ブリキの心臓 | ナノ

1


 雨上がりの空は不思議な色をしていた。空は濁っているのに空気だけはほんのり黄色くて、霞のような雨粒がなけなしの煌きを放っている。アイソーポスの薄瑠璃とは違う薄紅色の石畳をじっと見つめながら、アイジーは風が吹きぬける音に耳をすませた。
 今日は約束通りオーザとエイーゼとアイジーの三人でグリムにまで行く日だった。サファイアブルーのワンピースにアプリコットブラウンのコートを羽織り、深い紺色のベレー帽を被るアイジーはビスクドールのように可愛らしかった。グリムの街を練り歩くとき誰もがアイジーを振り返っていたし、その端整な顔立ちから目を離せずにいた。そして彼女と瓜二つなエイーゼをも視界に捉え、まるで天使のような双子だと感嘆の吐息を漏らす。その羨望と敬愛の眼差しに、オーザはひっそりと口角を上げた。
「お父様、あれはなんでしょう、とってもいい匂いがするわ!」
「あんな野蛮な食べ物は私たちの口には合わない」
「まあお父様、あの人達は一体なんなのかしら!」
「多分サーカスの団員だな、相変わらず珍奇な形をしている、滑稽極まりない」
「おっ、お父様、あれはなに!? よくわからない動物がいるわ……!」
「よくわからない動物? なにを…………本当だ……あれはなんだ……馬のくせに翼が生えているぞ……ペガサスか……異種交配だな、恐ろしいこと極まりないな、野蛮人の知恵め……!」
「ねえ、お父様、あれは!?」
 目にする全てが新鮮で、ここはまるでフロンティアだと目を輝かせるアイジーに、エイーゼは羞恥心を覚えた。さっきから人の目を引いてばかりだ。声が大きすぎる。やっぱり馬鹿だ。恥ずかしいやつめ。今すぐこの場から立ち去ってしまいたい気持ちを押さえ付けて、エイーゼははしゃいでばかりのアイジーの背を見遣る。
 初めての風景にときめかずにはいられないのか常時あの調子だった。フラミンゴの羽のようだと言った石畳の色も、自分の住む屋敷よりは幾分も小さな家の並びも、綺麗だわ可愛いわなんて素敵なの、そんな賛美ばかりを唇から零している。馬車に乗っていたときからテンションが高くて、小さな屋台を見つけた途端、まるで宝石でも拾ってきたかのようなウブな反応をして見せた。なにも知らない、なにもわからない、ただ初めての外の世界に目を煌めかせている、馬鹿な妹。
 エイーゼは今日、何故アイジーがここにいるのかがわからなかった。オーザの反応を見るかぎりでは、オーザがなにかしたには違いないのだが、それでもその全貌を掴みきれずにいる。グリムに着いてからもオーザとアイジーの会話に耳をすませていたが、特にこれといった手がかりになりそうなものは見当たらなかった。エイーゼは聡い子だ。大人達が“所詮子供だから”と漏らす小難しい時事や社交界での事件の殆どを理解出来たし、数少ない会話からその深層を掴むすべにも長けていた。しかしオーザとアイジーの会話からはなにも掴めそうにない。こんなことは初めてだった。もしかすると、父親のオーザですらその全貌を掴んでいないのでは――そう考えてエイーゼは肩を竦めた。だとしたらお手上げだ。そんな会話で状況を把握できるわけがない。全てはアイジーが握っていて、そしてそのアイジーは周りの景色を目に焼き付けるのに忙しいご様子だ。さっきから中身のないことばかりを幸せそうに叫んでいる。どうしようもなかった。
 エイーゼは状況把握を諦めて今すべきことに従事することにした。
「お父様、この馬鹿は放っておきましょう。真夜中になっても仕立て屋に着きそうにない」
「それもそうだな」
 そうは言いつつも、オーザはアイジーに手を引かれながら、あれはなにこれはなにと質問攻めにされている。なにがそれもそうだなだ。
 エイーゼは溜息をついて短くアイジーに言い捨てた。
「お前に付き合ってる暇はない。いい加減落ち着け」
 その冷たい響きにアイジーは肩を震わせる。さっきまでの紅潮が嘘だったかのように黙り込んで、小さく「ごめんなさい」と返した。仕立て屋に向かって歩き出したときにはもうアイジーは別人のようだった。ただ歩いているだけの人形のようで、どんなに珍しいものを目にしても顔を上げようとすらしない。その急変ぶりにオーザは吐息した。
 子供の躾の大半をイズに任せているとはいえ、オーザも父親だ、ある日を境に二人の仲が氷結してしまったことには気づいていた。あれだけエイーゼにべったりで、“大きくなったらエイーゼと結婚するの!”と豪語していたアイジーが、その名前を呼ぶことすらなくなった。あれだけアイジーを甘やかして、困ったふうに肩を竦めながらも決してアイジーを拒まなかったエイーゼが、あからさまに冷たい態度をとっていた。災厄の子だと知ってから――だったと思う。アイジーが災厄の子だと知ってから、全てが変わってしまった。なにも知らない、なにも変わらない、けれどとても満たされていた、七歳の頃までは。今やこの双子の兄妹は冷戦状態にある。夫婦の不和は家庭の不和だが、兄妹の不和は平穏の不和だ。いずれ死んでしまう妹――だからと言って、このままで終わっていい筈がない。けれど仲のいいまま死んでしまえば悲しみに暮れ、辛い思いをするだろう。どちらが最善なのか、オーザには判断がつかなかった。
「エイーゼの仕立てが終わったら、アイジーにも服を買ってやろう」
「え? どうしたのお父様、いきなりそんなことをおっしゃって」
 暗に“今買っても私はいずれ死ぬんですよ”と諭してくる娘に歯痒さが増したが、それに気付かないふりをしてオーザは答える。
「誕生日に着るためのものだ」
「あら嫌だわ。私のドレッサーにはお父様からいただいたまだ着ていないドレスが五十着は眠っていてよ」
「その五十着よりもいっとう素晴らしい服を着てほしいのだ」
 オーザは笑う。
「そうだな……出来ることなら白がいい。それも真っ白なものだ」
「もう、お父様ったら。いつも私に白を着せたがるんですから」
「エイーゼには黒を着てもらう。これで異論はあるまい」
 どさくさに紛れてエイーゼにまで趣味を強いるがそれを「勿論ですわ」とアイジーは受け流す。
 エイーゼには黒。
 アイジーには白。
 それが昔からの決まりだった。
 そこに両親二人は、決して見ることのないアイジーの花嫁姿を見出だしていたのだ。エイーゼに黒を勧めるのは花婿を重ねているからだろう。どうせなら白を勧めればいいのにエイーゼに黒を勧めるのは、喪に服すのを兼ねているからかもしれない。黒と白のコントラスト、二人一緒に並ぶ様は、オーザとイズにとって思い出深いものだった。
「ああ、もうそろそろ着く……にしても今日は混んでいるな。はぐれないように注意しろアイジー」
「はい、お父様」
 だんだんと人通りの多くなってきた道をアイジーは必死にもがきながら歩く。普通の人間ならもがくほど必死にならずとも歩くことは出来るだろう。だがアイジーは違った。アイジーにとって外の世界に出るのは初めてのことであり、一度に夥しい数の人間とすれ違うのも初めてのことだった。自分が思っていたよりも世界は広かったし、また、自分が思っていたよりも人間はたくさん生きていた。そんな発見を噛み締めながら慣れない道を揉まれるのは、アイジーからしてみれば重労働だった。
 もう既にアイジーはエイーゼとオーザから数メートルも離れたところにいる。早く追いつきたいけれど、肩がぶつかるたびに謝っているアイジーは先々突き進んでいく二人のところへは到底辿り着きそうになかった。
「…………ジャレッドとテオもいる、……おい! ジャレッド! テオ!」
「待て、エイーゼ!」
 やっと捕まえようとしたときにエイーゼもオーザも歩みのスピードを上げた。エイーゼの友達らしき人間へと近づいていく。
「ま、待って……」
 人混みに酔ったのか、アイジーの足はおぼつかなかった。頭をぐるぐると回しすぎたし、上下にぺこぽこ動かしすぎた。やっとまともに立ち直したと思った途端。
「…………え、……えっ?」
 二人と、はぐれてしまった。


× |
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -