくる熱は口を通過し、目の奥を刺激して水を溢れさせる。彼らは口々に「原始の石頭」と連呼しているが、アイジーにとってはなんのことかさっぱりだった。それでも彼らはげらげらと笑っているし、中には「もう一個投げてやれ!」なんて言葉すら耳に入る。惨めだ。酷く惨めだった。胸の中を幽霊のようなものが駆け走る。顔はものすごく熱いのに、手先は凍るように冷たかった。なにを言われたのかはちっともわからない。どういう意味なのかも理解できない。でも彼らの高笑いを見て、確信する。彼らは自分たちの物差しで――彼らにしか知り得ない価値観で――アイジーを蔑んだのだ。これではアイジーは、怒ることすら出来ない。
 拍手と歓声と笑い声は停滞の色を見せない。心の底からアイジーを侮蔑し冷罵している。恥ずかしくて悔しくて身が焼けそうだった。思わず嗚咽すら喉から漏れ出す。


「なにやってんだ!」


 そのとき、ぱしんっと硬い手で腕を掴まれた。急に身体を持ち上げられて強引に走らされる。
 自分を蔑んでいた群集を猛スピードで駆け抜けて、果物屋の前から遠ざかっていく。なにが起きたのかちっとも理解できなかった。自分の腕を引く人間の後姿を見る。
 蕩けるようなミルクティー色の髪をしている。元気の良さそうなベストにサルエルを履いた、爽やかな見目の少年だった。ずっと走って走って、橋の中腹にまで辿り着いたとき、初めて少年は足を止めて、アイジーの顔を覗き込む。
 黄金の瞳をしていた。今まで見たどんな金貨よりも磨き抜かれたような美しい黄金だ。背丈や雰囲気から一、二歳ほど年上な感じがしたが、その柔らかそうな髪や目の形は外で遊びまわる子供らしいそれだ。精悍な顔つきは呆れ顔を映し出していて、「お前さんなあ」と言葉を紡ぐ。
「あれはあっちも酷いが、お前さんも悪いぞ。お前さんたちが馬鹿にしてる野蛮人だって真剣に商売してんだよ。あんなからかうような真似は」「からかってなんかないわ!」
 なにがなんだかわからなかったけれど、アイジーはやっと理解した。さっきの自分の言動が、彼らのトリガーになったに違いない。なにが悪かったかまでは推測の仕様がないけれど、多分そこは、貴族と庶民の険悪さに問題がある。
「私、本当に感動したのよ! あんなに綺麗なものは生まれて初めてだったわ! 確かに私は貴族でお金持ちなんだろうけどその気持ちは変わらない、あれを作った人達はきっと神様か魔法使いに違いないわ、野蛮人だなんてそんなこと、思うわけないじゃない!」
 声を荒げるアイジーに、少年は目を丸くした。
 その反応を見て初めてアイジーは自分が何をしてしまったのか理解する。
「あ、いえ、その」
 ごめんなさい、そう言いたい。それでもこんなに叫んでしまった以上、今更態度をひっくり返すなんてはしたない。罪悪感と後悔が心を蝕む中、目の前の少年は「プッ」と噴き出した。
「プッ……ふふ、く……!」
「……な、なにかしら」
「く……いや、ごめんよ。どうやら俺は勘違いをしていたみたいだ。頭の硬ーい貴族様の中にも、君みたいな酔狂なやつがいるなんてね」
 おかしそうに肩を震わす少年に、アイジーは目を丸くした。
「気を害して悪かったよ。謝る。そうだね、君は何も悪くなかった、誇っていいよ、君は卑劣なこと一つせずに彼らに勝つことが出来たんだ。君という大事なファンを失った彼らのほうが可哀想ってもんさ」
 そんな頓知のようなことを言う少年は、可愛らしくニッコリと笑う。
 まるで光が差したかのような神々しさだった。
 さっきまでの醜い、どろついた感情が、じわじわ焼けるように焦がされていく。
 曇り空から太陽が覗く。目が痛いくらいに眩しくて、やみきらない雨の霞を照らし出し、まるでダイヤモンドダストのように空中を照らし出す。あんまり綺麗なものだから、アイジーは息をするのを忘れてしまっていた。
「俺はシオノエル。シオノエル=ケッテンクラート。どうかシオンと呼んでくれ」
 そう言ってシオンは求めるように手を差し出した。無知で無力な自分を救ってくれた、優しい手だった。





金色の少年



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